明日から私は、四国のお遍路の旅に出ます。僧・空海(弘法大師)が歩き開いた八十八ヶ寺。1200年前、平安時代の話です。じつは17年前に一度お遍路を始めたことがあります。2005年1月に足かけ6日間、1番札所から19番札所まで歩いています。なぜ19番で止めたのかよく分かりませんが、古い日誌を読み返してみると退職後に『奥日光自然観察ガイド』という本を編集して出版社に話を持ちかけていたのを山と溪谷社が上梓してくれることになり、戻ってきてすぐに目次や索引を作る仕事を手がけていますから、大喜びでお遍路を切り上げてきたのかも知れません。
信仰心が、全く感じられませんね。いや、今でも信仰心があるかというと、ない方だなあと自分のことを感じています。ただ、宗教的な信仰心ではありませんが、自然に対する深い敬意や畏れを抱いていることは間違いありませんから、原始的な信仰心は持っていると言っていいでしょうね。
でも信仰心からではなく、
(1)四国の香川県に生まれて、都合9年間高松で育った。
(2)一年前の山の事故でリハビリを続けてきたが、どうやら平地は歩けるようになった。山を歩けるかどうかは試してみなくては分からない。ならば、四国のお遍路さんは経巡る道筋はよく踏まれている。 順番もはっきりしていて、(空海ゆかりの土地を全部巡るか、88ヶ寺を巡るかで)距離も1100㌔~1400㌔もある。歩いて経巡るのは、山歩きに似て、良いトレーニングになる。
(3)17年前の残りを続ければ、1100㌔くらいになる。1日平均30㌔歩けば、37日で88番札所に到着する。
(4)その到着した翌日に岡山で、高校の同窓会が予定されている。おお、ちょうどいいではないか。
というわけで、明日からお遍路に出かけることにしました。5/28の同窓会は、コロナの影響で実施するかどうかがまだ決まらないのですが、決まろうと決まるまいと、それとは別に四国のお遍路に出かける。
飽きちゃって、途中で切り上げるかも知れない。これは身が保たないわと諦めるかも知れない。信仰心から出ていればなかなか途中で切り上げるのは難しいかも知れませんが、元々がそうではないのですから、気楽なものです。ぶらり遍路の旅というか、ちゃらんぽらん遍路の旅というか。ひょっとすると歩いてあれこれ考えているうちに人生の普遍的なモノゴトを悟達するという遍路の旅ではなく、すっかり人生を忘れて偏った道へ踏み込む偏路の旅になったり、自分の体力とギリギリの勝負をしたりする辺路の旅だったりするかも知れません。ま、それはそれで、歩き遍路の醍醐味。味わってきましょう、というわけです。
一番小さい孫娘が、あと一月ちょっとで14歳になります。今ちょうど私は、その6倍の年齢生きていることになります。若い頃と歳をとってからとは、モノゴトの感じ方も考え方もすっかり変わります。昔はそれを知恵がつくと謂って年の功を讃えたものでした。ですが近年のデジタル化社会では、アナログ世代の私たちはITのアルゴリズムに馴染めず、世の中から取り残されていっているように感じます。
あ、淋しいってワケじゃないんです。そうやって年寄りは世の中から退出するんだなあって、感慨深く来し方を振り返っているわけです。面白い、良い人生でした。その感謝の気持ちを、何か大きな大宇宙というか、大自然に届けたい、そう思って歩いてみようと思っています。お大師さんには超越的な大自然の依代になって頂こうってワケです。同行(同行)二人と修行的な意味を込めて謂われますが、私の場合は、同行(どうこう)2人というもう一人の私との旅と、以前お話ししました。でも、依代になって頂くと謂うことでしたら、お大師さんとご一緒に歩かせて頂きます。
せめて日頃の「わたし」を離脱して、来し方への感謝をしようというわけですから、ほとんどクセになっているブログなどからも離れて、わが身を振り返りつつ歩光と、思っています。そういうわけで、6月になるまで、このブログもお休みします。戻ってきてから、果たしてご報告する心持ちを持っているでしょうか。すっかり現世から解脱して、一切皆空となっているでしょうか。
行ってきます。皆さま、ごきげんよう。
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