2022年4月21日木曜日

心裡を歩いた。

 昨日(4/20)大谷石採石場跡を訪ねた。入口から石の階段を数段下りつづく踊り場を緩やかに降りるを繰り返して、ゆっくりと下へ進む。暗闇に目が慣れてくると、二十メートル以上も上の天井まで広がる巨大な空間の壁面が、ことごとく細かな手彫りの跡を残していることに気づく。床面の石は乾いていて滑らない。所々に設えられた灯りがその巨大さを標すように下の方に続いている。

 あっ、これは「わたし」の心裡だと思った。手彫りのあとは時間の堆積、踏み歩いた「わたし」の痕跡。だれと、いつ、なにがあってこうなったかはすっかり忘れたが、ひとつひとつが、たしかに痕跡として刻まれている。そうか、心裡というのは、無意識でもある。今そこに降りたって浸っているのだと感じた。

 言葉はなくてもいい。ほのかな灯りがありさえすれば、わが身の裡に刻まれた人類史とも謂うべき痕跡を感じることができる。

 でも、「わたし」って、こんなに乾いていたのかと、ぷかりと問いが泡のように浮かんできた。一番下に降り立ったとき、その問いの応えがみえてきた。最下層に水が溜まっていたのだ。水溜まりではない。地底湖と、それを識る人は呼んでいたし地底湖をボートで繰り出すツアーもあるというから、相当に奥行きをもっているのであろう。長年の手彫りの痕跡と共に湧き起こった感情の気泡が、これまた年を重ねてゆっくりと結露し、水滴となって溜まり、こうした地底湖をなしているのか、と。さざ波もたてず鎮まっている。乾いているわけじゃないんだ。

 我思う・・・のまえに、われ感じる故に我ありき、と実感した。

2022年4月20日水曜日

ぶらり遍路の旅に出ます。

 明日から私は、四国のお遍路の旅に出ます。僧・空海(弘法大師)が歩き開いた八十八ヶ寺。1200年前、平安時代の話です。じつは17年前に一度お遍路を始めたことがあります。2005年1月に足かけ6日間、1番札所から19番札所まで歩いています。なぜ19番で止めたのかよく分かりませんが、古い日誌を読み返してみると退職後に『奥日光自然観察ガイド』という本を編集して出版社に話を持ちかけていたのを山と溪谷社が上梓してくれることになり、戻ってきてすぐに目次や索引を作る仕事を手がけていますから、大喜びでお遍路を切り上げてきたのかも知れません。

 信仰心が、全く感じられませんね。いや、今でも信仰心があるかというと、ない方だなあと自分のことを感じています。ただ、宗教的な信仰心ではありませんが、自然に対する深い敬意や畏れを抱いていることは間違いありませんから、原始的な信仰心は持っていると言っていいでしょうね。

 でも信仰心からではなく、

(1)四国の香川県に生まれて、都合9年間高松で育った。

(2)一年前の山の事故でリハビリを続けてきたが、どうやら平地は歩けるようになった。山を歩けるかどうかは試してみなくては分からない。ならば、四国のお遍路さんは経巡る道筋はよく踏まれている。 順番もはっきりしていて、(空海ゆかりの土地を全部巡るか、88ヶ寺を巡るかで)距離も1100㌔~1400㌔もある。歩いて経巡るのは、山歩きに似て、良いトレーニングになる。

(3)17年前の残りを続ければ、1100㌔くらいになる。1日平均30㌔歩けば、37日で88番札所に到着する。

(4)その到着した翌日に岡山で、高校の同窓会が予定されている。おお、ちょうどいいではないか。

 というわけで、明日からお遍路に出かけることにしました。5/28の同窓会は、コロナの影響で実施するかどうかがまだ決まらないのですが、決まろうと決まるまいと、それとは別に四国のお遍路に出かける。

 飽きちゃって、途中で切り上げるかも知れない。これは身が保たないわと諦めるかも知れない。信仰心から出ていればなかなか途中で切り上げるのは難しいかも知れませんが、元々がそうではないのですから、気楽なものです。ぶらり遍路の旅というか、ちゃらんぽらん遍路の旅というか。ひょっとすると歩いてあれこれ考えているうちに人生の普遍的なモノゴトを悟達するという遍路の旅ではなく、すっかり人生を忘れて偏った道へ踏み込む偏路の旅になったり、自分の体力とギリギリの勝負をしたりする辺路の旅だったりするかも知れません。ま、それはそれで、歩き遍路の醍醐味。味わってきましょう、というわけです。

 一番小さい孫娘が、あと一月ちょっとで14歳になります。今ちょうど私は、その6倍の年齢生きていることになります。若い頃と歳をとってからとは、モノゴトの感じ方も考え方もすっかり変わります。昔はそれを知恵がつくと謂って年の功を讃えたものでした。ですが近年のデジタル化社会では、アナログ世代の私たちはITのアルゴリズムに馴染めず、世の中から取り残されていっているように感じます。

 あ、淋しいってワケじゃないんです。そうやって年寄りは世の中から退出するんだなあって、感慨深く来し方を振り返っているわけです。面白い、良い人生でした。その感謝の気持ちを、何か大きな大宇宙というか、大自然に届けたい、そう思って歩いてみようと思っています。お大師さんには超越的な大自然の依代になって頂こうってワケです。同行(同行)二人と修行的な意味を込めて謂われますが、私の場合は、同行(どうこう)2人というもう一人の私との旅と、以前お話ししました。でも、依代になって頂くと謂うことでしたら、お大師さんとご一緒に歩かせて頂きます。

 せめて日頃の「わたし」を離脱して、来し方への感謝をしようというわけですから、ほとんどクセになっているブログなどからも離れて、わが身を振り返りつつ歩光と、思っています。そういうわけで、6月になるまで、このブログもお休みします。戻ってきてから、果たしてご報告する心持ちを持っているでしょうか。すっかり現世から解脱して、一切皆空となっているでしょうか。

 行ってきます。皆さま、ごきげんよう。

2022年4月19日火曜日

世界をすべて感じ取る若さ

 今朝の外気温は、10℃。空は晴れ、気持ちがいいと私より早く起きて外へ出たのだろう、カミサンが言う。あなたは夏が好きだからねと返すと、嬉しそうに、そう、冬に夏が好きっていうと誰でもそうよといわれるでしょうけど、夏の暑い盛りに夏が好きって思うの、と本当にいい季節が来たっていうような顔をしている。

 そのカミサンが、若いって凄いねと話す。一昨日、40代の若い人を案内して、秋ヶ瀬公園を歩いた。ユウガギクをみつけ、それを話題にしたとき、当の若い人が、そうですね、ほんのりとした香りが素敵ですねと応じて、はっと気づいたという。そんなことを言う人は、はじめて、と。

 いつもは還暦を過ぎた人たちが相手。その人たちで香りを話題にした人はいなかった。歳をとると、鼻が利かなくなる。年寄りは「優雅菊」と思うらしい。だがじつは、「柚香菊」。香りでその存在を知る。それが名前の由来。自然を感知することを、若いってことは、すべてで受けとっているんだ。歳をとるってことは、世界感知が部分的になっているんだと、気づいたってわけ。

 そうだね。全身で感じ取る自然が、年を経て傾きがクセとなり、それに感知能力の劣化が重なって、断片化してくるってワケか。人とは世代を超えて付き合う必要があるな。そうでないと、世代的な身体的制約を何時しか受け容れて、感じ取る世界が狭くなってしまう。でもね、そうやって緩やかに現世と離れていって、何時しか彼岸に脚を突っ込んでいるっていうのが、いいんじゃないの? そういう声も聞こえる。

 年寄りばかりと付き合っている間に、相手が逝ってしまい、そうこうして自分も身罷る。感じ取る世界が狭くなっていくってのは、ひょっとするとミクロの世界に踏み込んでいるのかも知れない。視線がマクロに向かっているときは、自分のイメージモデルと食い違ってやきもきしたことも、ミクロの世界に目を向けてみると、なんだ、やきもきの淵源がこんな所にあったんだと気づくことが多くなった。やきもきした自分が恥ずかしくなる。世界が狭いっていうよりも、一番の大切な真実が手元にあったってことを識る。チルチルミチルの青い鳥を見つけるようなこと。

 そうして青い鳥を手に入れたジジイは、でもこれって、俺が手に入れたかったことなんだろうかと自問自答しながら答えを得ることもなく、若さへの嫉妬も感じることなく、それはそれでいいじゃないのと、思うのでした。

 知らない世界って、ずいぶんあるのよね。

2022年4月18日月曜日

何が不安なのか?

 お遍路の用意をしている。Googlemapの道案内を使えるかどうかを、昨日試してみた。2キロほど離れたところにある図書館までの往復を案内して貰った。スマホ画面に現れる矢印の表示が進む方向と一致しないのが気になるが、自分がいる現在地と考えれば、わかりやすい。この案内特性が分かれば、迷子になる心配はない。

 思いつく毎に、荷を一部屋に集める。結構な分量になる。リュックをどれにするか、迷っているが、昔を思えば、それほどの着替えがあったわけじゃないし、洗濯も出来るだろう。おっ、洗剤も去年入院していたときのコンパクトな小パックを持っていくか。季節柄、防寒もそれほど必要あるまい。逆に、ふだんずいぶん物に取り囲まれて贅沢に過ごしていると思う。

 雨の備えをする。山歩きと同じと考えているが、この一年の間に雨を厭う気分が私の身の裡に芽生えているのかも知れない。あれこれと濡れないように着替えなどを整えすぎる。ごくごくシンプルにと考える。準備していることが即ち、物との断捨離をすることになる。

 まだ四日あるのに、何だか心裡に小さい不安が、ある。何だろう、この気分は。お遍路のいいところは、行き先が決まっていること。自分は何処へ向かっているのかという不安は、持たなくていい。宿なども整えられているから、困ることはない。前日に予約して縦走する小屋泊まりの山歩きと同じだ。道だって、人里の道路。踏み跡を追うのと違って、「へんろ石」とか、案内標識を見落とさないようにすることではずだ。にも拘わらず胸中にわだかまるこの不安は、一体何だ?

 ちょっと思い当たるのは、私自身が思っているペースで歩けるだろうかという不安。つまり体力が落ちていて、一日平均25㌔のペースでプランニングしたように進めないのではないか。カミサンに話すと、そんなことは融通が利くのだから心配することはないじゃないと、笑っている。そうなんだよな。山歩きの3分ほどはルートファインディングと考えていたころは、それもワクワクする大きな要素であった。それに比すると、お遍路の道は、むしろ物足りないくらい。人、土地、食べ物、暮らし方。全く知らない土地なのに、四国の生まれというだけで手放しで故郷に帰るような気分になっているのも、心躍ること。旅としてはワクワクしていいはずなのに、自分の体力が落ちているということを突きつけられるのが、不安なのか。

 そう思えば、自身が今年八十になるということを、身を以て承知する旅になる。それをすんなりと認めたくないというナニカが、わだかまりの源なのか。でもそれって、ヘンだなあ。私の身がこれまでに保ってきた挑戦的なスタンスを変えなければならない事態にあることを、わが身が承服したくないってことか、心根が試したくないってことか。試した結果、「現実」を突きつけられるのを(先読みして)不安に感じているのか。

 となると一つ、1日平均25㌔という歩行ペースを20㌔に変えて、行程表を作っておけばいいかと思案している。

2022年4月16日土曜日

体力が落ちているのか?

 どうしたのだろう、いくらでも寝られる。春眠はとっくに過ぎて、もう夏日になったりしているのに、8時間も9時間も目が覚めない。6時には起こしてほしいとカミサンに頼んでいるのに、たっぷり9時間寝て声を掛けられても、目を開くのに、両手を借りてまぶたを押し下げなければならない。どうしたのだろう?

 思えば、山の事故があって1年余、この1年間山らしい山に入っていない。ハイキング程度。歩く力だけは落とすまいと、出来るだけ歩いてきた。片道5㌔、往復10㌔のリハビリも歩いて通う。毎日2時間程度なら歩き続けられる。4時間から6時間程度のハイキングは、草臥れずに行ってくることが出来る。では、何日か続く縦走登山となると、どうだろう。

 そう思って、体力チェックをすることにした。四国のお遍路旅を歩いてみようというのである。いつかも書いたが、信仰心はない。だから「同行二人」の「行」は「ぎょう」ではなく、「こう」。もうひとりの「わたし」と一緒に、行けるところまで行ってみる。急がない。草臥れたら停滞する。道に迷わず、宿さえ確保できたら、心配はない。

 山と溪谷社発行の『四国八十八カ所05』を、私は持っている。じつは、2005年の1月下旬に一番札所から19番札所まで5日間ほど歩いたことがある。お遍路の謂れでは、「発心」といわれて、遍路旅を続けることへの心準備が整えられるとされている。だがなぜか、5日間ほど出切りあげてしまった。「発心」に縁がなかったのか、退職して二年が終わろうとして、編輯を手がけていた自然観察ガイドの本がいよいよ出版されることが決まって取りかかることになったためか、カルチャーセンターの山ガイドが、その春から始まっているからその準備のためであったか、すっかり忘れている。そのときの菅笠が取ってあったのでその荷をほどいてみると、「御朱印帳」が出てきて、19番札所の御朱印までちゃんと記し残されている。何だ、こんなことまでしていたんだと、あらためて想い出したというわけ。なら、つづきに取りかかればいい。

 そのことを知ったご近所の知り合いが「最新の地図を手に入れた方がいい」という。私より十ほど若い彼が歩いたとき、道が分からず、宿なども行きすぎたりして探すのに骨を折ったらしい。そこで、四国88カ所の寺から寺へ一つひとつの寺紹介と経路地図を描いた案内サイトを見つけてダウンロードした。

 さて何を思って、どの程度のペースで何処まで行けるかを想定した。30㌔平均歩けるというのが、元気な人のペース。4月下旬に出発して5月下旬で、残りの千㌔余を歩き通して、5月28日に予定されている岡山県の高校の同窓会にドンピシャリで顔を出せる。行こ行こと、わが身の裡が元気な声を掛けた。17年前は夜行バスで徳島駅まで行った。だが今回は、コロナ禍で、ここ3年ほど逢うことが適わなかった兄にも会って、それから徳島へ向かおうと行程を決めた。

 出発の一週間前から、思いつく毎に必要な品を用意して、そろえ始める。とともに、雨だったらどうしたものか、トンネルを抜けるとなると懐中電灯も必要になる。軽登山靴がいいだろうか、ウォーキングシューズがいいだろうかと、湧き上がってくる。そうして行き着いた一つが、果たして体力が一人前にあるかと思案するところ。30㌔ペースを25㌔ペースに落とすと、宿がなくて38㌔歩くところを、12㌔と26㌔に分けることも出来る。そうやって変えると、5日ほど行程日数が増える。

 いや、ひとまずそうやって想定しておいて、身の疲れ具合と相談しながら、翌日の宿を決めて歩くようにしよう。修行じゃないんだ、お四国トレッキングだと自分に言い聞かせる。お寺さんは、いわばそのエモーショナル・キャリアー、気分の運び役を務める媒介項だ。山でいえば、通過するピーク。宿の予約も、スマホを使えば簡単にできるはず。迷子にならないようにすることが、まず第一。そう考えたら、スマホがちゃんと使えないことにも気づいた。行きたい先を住所で打ち込んで現在地から案内する機能が、Googlemapにあると教えて貰った。果たして使えるかどうか、まずこちらでやってみなければならない。

2022年4月15日金曜日

何だろう、この世界は

 木がこんもりと生い茂った高台の上から見下ろすと、ぽっかりと海に浮かぶ島々がくっきりと見える。その彩りは、海の青、空の蒼と詠うのをなぞるように鮮明で、樹木に覆われた濃い翠の島々もまた砂浜の白さに際だって浮かび上がる。

 背の方を振り返ると、なんと、空に島々が浮かんでいる。いや、空に映って、逆さ様にみえている。そうか、静かな湖に映る山々のように、風のない時の空には、こうして下界が映るのだと、初めての体験に心が震えている。あっ、この島には見覚えがあると、一つを見て感じている。屋久島だ。どうしてここから、南の屋久島が見えるのかと、心の片隅に思いながら、でも間違いなく屋久島が美しく見えて、ため息が漏れる。

 傍らの誰かが、私と同じようにため息をつくのを耳にして、これが夢なんだと思いつつ、また深い眠りに入っていった。昨夜の夢。これほど鮮明に記憶に残っている。

 何だろう、この世界は。

2022年4月13日水曜日

「アジア人の目」ってなんだ?

 AERA2022/04/12の発信で古賀茂明が「欧米人の目を持つ日本人」という記事を提供している。簡略に要旨を紹介すると、ウクライナの難民に対してビビッドに反応するのに、ミャンマーや香港や台湾に対してなぜ人々の関心は向かないのかと問い、

《私たちは、アジア人でありながら、アジア人の目で見ることができない、欧米人の目を持った人間になっている。そして、それに気づくこともできなくなってしまったのではないか。私自身も、自らの目を疑うべきだとあらためて感じている》

 と結んでいる。私も今は、ミャンマーや香港を忘れてウクライナの成り行きに気持ちが傾いている。「欧米人の目を持つ日本人」なのかと自問し、ちょっと違うんじゃないかと思った。

(1)ミャンマーや香港のモンダイは、一つの国内で起こっている。もちろん自由社会と民主主義という論立てをすれば、ウクライナで侵害されていることと同質のモンダイと言えなくもないし、市井の民の暮らしが破壊されているモンダイとすれば、全く同じだが、ウクライナはロシアという外国からの侵害である。私の身の反応は、間違いなくこの点に基点がある。だからすぐに台湾への中国の侵攻をイメージして反応した。今もその関心を軸に成り行きを見守っていると感じている。この、国に関する関心に、島国で暮らしてきた私たちの固有性がまとわりついていることは、なんとなく感じているが、国民国家の理屈はどうあれ、国のことはその国のこととして(突き放して)みている「わたし」は感じている。でもこれは、欧米人の目を持つというのとは、違うだろう。

(2)ウクライナ侵攻のTV画像を見たときに私が感じた最初の印象は、なんだ浦和よりはるかに都会じゃないかということであった。避難する人たちの衣服や振る舞いの様子も、おしゃれ。まさしく西欧的であった。これへの私の反応は、欧米的であったからというよりは、文化的な同質性が共感を強くしている。まさしく今の私たちの暮らしが(このように)侵害されるんだという見本のように感じられた。(1)に述べた台湾をイメージしたのも、それと同じであった。香港の事態をそうとらえなかったのは、では、どうなのか。香港の事態は、統治のモンダイとして展開した。もちろんそれが、自由社会と民主主義というシステムとぶつかることは、それとしてモンダイであるが、ウクライナの戦争と同列に受けとるわけにはいかない。

(3)では、イラク、シリア、アフガニスタンの戦乱とウクライナの受け止め方が違うのは、何なのか。上記(2)の文化的な異質性が大きく作用しているのではないかと、自答している。イスラムだ。もちろんイスラムの民の暮らしが私のそれとどう異なるかと問えば、西欧の民の暮らしと私のそれがどう同質なのかと問うことにもなる。となるとキリスト教徒の親和性とイスラム教徒の違和感と論立ても出来なくはないが、そういう大上段に振りかぶった違いを言っているわけではない。だが、女子教育を禁じたり、女子の外出を制限したりするイスラム教の発想は、ワシは知らんよといいたくなるほど疎遠だ。疎遠にして置きたい。シーア派だスンニ派だと宗教的に争うというのも、汎神論に近い私の自然信仰からすると、縁がない。

(4)アジア人としての立ち位置はどう考えているのかと、古賀茂明に問われているように思うが、逆に古賀氏はそれをどう考えているのか聞きたいと思う。「アジア人」という一体性とは、何か。私の身の内から絞り出すと、地勢的な関係しか浮かんでこない。欧米の近代化に席捲されていいように振り回されてきたアジアと言えば、それはそれで日本も似たような経験と経ていると言わねばならないが、だがそれが、アイデンティティとなるほど文化的な共通性を為してきたかと問えば、中華文明を基軸とした影響を受けてきたという歴史性しか見当たらない。だが今やそれは、尊大な習近平中国を持ち上げることになると思うと、一顧だにしたくないというのが、正直な気分だ。

(5)古賀氏は、私たち日本人のアジアに向ける関心の冷たいことが、日本の政治家の施策を左右していると非難しているようだが、それは的を射た指摘だろうか。市井の民の私からすると、それは、マスメディアや政治家への直接の批判として展開しろよ、こっちへケツを持ってくるなと思う。私は、国家と社会を峻別して行きたいと思っている。もちろん影響がないと言っているのではない。だが、いちいちそちらに付き合って、こちらを変えるわけにはいかない。日本社会の気風が欧米に傾いているのを、今更アジア風に変えて行けというのなら、それなりの転換軸を示して貰わなければならない。それが出来ないなら(出来ないと思うが)、古賀氏の指摘はやつあたり、。しかも弱いものに八つ当たりしていると言わねばならない。

2022年4月12日火曜日

77年前と何が違うのか

  佐江衆一『野望の屍』(新潮社、2021年)を読む。この作家には、老母の死に様を描いた『黃落』で出逢った。私より8歳年上。この年代の作家を読むとき私はいつも、生年を確かめる。敗戦の時いくつであったかで、世界の受け止め方がぐっと違ってくると、わが兄とわが身の違いを思い浮かべながら、もうそれだけで敬意を表したくなる。それくらい身に刻まれた敗戦と戦後の状況の残した痕跡の復元が、格段に違ってくる。

 この作品を図書館の書架で手に取ったのは、ちょうどロシアのウクライナ侵攻が起こっていたとき。今のロシアはかつての日本だと思っていたから、それと重ねて読むとどう読めるかと関心を持った。ところが、佐江の記述は、まさしく「野望」の行方を描いている。ファシスト党のムッソリーニ、ヒトラーとナチス、日本帝国主義の「野望」を同時展開するように、世界を見て取り、その「屍」を書き記す。「野望」は言うまでもなく統治者のものであり、「屍」はその敗北の形であるが、目下私が目にしているウクライナの戦争とは趣が異なる。

 TV画像で目にする戦争は、ミサイル攻撃で破壊された町であり、横たわるぼかしを入れた屍体であり、避難しようとする人の群れであり、何処へ行けばいいのと途方に暮れる老人であったりする。あるいはまた、ロシア兵に射殺される目撃談だったり、ベラルーシから「戦果」を故郷の輸送しようと委託するロシア兵の状況説明記事である。これが戦争の「屍」なのだ。

 ところが統治者の言説は、それはウクライナが制作したフェイクだと広言する日本駐在ロシア大使であったり、「特別軍事行動」を説明するロシア政府関係者であったり、「武器を、武器を、武器を下さい」と訴えるウクライナの副首相だったりする。つまり、口先から妄想を吐き出している。屍ではない。屍は傍らに置かれ、ヒトは前線の兵士として脅え、殺し、略奪し、強姦する、荒みきったヒトの姿である。

 佐江もそれを無視しているわけではない。だが、東京大空襲や飢えと病で死んでいく民や兵の姿は、「戦史」の流れの中の必然として行間に挿入されている風情に、みえる。佐江にとっては(私も日中戦争から太平洋戦争の敗戦までをたどったり本を読んだりしたが)、心裡のわが身を振り返るためにいつかは通らなければならなかった「にほん」の戦争を、総括してみようとしたのだと思う。そしてこれが、起点となって、老母を看取ったような視線をあらためてそこへ向けると、市井の民のとっての「せんそう」が浮かび上がる、と思う。

 小説の末尾に(編集部)の註が挟まれている。そこには「本書は、史実を元にした書き下ろし小説である。」と前振りして、次のように続けている。

《著者は二〇二〇年七月に本作を脱稿し、直後から闘病生活に入った。病床でもゲラ校正の取り組んだが、刊行を見ることなく十月二十九日に逝去。享年八十六。ここに謹んでご冥福をお祈り致します。》

 佐江としては、やっとここまで身の裡を整頓したよという心持ちであったろうし、その先を考えると、無念であったろう。でも、こうやって、歩一歩、77年前の戦争を我がこととして身に刻み直すってことをしていかねばならないと、姿勢を正して考えている。

2022年4月11日月曜日

権力は根拠を語らない

 昨日の朝日新聞「教育」欄に「どうなる教科書?」コラムに、新指導要領で改訂される高校国語の教科書検定に関する記事が載っている。高校の現代国語を「論理」と「文学」に分けた教科書を制作した教科書会社に対して修正を求める「検定意見」がつき、遣り取りの経緯が取り上げられている。教科書会社の方は、小説と評論文を両方取り入れて読み取り方を狙ったわけだが、その両者が「適切に関連付けられていない」と差し替えを促された。編集者は「根拠を示すよう求めたが、納得できる説明はなかった」という。

 取材記者は、4年前改訂の学習指導要領に合わせた教科書の編輯に生じた会社間のばらつきに、一方の教科書会社から文科省への批判があり、「文科省がこの騒動に懲りて(今回は)線引きを厳格にしたとの見方が強い」とみている。

 つまり、「納得できる説明は」出来ないってことだ。それは、「文学国語」と「論理国語」を分ける発想が、国語の社会生活上の実用性に視点を置いていたのに対して、教科書編集者の「国語」はヒトの暮らしにおける言語の流動性を視野に入れている(と思われる)。教科書検定をしている検定官の中にも相当の幅があるから、年々の検定意見にも差異が生じる。教科書会社の方も、売れるかどうかに重心を置く会社もありうることを考えれば、検定の忖度をして(その結果)、売れなかったことを文科省の検定意見に向けることは、分からないでもない。それらに対して教科書検定官が「(根拠づけて)説明」することは、出来なくて当然でもある。

 しなくていいと言っているのではない。誰が、何にたいして、何を、どのように判断して「検定意見」としたのかがはっきりしなくては、「根拠を説明して」と求められても応じようがないという事実を「出来なくて当然」と言ったのだ。

 そんなことを考えていた先ほど、jbpressの2022/04/10発の「実録・中国ネット検閲、投稿動画はこのような修正を余儀なくされた」という「KAZUKI」署名の記事が目にとまった。検閲国家中国のネット検閲がこのように行われているという実態報告をしている。

 KAZUKIは武漢に留学したことのある日本人。コロナウィルスによって変わり果てた武漢をみて、「武漢ってどんな場所なのか?」と留学中の(コロナ以前の)武漢を紹介する写真に短い(英語と日本語の)コメントを添えてツィッターやyoutubeに載せたところ中国人の方から「翻訳させてほしい」と声がかかった。中国語を添えて中国の動画サイトに投稿したところ、検閲に引っかかったという経過報告。

 写真記事に対し「指摘されたのは合計5シーンの5文だったが、具体的にどれがなぜ「不適切なコンテンツ」と判断されたのかは不明だ」という。その5枚の写真の1枚は黒塗りにして「ネガティヴなイメージがありました」と文字を入れたが、2枚はそのまま。残りのうち1枚は「むかし租界地が置かれたため洋風建築が残っている」というコメントを「西洋建築がみられる」と修正して、パスした。最後の1枚は英文と日本語文とを削除してパスしたという。

 ここでも、当局(?)は何処がどう問題とは言っていない。指摘された5枚の内2枚は修正しないでパスしている。投稿者としては、忖度するしかない。でもこれが、権力なのだ。権力は、その判断理由や根拠を説明しない。しないことで忖度を引き出し、忖度させることで、制作主体の内的なモメントとして修正を施すことを導き出している。真に見事な統治方法だと言わねばならない。

 そう書いてきて思うのだが、安倍政権時のモリカケも桜を観る会も、菅政権時の学術会議任命拒否も、全く説明しない。しないことで、まず(お膝元の)役人たちの忖度を引き出している。木で鼻を括るような国会の遣り取りを聞いて、私はすっかり愛想を尽かしたのだが、これが権力って感じたものであった。

 有無を言わせないばかりではない。忖度させることで、「(権力が願っている)規制」を内面化する。そうしてますます、盤石の権力基盤を築き上げる。う~ん、なかなか積年の権力操作というものは、磨きがかかっているというべきか。

 でもこれを打ち破るのが、オープン・ガバメントなのだとしたら、民主主義社会の市井の庶民としては、是非とも一つひとつのことについて、権力側も根拠を示すように振る舞うってことを積み重ねていってほしいと思う。

2022年4月10日日曜日

神が宿るバタフライ効果

 去年(2021-4-9)のこのブログ記事「夢枕に立つ」を読んで思ったこと。

  今年は「夢枕に立たなかった」んだと、昨日の記事を振り返っている。まさしく「彼岸は遠くなりにけり」だ。ヒトにとって忘れるということはどういう意味を持っているのだろうか。エイピソード記憶については、ヒトよりも他の動物の方が精確微細であるが、そのエピソードそのものの確実な再現は記憶されるが、それと似たような記憶として一般化されないと、どこかで誰か動物学者が書いているのを読んだ覚えがある。それに対してヒトは、エピソードを象徴的なこととして記憶し、似たようなことにあたってそれを想起するように、一般化するとか普遍化するクセをもっている。それがいいか悪いかは、ひとまず別のことだ。その一般化したり普遍化するために、忘れることが作用しているのではないかと、私はわが身の79年を振り返って思う。


 つまり、忘れることが、なにがしかのスクリーンを通して夾雑物を濾過し、そのヒトやコトやエピソードに関して心奥で関心を持っていることが一般化されて普遍化されていく。そのようにしてたくさんの情報を受け容れ、受け止め、想起して、わが身が過ごして行くであろう将来に備える「無意識界」に折りたたんでいっている。その濾過と折りたたみを、忘れるといっている、と感じる。忘れるということは、そうした情報処理と蓄積の方法であり、無意識界にたくさんの、想い出す(想起域の)引き出しをつくっておいて、ときどき、何かの拍子に「夢枕に立」ったりして、おいおい、大切なことを忘れるなよ、と警告を発していると思える。


 これらは、ことごとくわが身の裡のことなのだが、こうして文化が蓄えられ、ヒトとヒトとの関係を通して受け継がれ、伝承されていくと考えると、わが身も言葉も魂も社会的気風も、日々繰り返されるひとつひとつの、ヒトやコトやエピソード的なコトゴトが文化の継承であり、それがどういう意味を持つかもたないかは、それを考えるヒトの関心領域においてあらためて言葉にされて、定着し、また改めて忘れられていくってことだ。


 ヒトが直面する「かんけい」のひとつひとつに神が宿ると考えるのは、そのエピソードの一つひとつが人類史の文化継承の蝶の飛翔(バタフライ効果)とみているからであり、つまり、日々繰り返される一つひとつの振る舞いや言動が人類史的な文化の象徴的な創造だと見て取った実感である。私たちの人生に意味があるかどうかということを問う次元があり、その自問自答の次元に象徴的な感受やイメージや思考がふれたとき、神は微細に宿ると言っているのではないか。


 今朝、起き抜けにこの記事を見て、一年間のわが身の径庭を重ねている。

2022年4月9日土曜日

彼岸は遠くなりにけり

 もう8年か、と2014年に亡くなった弟のことを思った。ほとんど忘れていた。私が「お釈迦さんの誕生日だ」と昨日言ったのに対して、カミサンが「Jさんの命日よね、明日」といったので想い出したのだ。いわれなければ、すーっと通り過ぎていたかも知れない。

 そう言えば8年前の桜は、ちょうどこの頃から満開を迎えていたなあ。葬儀まで3日ほど間があいた所為で、自宅に置いた遺体の傍らに桜の花の写真を撮り、「花の灯りたてまつる」という石牟礼道子の言葉を重ねて飾っていた。見沼田んぼも秋ヶ瀬公園も、あの年には学校の入学式に合わせるように満開になった。

 だが今年は、満開が10日早かった。昨年はそれよりさらに一週間以上早い。まさかとは思うが、温暖化がこんなに加速度的に進行しているってことがあるのか。

 とは言え、2014年に亡くなった弟は、トランプの登場を知らない。トランプの言動のバタフライ効果が、2016年以降の世界に、ホンネ剥き出しの#ミー・ファーストをもたらしたことも知らない。ヒトが虚飾を剥ぎ取ってすっかり変わってきたように思う。と同時に、モノゴトに関する真偽を私たちは何を根拠に判断しているのだろうと、自らを疑うことにもなった。人々が何に「権威」を置いているかも露わになっていった。世界が変わると共に、わが身の確信が何に裏付けられているのかと自問自答することが多くなった。これは私にとっては習性が一般化したように感じられ、嬉しい変化であったが、逆に人々がみなバラバラに生きていることの再確認でもあった。

 桜の開花は人々の内心とは別の理で動いているのであろう。とすると、この「別の理」は人々が(それぞれの心裡と違って)共有できることなのか。それは、自然か。時間か。そういって「別の理」を全く別の次元に追いやってしまったことが、ヒトまで理性主義という「さらに別の理」に追い込んで、これはこれでまた、困ったモンダイをもたらす結果になった。その行き着いた先に、ヒトも自然、時間も、ヒトの世界の理。つまり、世界を思い描く主体としてヒトを特権化して、特権化したことを忘れて脇に置くというヒトのクセを普遍化してしまった。

 そうか、それを元に戻そうという動きが、自然も時間も、客観的というモノゴトを考えているのはヒトであるという、主体性恢復の自然や時間観察か。それが近年の、研究者世界の傾向なのか。私の関心であるばかりでなく、自然科学の世界も哲学と響き合うような記述の本が出来するようになった。

 分子生物学が神経系を介在させて「感情」や「心」を生物の感官の統合機構と位置づけて考察する研究記述が、たとえば、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序--感情、意識、創造性と文化の起源』(白揚社、2019年)にも見受けられ、何だ私の経験的な身体感覚を描いてくれているじゃないかと心裡が震える感触を覚えながら読み進めた。あるいはまた、量子論の物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)は、2021年の12月にも何度か触れて記したが、物理学と哲学の融合していく感触を感じている。

 ことごとく、そうやって、わが身と自然との一体性を保ちつつモノゴトを見つめていくことが、誰が、何時、何処から、何を、どのように、なぜ、見つめ書き記しているかを、恒に常に明らかにしながら世界を語る作法を作り上げていっている。それが好ましいと思う。

 でも、8年も経つと忘れてしまっているというヒトのクセも、どこかで誰か研究者が、解き明かそうとしてくれているかも知れないが、私はわが自然の成り行きとして受け容れていくのだと、弟の9回忌におもったわけだ。

2022年4月8日金曜日

今年はどうなるか

 1年前の記事は、再三延期となった、卒業以来60年ぶりとなる「高校同期会」のこと。今年に延期された5月の実施をどうするかは、まだ知らせがない。

 コロナウィルスは、どんどん変移して、まだ頑張っている。第六波がぼちぼち終わるかと計算していたのだが、さほど下がらないまま、第七波に突入するのじゃないかと、政府系専門家も口にし始めた。「同期会」開催の世話役の方々は、本当にどうしようかと思案投げ首かも知れない。

 もちろん在首都圏組の私たちは、5月のseminarは「同期会」に代えると決めて、予定を開けている。首都圏の感染拡大は相変わらずの趨勢だが、オミクロンやそのステルス版との雑居も、日常になってきた。年寄りは罹ると大変ということは、最初の頃から変わらないから、何かと用心している。用心していても、またコロナならずとも、そろそろ寿命が近いから、観念はしている。近親や身辺の友人たちの訃報もよく目にするようになった。

 今年、傘寿。昔風に言うと、すでに数えの80となる。つい先日のseminarでも、80以上の歳の数え方は、中国伝来でなくなっている。「古来稀なり」を最後に、喜寿以降は、表意文字のパロディで年齢表現をする。つまり、稀を通り越して、象徴界、天上界の様相を呈しているというわけだ。目出度いを通り越して、存在自体を言祝ぐ気配はすでに彼岸のものと言えるかも知れない。

 となると、彼岸と此岸を往き来しながら存在する作法があるんじゃないか。そう考えた。それで一つ思いついたのが、四国のお遍路。わが生まれは讃岐の高松。わが育ちは、海を挟んだ向かいの岡山県玉野市。ずいずいと歩いて、5月末の同期会予定の日に打ち上げっていうのも、悪くない。そう考えた。もし回りきらなければ、途中で切り上げて、同期会に顔を出せばいいじゃないか。しかも私の山歩きは、1年前から頓挫して未だリハビリという名の、回復途上。どの程度恢復したかを、お遍路具合で確かめてみるのも一興。そう思って、40日間1200㌔の旅に出ることにして、目下準備をしている。もちろん毎日2,3時間歩くことはしている。

 雨の日も風の日も、歩くかどうかも、思案の内。一カ所にとどまって日を過ごす算段もしている。四国お遍路というのを、「同行二人」といっている。「同行」を「どうぎょう」と読んで、弘法大師さんと一緒ですよという意味らしい。だが、どう考えてみても、不信心ものの私如きが弘法大師さんとご一緒に歩けるわけがない。私としては「同行/どうこう/二人」と考えて歩こう。えっ? もう一人は誰ってか。もちろん毎日自問自答している「もうひとりのわたし」ですよ。

 出かけたら、帰ってくるまでブログをおしまいにするかどうかも、懸念材料。今の私のデジタル能力では、40日間お休みとなる公算だが、ひょっとして抜け道が見つかるかも知れないと、探りを入れている。考えてみると去年も、山の遭難事故で、20日ほどの間、ブログをお休みした。一人、「何かあったのか」と心配したメールが来たが、他の方々はあってもなくても大して気にしてないのが分かって、ちょっと気持ちは楽になった。今年もその手で行こうとおもっている。いずれ死ぬ身のちょっと一踊り、のお遍路舞台はご覧いただけないが、後日のご報告にまで至れば上出来と思っている。

 もっとも出発まで、まだ2週間ほどある。それまで、おつきあいください。

2022年4月7日木曜日

花の吉野山

 この4日から桜を観に和歌山と奈良へ足を運んだ。雨の中を出発。浜松を過ぎて日差しが出た。濃尾平野の低い山肌に花開く桜が薄い新緑とコラボして山笑う風情を醸す。名古屋を過ぎて関ケ原に差し掛かると桜はいまだし。地形と季節の進行の違いが現れている。

 企画の主催は紀州加太の休暇村。現地集合現地解散。2泊して、真ん中の日にチャーターしたバスで吉野山に日帰り。駐車場から4時間ほどが自由見学というわけで、昔行ったことのあるカミサンが案内役を買って出た。

 この休暇村がなかなか素敵であった。和歌山市の北、加太の海岸縁、百メートルほどの高台の先端に建つ新しい外観。近くの「森の小径」を巡ると明石大橋から鳴門大橋までのすべてが見えて、さらに南の太平洋へと紀州の視界が開ける。露天風呂の溢れる湯が目線を低くすると、まるでそのまま海とつながっているように見えるとカミサンに言われて、そうかそういう見方をすると、海がそのままわが身の先を見せているような解放感に溢れている。そうそう、朝風呂にゆくと加太港から釣りに出る船の灯りがぽつりぽつりと見える。風呂に入ってきた(私より若い)年寄りがその漁り火をみて、「いかなごですか、いかですか?」と聞くが、わからない。そう言われて考えてみると、船にひとつだけ灯をともしてゆっくりと南から北の方へ動いていく数隻の船は、網を下ろしてトロールしているのか。とするとイカナゴ漁だ。1ヶ所に留まって船全体を満艦飾に灯りを点けるのはいか釣り船か。露天風呂の朝は、関東と30分づれて開けてくるのも、好ましい。

 船尾に小さな帆をかけた小舟、ゆらりゆらりと揺れながら釣りをしている。それより大きな船には3人の船員の姿が見える。沼島と淡路島の南端の間に鳴戸大橋。空が青みを増してくる。到着して「森の小径」を散歩したときに淡路島とその南側の沼島を教わった。ちょうどその前々日、TVの「ぶらタモリ」で中央構造線が淡路島と沼島の間を通っているとやっていたので、沼島がとっても印象深い。二日目の朝、双眼鏡で覗くと、沼島と淡路島の間の向こうに鳴門大橋がはっきりと見える。さらにその先に四国山地の山並みが高く盛り上がっている。

 夕食を食べているとき、アナウンスと一緒にカーテンが一斉に上がりはじめた。その時はじめて閉まっていたことに気づいた。露天風呂から観たのと同じ紀淡海峡の景色が見える。正面に淡路島、その上に太陽が沈みかかる。朱く丸い形が絵に描いたようにゆっくりと降りてゆく。山の端にかかり、すっかりその姿が隠れてしまうまでのショウであった。

 カミサンは「これを観ただけで、ここへ来た甲斐があった」と、吉野の桜も観ないで喜んでいる。

                                      *

 翌朝、宿からバスに乗り和歌山県が一番淡路島に近づく地点から紀ノ川に沿って東へ走る。無料の高速道とガイドは言っていたが、確かに大部分は片側一車線の鄙びた山間を走る。その小高い丘のような山肌もまた桜が咲き誇り、吉野ばかりか、和歌山ならのこの辺り一帯が桜を愛でているようであった。橋本市、五條市を抜けて吉野山の下千本のバス駐車場に着いたのは、予定の時刻よりも30分早かった。あとはフリータイム。集合まで4時間半。

 ガイドに西行庵まで行って来られるか聞くと、5㌔程だから大丈夫じゃないか、でも、本当に行くのかと、私の歳をみて驚いている。距離5㌔、標高差400㍍ほどと聞いて、楽勝と思った。上りはゆっくり。詳しく観たいところは見当を付けて帰りに立ち寄ればいいと考えた。後でわかるが、スマホの歩数計が測った距離は往復15.8㌔あった。結局、往復4時間15分かかった。バスが予定通りであったら、行って来られないところであった。車が上まで行っている。バス停もあるからバス便もあるようだ。中千本までは人が沢山来ている。奥千本となると、桜が3分咲きということもあって、人影はまばら。奥千本の桜ははまだ蕾みであった。

 途中で時間がかかっていることに気づいて帰途を急ぐ。とは言え、無理をするほどではない。上千本の古い家屋の縁側に座って桜を観ながら柿の葉寿司と葛餅いただく。時間を聞いて1時間というのでなんとか間に合うと読む。蔵王堂の屋根が見えて後15分もみればいいと考え、吉水神社への横道へ逸れ、一目千本にも足を運んだ。だが、そこから先がまるで年末のアメ横のように、人が道いっぱいに広がり、散策を楽しんでいる。ごめんよと言いながら、脇を抜けて余裕を持って駐車場に着いた。朝の広々とした駐車場は大型バスで一杯。集合時刻の15分前に着いたのだが、もうほとんどの人たちは座席に座って全員が揃うのを待っているようであった。

 休暇村への帰途も順調。5時少し過ぎに着き、風呂に入り、ワインを一杯聞こし召してから夕食。今日は曇り空で夕日は雲間からちょっと赤い色を見せただけであった。

2022年4月4日月曜日

雨の一日

 先月15日に、近所の公園でカワヅザクラのお花見をした。30日には、見沼田んぼ入口のタケノコ公園でソメイヨシノのお花見をした。いずれもご近所の男たち数人とお酒を持ち寄り、お昼を買ってきておしゃべりに興じた。4月1日に浦和駅まで歩いて行ったとき、桜が散り始めていた。2日にはカミサンが鳥ともたち数人と岩槻の公園でお花見をすると出かけていった。楽しかったらしい。二人で今年、見沼用水西縁のお花見をしていないよねというので、昨日行くことにして、朝ご飯を炊いて、いなり寿司を作って外を覗いたら、なんと雨が落ちている。ま、9時頃に出かけてお昼を済ませて2時頃に帰ってくればいいさと話したが、9時になっても止まない。とうとう一日雨降り止まず、お稲荷さんもお昼にして家で食べることになった。

 いつものように私は、パソコンに向かってよしなしごとを書きつくる。カミサンは溜め置いた録画をどんどん片付けている。団地コミュニティのドタバタを描いた連続ドラマ、NHKスペシャルのドキュメンタリーものの復刻もの、刑事コロンボ、動物ものの大自然の記録などなど、いやはやよく飽きもせず、見ていられると思う。私はリビングのテーブルでパソコンを打っているから、画像も音も飛び込んでは来るが、こちらはこちらで考えていることがあるから、全く気にならない。つまり周囲が何をしているかをどこかで感知しつつ、しかし、邪魔にならないという情報キャッチの仕方が身についている。ことに聴覚は、結構神経中枢が情報を自動取捨選択しているのだろうか。ありがたいことだ。だが、聞きたくないことは聞こえないという取捨選択もしているのだとしたら、これはこれで、私もプーチンになってしまうぞと思う。

 結局一日外へ出ることもなく、過ごした。たぶんこの雨で見沼田んぼの桜は散り敷いて、散歩日は花筵、用水は花筏が浮かんでいることであろう。去年観た光景が目に見えるようだ。

 とは言え今日から、吉野千本桜を観るために出かけてくる。カミサンは何年も前に吉野へ足を運んでいる。今回は私を案内してくれるという。といっても、近くの休暇村に2泊してバスをチャーターして送迎する、吉野山はご自由に5時間ほど散策するという企画に乗った。ついでに堺に住む弟夫婦にも会ってこようと、連絡を取った。

 今日も雨。関西の予報は、晴れ。今日の気温は2月並みだが、明日以降は平年並みというから、山歩きの雨具を用意すれば、十分。

 ではでは、行ってきます。

2022年4月3日日曜日

自己限定したときの勁さ

 先日(3/29)の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄に「国家に領有される個人」と題する「寄稿」があった。書いたのは「小説家・李琴峰」。今年33歳になる台湾生まれの作家。「ウクライナ侵略戦争という事態について。私は言葉を持たない。……これから書くのは眼前の事態に対する論評ではなく、あくまで私個人の体験や思考に過ぎない」と前振りをして、台湾の高校における(男女それぞれに行われる)「軍事訓練」の様子を具体的に記し、こう続ける。

《……民主化以降の時代に生まれ、なまじ民主主義と自由主義というものを知った私にとって、軍隊の色に染まっているそれらの事物はひどく心地の悪いものだった》

 この感触は、戦中生まれ戦後育ちの、現在高齢世代にとっても似たような響きをもつ。《それらは一つの事実を突きつける--私の身体は私だけのものではなく、国家という得体の知れない巨大なものによって領有されている。……必要があれば、国家はいつでも私の身体を徴用し、「愛国」「国を守る」という大義名分の下で、好きなように使うことができ、場合によっては死なせることも出来る》

 と、李琴峰は発見したように言い、「戦争が起こるということは、個人の身体に対する国家の領有権が極限まで拡張するということだ」とウクライナを重ねて認識する。

 これは「軍事訓練」に限らない。2月24日以降にTV画面に映し出されるウクライナの街をはじめて見て、なんだ私が住む浦和の街よりもはるかに都会ではないかと最初、感嘆した。ところが一月以上経ったいま、TV画面の戦場の街を見て、個人の身体ばかりか、人の世界のすべてを(あたかも領有しているかのように)戦争が破壊していることを私は感じる。ロシアが破壊しているのだが、戦争が破壊していると私は受け止めている。どういうことか?

 戦争を仕掛けたのはロシアであるが、戦争となったときウクライナは当事者だ。いやじつは、ウクライナを支援する国々もまた、当事者だ。中立を守るという中国やインドもまた、そういう立ち位置での当事者である。それは(情報化世界において)、コト(戦争事態)を共有しているという意味で当事者なのだが、その事態を共有する強弱、厚さ薄さが、当事者性の違いに表れる。国々と個人との当事者性の違いは、明らかにある。国際関係における主体性が異なるからだ。国家は国際関係のプレーヤーとして戦況にかかわるモメントをもっている。他方、個々人の関わり方は戦争事態に翻弄される人々(ピープル)を(局面の断片において、いくらかでも)救済する道を拓くことに通じている。

 このとき、戦況の方が明らかに戦争事態の全体性に及ぶと考えられるから、国家の主体性が問われもするのだが、個々人の関わり方が(国家に領有されている個人の身体にとって救済として)より真実性に近いから、こうした映像が流れると、観ている私たちは胸を打たれる。これは、「個人の身体ばかりか、人の世界のすべてを(あたかも領有しているかのように)戦争が破壊している」事態へのわが身の応答である。そして、ここが私の立ち位置だと思う。

 李琴峰が私と同じように考えているかどうかは、分からない。彼女は「国家とは一種の信仰だ」とみて、「私は国家を信仰しない。私が信仰しているのは自由だ」と宣言する。さらに続けて

《自由というものをひとまず、「何者にも領有され支配されない感覚」や「自分の生から死まで自分で決められる状態」と定義しよう》

 と自己規定して、「自由を信仰するのは、国家を信仰するよりも遙かに難しい」と話を進める。なぜなら「国家による個人の領有は、端的に事実として存在している」からとみている。

 こうした記述を読むと私は、前者はまずその通りだとしても、後者の「国家による個人の領有は、端的に事実として存在している」というのには、李琴峰の台湾において身に刻んできた累々たる重さを感じる。それはたぶん、脱ぎ捨てるに四苦八苦するほどの自分との戦いを必要としたのではないかと、わが身を振り返っても思うからだ。そう思うと、李琴峰とむしろ反対の感懐を抱く。自由を信仰するのは、国家を信仰するよりも遙かに容易だ、と。

 いや、むしろ「自由」と「国家」への幻想を対立させて考えるより、国家の領有する身体という「事実」は、李琴峰の身に刻まれているはず。それをどう脱ぎ捨てて自由への信仰に飛翔したのか、そこを語らないと、ただ単なる自己規定(自己限定)した宣言でしかない。「小説家」という肩書きがあるから「私は自由を信仰し、個人の語りを紡ぐ」と言い放つことでも、なるほどこの方の創作作法だと理解してもらえるであろう。だが、普通の市井の人であった場合、そう宣言したからと言って、「ふ~ん、それで?」(それにどういう意味があるんだ?)と疑問を呈されておしまいである。大切なのは、身に刻まれた「事実」をどう剥ぎ取って「自由への信仰」に至ったのか、そこまで言及しないと、人々へのメッセージとはなり得ない。ただ「信じなさい」という呼びかけにしかならない。

 確かに「信仰」は勁い。ロシアの人々がウクライナのナオナチの暴虐に対抗して軍事行動を起こしていると信じきっているのを知ったり、80%の人々がプーチンを支持していると聞いたりすると、国家に囲われて生きていくしかない(私同様の)人々の身に刻まれた環境という「事実」の強烈さを、あらためて思い知らされる。私は私の暮らす環境を、生活的社会と統治的国家に分節化して考えることで、身に刻まれた刻印を剥ぎ取る第一歩を歩き出したと(70年以上前を)思っている。

 この若い作家は、その辺りをどう考えているのだろうと、気になる。というのは、台湾に踏みとどまって、オープン・ガバメントを主導するオードリー・タンという、やはり若い人の言動に注目しているからだ。ぜひ、その点を引き続き語り紡いで貰いたい。

2022年4月2日土曜日

妙な投稿

 昨日(4/1)の朝日新聞の「声」欄に妙な投書が載った。「大統領演説 国会に覚悟あったか」という表題の「会社員41歳」。ウクライナの《ゼレンスキ氏に「演説をさせた」国会に納得が出来ません》というもの。《もし、ゼレンスキー氏が演説中に日本に軍事的な支援を求めたら? もし、「極東を攻撃してくれ」と頼まれたらどうしたでしょう?》と疑問を呈し、こう続ける。《政治面で安易に戦争の当事者とかかわることは避けるべきだ。……片一方のトップの発言を公に聞くことが正しい行為とは、私には思えません》と。

 この方は、ロシアにも言い分があると言いたいのでしょうか。ならばそう言えばいいでしょうに、それは行間に伏せられている。妙な投稿だなと思った。

 2月のロシアとベラルーシの軍事演習が「ウクライナへの攻撃を準備している」とアメリカ・インテリジェンスの報道が為されていたときから、私はロシアの振る舞いが柳条湖や盧溝橋と同様の侵略的な行為とみてきた。だから戦禍を受けているウクライナの呼びかけに応じることは(投書の文言にいう)「平和を標榜する国家」としては当然のことと受け止めていた。これが違うって事か? 

 この投書は、「日本が軍事支援する(ウクライナの?)思惑」には触れているが、ロシアの言い分には触れていない。触れもせで、ロシアとウクライナを対等の戦争当事者と位置づけて「片一方の言い分を聞く」とレトリックを駆使している。NATOが加盟国を東欧へ拡大し、ロシアに脅威を与えていたというのなら、そのことを直に論ずればいいこと。ウクライナ東部地方の親ロシア系住民への殺戮行為が行われているというのであれば、それがなぜ報道されないのかとマス・メディアをも含めて論難すればいい。だがそれもしない。親ロシア系評論家が歴史的経緯や欧米が国際的約束を破ってきたと口にはしているが、それがウクライナへの武力攻撃につながるモンダイだと受け止めることが、私にはできない。

 なぜか。NATOの不拡大方針が変容してきたには、欧米の民主主義的社会体制が(旧東欧社会にも)支持され広がってきたという経緯がある。それが、専制的な統治を忌避する社会気風を醸成してきた。それを「国際的約束を反故にした」という断片だけを切り取って、いきなり武力攻撃に突っ込んでいくというのは、どう考えても無理がある。でもそうしたからには、ロシア側にもそれだけの理由があるに違いない、と考えてはみた。だが、それは「情報統制」によって隠されているから、見えてこない。今回の武力攻撃が「プーチンの戦争」と呼ばれる所以である。

 この評価の分岐点には、民主主義体制か専制主義的体制かという「情報統制」の社会システムの違いに対する評価があると私自身は考えている。いいことも悪いことも、ともかく報道して、その判断を市井の人たちそれぞれがやってくれと投げ出すのが、民主主義体制の報道スタンス。他方、市井の人たちは流言飛語に惑わされ、不安に駆られて何をするか分からないから「情報統制」をして、政権政府の見解に沿った情報の限って報道を許すというのは、専制主義的体制の情報管理。統治者としては、後者が望ましいと思うのは当然と思うのであろうが、専制主義政治体制ではない日本でも、市井の民に情報判断を任せるやり方を取らない為政者は、結構多い。情報公開を渋る。黒塗りの「公開文書」は、未だしばしば目にする。その方たちは、では今回のロシアの情報統制を評価しているかというと、まさかそういうことはあるまい。民主主義も専制主義も、いずれも人類史が歩んできた足跡を残している。為政者の胸中に、その痕跡が残っていても不思議ではない。

 前者は右往左往し、一つにまとまらない。けど、それが市井の民の常態よと見切れば、民主主義は、何が正解かは分からないが、情報を公開し、どうしたらいいかをみなで考え、方策を作り上げていくという社会統治の(民主的)方法である。それを好ましく思うというのが、市井の民の民主主義である。

2022年4月1日金曜日

自由な社会の条件

 文科省が社会科教科書に「政府意見が反映されているかどうか」をチェックし、製作会社に注文を付けたと報道されている。なんだ、日本もロシアと同じじゃないか。情報統制の志向は統治的立場の人って、みな同じなのね。日本は自由社会って言ってるけど、結局自分の信じている情報だけを大衆に流して、それ以外を信じるなって振る舞っている。これは自由社会とは違う。そう思った。

 ではなぜ私は、政府と教育とは距離をおくべきと考えているのだろう。何を根拠にそれを自由と感じているのだろうと、思いは転がった。

 アメリカは、検定教科書をもたない。これは「政府見解」ばかりか、どんな見解が正しいかを定めない姿勢を(教育において)採っていることだ。ということは、どんな見解が正しいかを見極める力を付けることが教育なのであって、正しい見解を教えることではないと意味している。このスタンスが、自由の条件なのだ。

 これを欧米の政治の世界においては、教育の独立性と呼んで教育委員会の行政からの独立を保障する仕組みとしてきた。これは逆に、行政の「正しさ」を相対化することを意味してもいる。政権を担当するものの見解が「正しい」とみなされるのは、政権を支持する人々の声があってこそ。それも移ろい、変わる。そういう見立てがあるからこそ、そのときどきの政権政府の見解は相対化されてこそ、誤らない道筋を辿ることができる。いつでも修正が利くことでもある。つまり教育の独立性ということが政権政府の自己戒律になっていてこそ、自由な社会が保たれていると言える。

 そうか、自由な社会というのは、人の考え方というものが不確定的なものであり、その支持によって成立している政権政府というものも(その成立の根拠が)不確定的になる。それは政権政府にとっては耐えられないことだから、わが政権政府を支持してくれる人たちを囲い込んで、確定的にしておきたい。「人民って誰だ?」と以前問題にしたけれど、わが政権政府を絶対的に信頼して頼り切る人々の移ろいをとどめておきたい。そのためには「政権政府の見解」を教え込んでおこうというのが、今の文科省の施策に現れている。

 その極みがプーチンだ。彼は絶対的な人民の支持を背負って、ロシアという「偉大な国家を救うヒーロー」。そうなりたいと思って勤めてきたプーチンが、いつしか自縄自縛というか、自分の期待に応えている自分に酔うというか、自家中毒にかかるというか、そんな状態になっていると思う。ただそれを自覚できないシステムが専制国家というわけだ。ヒーローが絶対的な権力を持ち、異なる見解の持主を抹消する。いやな情報に耳も貸さない。そんな統治体制をつくってしまったというのが、プーチンの自家中毒を自家薬籠中のことのように思わせてしまった、というわけだ。別にプーチンならずとも、日本でも似たような政権政府を経験したことが(ごく最近も)あるし、アメリカだってトランプ政権の時に十分に体験しているし、この先だってまだ、それから自由になっていない。

 となるとやはり私は、自由な社会が好ましい。私自身が移ろってきた。この先も確定的な何かに自分を固定して、あとは何も考えない人生が好ましいとは思えない。