文科省が社会科教科書に「政府意見が反映されているかどうか」をチェックし、製作会社に注文を付けたと報道されている。なんだ、日本もロシアと同じじゃないか。情報統制の志向は統治的立場の人って、みな同じなのね。日本は自由社会って言ってるけど、結局自分の信じている情報だけを大衆に流して、それ以外を信じるなって振る舞っている。これは自由社会とは違う。そう思った。
ではなぜ私は、政府と教育とは距離をおくべきと考えているのだろう。何を根拠にそれを自由と感じているのだろうと、思いは転がった。
アメリカは、検定教科書をもたない。これは「政府見解」ばかりか、どんな見解が正しいかを定めない姿勢を(教育において)採っていることだ。ということは、どんな見解が正しいかを見極める力を付けることが教育なのであって、正しい見解を教えることではないと意味している。このスタンスが、自由の条件なのだ。
これを欧米の政治の世界においては、教育の独立性と呼んで教育委員会の行政からの独立を保障する仕組みとしてきた。これは逆に、行政の「正しさ」を相対化することを意味してもいる。政権を担当するものの見解が「正しい」とみなされるのは、政権を支持する人々の声があってこそ。それも移ろい、変わる。そういう見立てがあるからこそ、そのときどきの政権政府の見解は相対化されてこそ、誤らない道筋を辿ることができる。いつでも修正が利くことでもある。つまり教育の独立性ということが政権政府の自己戒律になっていてこそ、自由な社会が保たれていると言える。
そうか、自由な社会というのは、人の考え方というものが不確定的なものであり、その支持によって成立している政権政府というものも(その成立の根拠が)不確定的になる。それは政権政府にとっては耐えられないことだから、わが政権政府を支持してくれる人たちを囲い込んで、確定的にしておきたい。「人民って誰だ?」と以前問題にしたけれど、わが政権政府を絶対的に信頼して頼り切る人々の移ろいをとどめておきたい。そのためには「政権政府の見解」を教え込んでおこうというのが、今の文科省の施策に現れている。
その極みがプーチンだ。彼は絶対的な人民の支持を背負って、ロシアという「偉大な国家を救うヒーロー」。そうなりたいと思って勤めてきたプーチンが、いつしか自縄自縛というか、自分の期待に応えている自分に酔うというか、自家中毒にかかるというか、そんな状態になっていると思う。ただそれを自覚できないシステムが専制国家というわけだ。ヒーローが絶対的な権力を持ち、異なる見解の持主を抹消する。いやな情報に耳も貸さない。そんな統治体制をつくってしまったというのが、プーチンの自家中毒を自家薬籠中のことのように思わせてしまった、というわけだ。別にプーチンならずとも、日本でも似たような政権政府を経験したことが(ごく最近も)あるし、アメリカだってトランプ政権の時に十分に体験しているし、この先だってまだ、それから自由になっていない。
となるとやはり私は、自由な社会が好ましい。私自身が移ろってきた。この先も確定的な何かに自分を固定して、あとは何も考えない人生が好ましいとは思えない。
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