今朝の外気温は、10℃。空は晴れ、気持ちがいいと私より早く起きて外へ出たのだろう、カミサンが言う。あなたは夏が好きだからねと返すと、嬉しそうに、そう、冬に夏が好きっていうと誰でもそうよといわれるでしょうけど、夏の暑い盛りに夏が好きって思うの、と本当にいい季節が来たっていうような顔をしている。
そのカミサンが、若いって凄いねと話す。一昨日、40代の若い人を案内して、秋ヶ瀬公園を歩いた。ユウガギクをみつけ、それを話題にしたとき、当の若い人が、そうですね、ほんのりとした香りが素敵ですねと応じて、はっと気づいたという。そんなことを言う人は、はじめて、と。
いつもは還暦を過ぎた人たちが相手。その人たちで香りを話題にした人はいなかった。歳をとると、鼻が利かなくなる。年寄りは「優雅菊」と思うらしい。だがじつは、「柚香菊」。香りでその存在を知る。それが名前の由来。自然を感知することを、若いってことは、すべてで受けとっているんだ。歳をとるってことは、世界感知が部分的になっているんだと、気づいたってわけ。
そうだね。全身で感じ取る自然が、年を経て傾きがクセとなり、それに感知能力の劣化が重なって、断片化してくるってワケか。人とは世代を超えて付き合う必要があるな。そうでないと、世代的な身体的制約を何時しか受け容れて、感じ取る世界が狭くなってしまう。でもね、そうやって緩やかに現世と離れていって、何時しか彼岸に脚を突っ込んでいるっていうのが、いいんじゃないの? そういう声も聞こえる。
年寄りばかりと付き合っている間に、相手が逝ってしまい、そうこうして自分も身罷る。感じ取る世界が狭くなっていくってのは、ひょっとするとミクロの世界に踏み込んでいるのかも知れない。視線がマクロに向かっているときは、自分のイメージモデルと食い違ってやきもきしたことも、ミクロの世界に目を向けてみると、なんだ、やきもきの淵源がこんな所にあったんだと気づくことが多くなった。やきもきした自分が恥ずかしくなる。世界が狭いっていうよりも、一番の大切な真実が手元にあったってことを識る。チルチルミチルの青い鳥を見つけるようなこと。
そうして青い鳥を手に入れたジジイは、でもこれって、俺が手に入れたかったことなんだろうかと自問自答しながら答えを得ることもなく、若さへの嫉妬も感じることなく、それはそれでいいじゃないのと、思うのでした。
知らない世界って、ずいぶんあるのよね。
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