2022年4月11日月曜日

権力は根拠を語らない

 昨日の朝日新聞「教育」欄に「どうなる教科書?」コラムに、新指導要領で改訂される高校国語の教科書検定に関する記事が載っている。高校の現代国語を「論理」と「文学」に分けた教科書を制作した教科書会社に対して修正を求める「検定意見」がつき、遣り取りの経緯が取り上げられている。教科書会社の方は、小説と評論文を両方取り入れて読み取り方を狙ったわけだが、その両者が「適切に関連付けられていない」と差し替えを促された。編集者は「根拠を示すよう求めたが、納得できる説明はなかった」という。

 取材記者は、4年前改訂の学習指導要領に合わせた教科書の編輯に生じた会社間のばらつきに、一方の教科書会社から文科省への批判があり、「文科省がこの騒動に懲りて(今回は)線引きを厳格にしたとの見方が強い」とみている。

 つまり、「納得できる説明は」出来ないってことだ。それは、「文学国語」と「論理国語」を分ける発想が、国語の社会生活上の実用性に視点を置いていたのに対して、教科書編集者の「国語」はヒトの暮らしにおける言語の流動性を視野に入れている(と思われる)。教科書検定をしている検定官の中にも相当の幅があるから、年々の検定意見にも差異が生じる。教科書会社の方も、売れるかどうかに重心を置く会社もありうることを考えれば、検定の忖度をして(その結果)、売れなかったことを文科省の検定意見に向けることは、分からないでもない。それらに対して教科書検定官が「(根拠づけて)説明」することは、出来なくて当然でもある。

 しなくていいと言っているのではない。誰が、何にたいして、何を、どのように判断して「検定意見」としたのかがはっきりしなくては、「根拠を説明して」と求められても応じようがないという事実を「出来なくて当然」と言ったのだ。

 そんなことを考えていた先ほど、jbpressの2022/04/10発の「実録・中国ネット検閲、投稿動画はこのような修正を余儀なくされた」という「KAZUKI」署名の記事が目にとまった。検閲国家中国のネット検閲がこのように行われているという実態報告をしている。

 KAZUKIは武漢に留学したことのある日本人。コロナウィルスによって変わり果てた武漢をみて、「武漢ってどんな場所なのか?」と留学中の(コロナ以前の)武漢を紹介する写真に短い(英語と日本語の)コメントを添えてツィッターやyoutubeに載せたところ中国人の方から「翻訳させてほしい」と声がかかった。中国語を添えて中国の動画サイトに投稿したところ、検閲に引っかかったという経過報告。

 写真記事に対し「指摘されたのは合計5シーンの5文だったが、具体的にどれがなぜ「不適切なコンテンツ」と判断されたのかは不明だ」という。その5枚の写真の1枚は黒塗りにして「ネガティヴなイメージがありました」と文字を入れたが、2枚はそのまま。残りのうち1枚は「むかし租界地が置かれたため洋風建築が残っている」というコメントを「西洋建築がみられる」と修正して、パスした。最後の1枚は英文と日本語文とを削除してパスしたという。

 ここでも、当局(?)は何処がどう問題とは言っていない。指摘された5枚の内2枚は修正しないでパスしている。投稿者としては、忖度するしかない。でもこれが、権力なのだ。権力は、その判断理由や根拠を説明しない。しないことで忖度を引き出し、忖度させることで、制作主体の内的なモメントとして修正を施すことを導き出している。真に見事な統治方法だと言わねばならない。

 そう書いてきて思うのだが、安倍政権時のモリカケも桜を観る会も、菅政権時の学術会議任命拒否も、全く説明しない。しないことで、まず(お膝元の)役人たちの忖度を引き出している。木で鼻を括るような国会の遣り取りを聞いて、私はすっかり愛想を尽かしたのだが、これが権力って感じたものであった。

 有無を言わせないばかりではない。忖度させることで、「(権力が願っている)規制」を内面化する。そうしてますます、盤石の権力基盤を築き上げる。う~ん、なかなか積年の権力操作というものは、磨きがかかっているというべきか。

 でもこれを打ち破るのが、オープン・ガバメントなのだとしたら、民主主義社会の市井の庶民としては、是非とも一つひとつのことについて、権力側も根拠を示すように振る舞うってことを積み重ねていってほしいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿