2017年8月12日土曜日

対立軸を前提にすると、それをすり抜けてきたのか、私たちは。


亀田達也『モラルの起源』(岩波新書、2017年)に「進化ゲームでみる倫理の衝突」という節で紹介している「実験」があります。

《進化ゲームとは、さまざまな行動を「戦略」として定式化したうえで対戦させ、ほかと比べて利益の上がる戦略が次第に集団で増えていくという、生物進化とのアナロジーから集団のダイナミクスを調べようとするアプローチです》


 アメリカのジャーナリスト、ジェイコブズの仕分けた二つの体系「市場の倫理」と「統治の倫理」と同様に、「商人道」と「武士道」を設定。それぞれの規範にしたがってふるまうプレイヤーと誰に対しても非協力に振る舞う「社会的寄生者」の三種類が多数いると考え、

「それぞれのプレイヤーはほかのプレイヤーとランダムにペアにされ、相手に協力するか裏切るかを決定するゲームを、いろいろな相手との組み合わせで多数回行います。相手から協力されれば利益を得ることができます。自分が協力するのにはコストがかか(る)」

 というゲーム。経済学者の松尾匡教授、生物学者の巌佐庸教授らのグループが行った、ジェイコブズの議論の一部を検証する実験なのですが、その仔細は省きますが、その結論部分で次のようにまとめています。

《武士道プレイヤーでも商人道プレイヤーでも、それぞれが大多数を占める集団では、安定して高い協力レベルを維持することができる。言い換えると、商人道、武士道ともに、秩序問題を解き「平和で安定した協力関係」をそれぞれ築くことが可能だという結果です。しかし、両者が入り混じった状態は安定ではありません。……誰も協力市内社会的寄生者が一〇〇%の集団に次第に収束してしまいます。/倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに、二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまう、という結果はとても示唆的です》

 この結論部分を見て、私はつい、笑ってしまいました。亀田達也が何を考えながら「示唆的」と言ったのかわかりませんが、私が笑ったのは、安倍首相を想いうかべたからです。安倍首相の頭のなかは、日本会議の主潮流がそうであるように、「武士道」を志向しています。だが彼の身は間違いなく「市場」におかれ、経済政策は「商人道」を模索しているのです。つまり、彼自身の内部で「二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまう」という事態が、発生しているのですね。冒頭の「実験」で措定した「商人道」のあとには(内集団びいきをせず、外部のメンバーとも等しくつきあうことを奨励)と補足があり、「武士道」のあとには(外部と協力することは望ましくない)と補足がありました。この両者を読み比べてみてください。それと、亀田の結論部分のまとめを読むと、今回の、もり、かけの問題が浮き彫りになり、内閣の答弁自体がちぐはぐになって齟齬している様子が明らかにされているようです。

 もう一つ、想いうかべたことがあります。中東の「民主化」を武力侵攻の「大義」のひとつに、アメリカもヨーロッパもかかげていたのですが、上記の「実験」の結果を読むと、どちらであっても「倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに」、「民主的でなければならない」というのは、そもそも社会の倫理をひとつにすることを否定することなのでした。「自由」を実現するために「社会的な協力関係=共同性」を壊すことは、はたしてどれほどの正統性というか、妥当性をもつものでしょうか。ジェイコブズの指摘が中東を視界に入れていたのかどうかはわかりませんが、「倫理が一つであれば」というのを結論に導き出すようでは、まだ「脳科学のモラル探索」はリアリティにほど遠いと言わねばなりません。

 ですが、こうもみることができます。父子ブッシュやクリントン、オバマの世界戦略は「市場の倫理」で世界を一つにすることであったが、それには、市場原理の導き出している「格差」を克服して、現在、悲惨・不利な状況におかれている人々や国々を、同じステージに乗せなければならない。その困難さに気が遠くなって、とりあえず「自由」だけでも世界的に斉一化しようとした、と。それならば、秩序が破壊され、混沌が生まれたことは、「自由の実現」と言わねばなりません。でもねえ、誰にとっての自由なのか、考えてみたことありますか?
 
 もちろん亀田達也の紹介は、現政権をからかうためではありませんし、世界情勢の口を挟むためでもありません。しかし、この「実験」を元にしてのちに亀田は「格差を嫌うヒトの脳」という節をおいて、こう記しています。

《興味深いことに、人を対象とする脳イメージング実験から、自分と相手のあいだの不平等が改善される(格差が減る)と、腹側線条体(ventral striatum)などの「報酬系」とよばれる脳部位が賦活する(「快」と感じられる)ことがわかっています。しかも、その不平等が自分にとって不利だった場合だけでなく、有利だった場合でも働くことが明らかになっています》

 つまり、ある種の「公正さ」の感覚が、私たちの身体部位に埋め込まれている、ということなのです。そしてこう続けます。

《このように、良い意味でも悪い意味でも、他者との比較をつい行ってしまうヒトの(そしてヒト以外の霊長類やほかの哺乳類の一部にも共通する)敏感な性質は、「心の社会性」の根幹部分に位置しています。こうした心性は、分配の正義を考えるうえで見逃すことのできない基礎的な事実と言えるでしょう》

 高度な消費社会に身を置いて、勝手放題なことを行っている自分に、ときどき嫌気がさすこともあります。ですが、こうして「公正さ」の感覚は身に埋め込まれている「心の社会性」の根幹部分と位置づけられると、単にわが幼少時からの、ご先祖からの伝承というだけでなくて、人類史に連なる感性ということができて、じつはホッとしていたりするのです。

 ともあれ、戦後の日本人が二つの対立軸の「商人道」の方にだけ身を寄せ、その結果、高度な消費社会を実現したことは、「武士道」の方をアメリカに預けてしまっていたことは別として、幸いであったと振り返らねばなりません。そうして今、「武士道」の方をどうすんのよと(アメリカと北朝鮮から)詰め寄られています。さて、そろそろ武士道の方に鞍替えするのだとなると、「商人道」の方をどうするのかというよりも、鞍替えするくらいなら「社会的寄生者」に喜んでなろうという気分を、どこかで抑制しなければなりません。そのためには、やはり、「あの戦争を国家として総括する」ことをくぐらなければならないと思うのですが、できるでしょうかね。

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