2022年4月10日日曜日

神が宿るバタフライ効果

 去年(2021-4-9)のこのブログ記事「夢枕に立つ」を読んで思ったこと。

  今年は「夢枕に立たなかった」んだと、昨日の記事を振り返っている。まさしく「彼岸は遠くなりにけり」だ。ヒトにとって忘れるということはどういう意味を持っているのだろうか。エイピソード記憶については、ヒトよりも他の動物の方が精確微細であるが、そのエピソードそのものの確実な再現は記憶されるが、それと似たような記憶として一般化されないと、どこかで誰か動物学者が書いているのを読んだ覚えがある。それに対してヒトは、エピソードを象徴的なこととして記憶し、似たようなことにあたってそれを想起するように、一般化するとか普遍化するクセをもっている。それがいいか悪いかは、ひとまず別のことだ。その一般化したり普遍化するために、忘れることが作用しているのではないかと、私はわが身の79年を振り返って思う。


 つまり、忘れることが、なにがしかのスクリーンを通して夾雑物を濾過し、そのヒトやコトやエピソードに関して心奥で関心を持っていることが一般化されて普遍化されていく。そのようにしてたくさんの情報を受け容れ、受け止め、想起して、わが身が過ごして行くであろう将来に備える「無意識界」に折りたたんでいっている。その濾過と折りたたみを、忘れるといっている、と感じる。忘れるということは、そうした情報処理と蓄積の方法であり、無意識界にたくさんの、想い出す(想起域の)引き出しをつくっておいて、ときどき、何かの拍子に「夢枕に立」ったりして、おいおい、大切なことを忘れるなよ、と警告を発していると思える。


 これらは、ことごとくわが身の裡のことなのだが、こうして文化が蓄えられ、ヒトとヒトとの関係を通して受け継がれ、伝承されていくと考えると、わが身も言葉も魂も社会的気風も、日々繰り返されるひとつひとつの、ヒトやコトやエピソード的なコトゴトが文化の継承であり、それがどういう意味を持つかもたないかは、それを考えるヒトの関心領域においてあらためて言葉にされて、定着し、また改めて忘れられていくってことだ。


 ヒトが直面する「かんけい」のひとつひとつに神が宿ると考えるのは、そのエピソードの一つひとつが人類史の文化継承の蝶の飛翔(バタフライ効果)とみているからであり、つまり、日々繰り返される一つひとつの振る舞いや言動が人類史的な文化の象徴的な創造だと見て取った実感である。私たちの人生に意味があるかどうかということを問う次元があり、その自問自答の次元に象徴的な感受やイメージや思考がふれたとき、神は微細に宿ると言っているのではないか。


 今朝、起き抜けにこの記事を見て、一年間のわが身の径庭を重ねている。

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