昨日(4/20)大谷石採石場跡を訪ねた。入口から石の階段を数段下りつづく踊り場を緩やかに降りるを繰り返して、ゆっくりと下へ進む。暗闇に目が慣れてくると、二十メートル以上も上の天井まで広がる巨大な空間の壁面が、ことごとく細かな手彫りの跡を残していることに気づく。床面の石は乾いていて滑らない。所々に設えられた灯りがその巨大さを標すように下の方に続いている。
あっ、これは「わたし」の心裡だと思った。手彫りのあとは時間の堆積、踏み歩いた「わたし」の痕跡。だれと、いつ、なにがあってこうなったかはすっかり忘れたが、ひとつひとつが、たしかに痕跡として刻まれている。そうか、心裡というのは、無意識でもある。今そこに降りたって浸っているのだと感じた。
言葉はなくてもいい。ほのかな灯りがありさえすれば、わが身の裡に刻まれた人類史とも謂うべき痕跡を感じることができる。
でも、「わたし」って、こんなに乾いていたのかと、ぷかりと問いが泡のように浮かんできた。一番下に降り立ったとき、その問いの応えがみえてきた。最下層に水が溜まっていたのだ。水溜まりではない。地底湖と、それを識る人は呼んでいたし地底湖をボートで繰り出すツアーもあるというから、相当に奥行きをもっているのであろう。長年の手彫りの痕跡と共に湧き起こった感情の気泡が、これまた年を重ねてゆっくりと結露し、水滴となって溜まり、こうした地底湖をなしているのか、と。さざ波もたてず鎮まっている。乾いているわけじゃないんだ。
我思う・・・のまえに、われ感じる故に我ありき、と実感した。
0 件のコメント:
コメントを投稿