先日(3/29)の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄に「国家に領有される個人」と題する「寄稿」があった。書いたのは「小説家・李琴峰」。今年33歳になる台湾生まれの作家。「ウクライナ侵略戦争という事態について。私は言葉を持たない。……これから書くのは眼前の事態に対する論評ではなく、あくまで私個人の体験や思考に過ぎない」と前振りをして、台湾の高校における(男女それぞれに行われる)「軍事訓練」の様子を具体的に記し、こう続ける。
《……民主化以降の時代に生まれ、なまじ民主主義と自由主義というものを知った私にとって、軍隊の色に染まっているそれらの事物はひどく心地の悪いものだった》
この感触は、戦中生まれ戦後育ちの、現在高齢世代にとっても似たような響きをもつ。《それらは一つの事実を突きつける--私の身体は私だけのものではなく、国家という得体の知れない巨大なものによって領有されている。……必要があれば、国家はいつでも私の身体を徴用し、「愛国」「国を守る」という大義名分の下で、好きなように使うことができ、場合によっては死なせることも出来る》
と、李琴峰は発見したように言い、「戦争が起こるということは、個人の身体に対する国家の領有権が極限まで拡張するということだ」とウクライナを重ねて認識する。
これは「軍事訓練」に限らない。2月24日以降にTV画面に映し出されるウクライナの街をはじめて見て、なんだ私が住む浦和の街よりもはるかに都会ではないかと最初、感嘆した。ところが一月以上経ったいま、TV画面の戦場の街を見て、個人の身体ばかりか、人の世界のすべてを(あたかも領有しているかのように)戦争が破壊していることを私は感じる。ロシアが破壊しているのだが、戦争が破壊していると私は受け止めている。どういうことか?
戦争を仕掛けたのはロシアであるが、戦争となったときウクライナは当事者だ。いやじつは、ウクライナを支援する国々もまた、当事者だ。中立を守るという中国やインドもまた、そういう立ち位置での当事者である。それは(情報化世界において)、コト(戦争事態)を共有しているという意味で当事者なのだが、その事態を共有する強弱、厚さ薄さが、当事者性の違いに表れる。国々と個人との当事者性の違いは、明らかにある。国際関係における主体性が異なるからだ。国家は国際関係のプレーヤーとして戦況にかかわるモメントをもっている。他方、個々人の関わり方は戦争事態に翻弄される人々(ピープル)を(局面の断片において、いくらかでも)救済する道を拓くことに通じている。
このとき、戦況の方が明らかに戦争事態の全体性に及ぶと考えられるから、国家の主体性が問われもするのだが、個々人の関わり方が(国家に領有されている個人の身体にとって救済として)より真実性に近いから、こうした映像が流れると、観ている私たちは胸を打たれる。これは、「個人の身体ばかりか、人の世界のすべてを(あたかも領有しているかのように)戦争が破壊している」事態へのわが身の応答である。そして、ここが私の立ち位置だと思う。
李琴峰が私と同じように考えているかどうかは、分からない。彼女は「国家とは一種の信仰だ」とみて、「私は国家を信仰しない。私が信仰しているのは自由だ」と宣言する。さらに続けて
《自由というものをひとまず、「何者にも領有され支配されない感覚」や「自分の生から死まで自分で決められる状態」と定義しよう》
と自己規定して、「自由を信仰するのは、国家を信仰するよりも遙かに難しい」と話を進める。なぜなら「国家による個人の領有は、端的に事実として存在している」からとみている。
こうした記述を読むと私は、前者はまずその通りだとしても、後者の「国家による個人の領有は、端的に事実として存在している」というのには、李琴峰の台湾において身に刻んできた累々たる重さを感じる。それはたぶん、脱ぎ捨てるに四苦八苦するほどの自分との戦いを必要としたのではないかと、わが身を振り返っても思うからだ。そう思うと、李琴峰とむしろ反対の感懐を抱く。自由を信仰するのは、国家を信仰するよりも遙かに容易だ、と。
いや、むしろ「自由」と「国家」への幻想を対立させて考えるより、国家の領有する身体という「事実」は、李琴峰の身に刻まれているはず。それをどう脱ぎ捨てて自由への信仰に飛翔したのか、そこを語らないと、ただ単なる自己規定(自己限定)した宣言でしかない。「小説家」という肩書きがあるから「私は自由を信仰し、個人の語りを紡ぐ」と言い放つことでも、なるほどこの方の創作作法だと理解してもらえるであろう。だが、普通の市井の人であった場合、そう宣言したからと言って、「ふ~ん、それで?」(それにどういう意味があるんだ?)と疑問を呈されておしまいである。大切なのは、身に刻まれた「事実」をどう剥ぎ取って「自由への信仰」に至ったのか、そこまで言及しないと、人々へのメッセージとはなり得ない。ただ「信じなさい」という呼びかけにしかならない。
確かに「信仰」は勁い。ロシアの人々がウクライナのナオナチの暴虐に対抗して軍事行動を起こしていると信じきっているのを知ったり、80%の人々がプーチンを支持していると聞いたりすると、国家に囲われて生きていくしかない(私同様の)人々の身に刻まれた環境という「事実」の強烈さを、あらためて思い知らされる。私は私の暮らす環境を、生活的社会と統治的国家に分節化して考えることで、身に刻まれた刻印を剥ぎ取る第一歩を歩き出したと(70年以上前を)思っている。
この若い作家は、その辺りをどう考えているのだろうと、気になる。というのは、台湾に踏みとどまって、オープン・ガバメントを主導するオードリー・タンという、やはり若い人の言動に注目しているからだ。ぜひ、その点を引き続き語り紡いで貰いたい。