お遍路の用意をしている。Googlemapの道案内を使えるかどうかを、昨日試してみた。2キロほど離れたところにある図書館までの往復を案内して貰った。スマホ画面に現れる矢印の表示が進む方向と一致しないのが気になるが、自分がいる現在地と考えれば、わかりやすい。この案内特性が分かれば、迷子になる心配はない。
思いつく毎に、荷を一部屋に集める。結構な分量になる。リュックをどれにするか、迷っているが、昔を思えば、それほどの着替えがあったわけじゃないし、洗濯も出来るだろう。おっ、洗剤も去年入院していたときのコンパクトな小パックを持っていくか。季節柄、防寒もそれほど必要あるまい。逆に、ふだんずいぶん物に取り囲まれて贅沢に過ごしていると思う。
雨の備えをする。山歩きと同じと考えているが、この一年の間に雨を厭う気分が私の身の裡に芽生えているのかも知れない。あれこれと濡れないように着替えなどを整えすぎる。ごくごくシンプルにと考える。準備していることが即ち、物との断捨離をすることになる。
まだ四日あるのに、何だか心裡に小さい不安が、ある。何だろう、この気分は。お遍路のいいところは、行き先が決まっていること。自分は何処へ向かっているのかという不安は、持たなくていい。宿なども整えられているから、困ることはない。前日に予約して縦走する小屋泊まりの山歩きと同じだ。道だって、人里の道路。踏み跡を追うのと違って、「へんろ石」とか、案内標識を見落とさないようにすることではずだ。にも拘わらず胸中にわだかまるこの不安は、一体何だ?
ちょっと思い当たるのは、私自身が思っているペースで歩けるだろうかという不安。つまり体力が落ちていて、一日平均25㌔のペースでプランニングしたように進めないのではないか。カミサンに話すと、そんなことは融通が利くのだから心配することはないじゃないと、笑っている。そうなんだよな。山歩きの3分ほどはルートファインディングと考えていたころは、それもワクワクする大きな要素であった。それに比すると、お遍路の道は、むしろ物足りないくらい。人、土地、食べ物、暮らし方。全く知らない土地なのに、四国の生まれというだけで手放しで故郷に帰るような気分になっているのも、心躍ること。旅としてはワクワクしていいはずなのに、自分の体力が落ちているということを突きつけられるのが、不安なのか。
そう思えば、自身が今年八十になるということを、身を以て承知する旅になる。それをすんなりと認めたくないというナニカが、わだかまりの源なのか。でもそれって、ヘンだなあ。私の身がこれまでに保ってきた挑戦的なスタンスを変えなければならない事態にあることを、わが身が承服したくないってことか、心根が試したくないってことか。試した結果、「現実」を突きつけられるのを(先読みして)不安に感じているのか。
となると一つ、1日平均25㌔という歩行ペースを20㌔に変えて、行程表を作っておけばいいかと思案している。
0 件のコメント:
コメントを投稿