2017年8月8日火曜日

わたしが世界からの手紙なのだから


 テレンス・デイヴィス監督『静かなる情熱――エミリ・ディキンスン』(イギリス・ベルギー、2016年)を観る。欧米各地の映画祭のオフィシャル・セレクションを受け、グランプリ賞ももらっているという。だが正直なところ、これらの映画祭の選考者がどのような現代的感覚をもって、この作品を選んだのか、わからない。お前がバカだからだと言われるなら、それを受け容れたいが、ぜひともどなたか、なぜバカなのかを教えてもらいたい。


 エミリ・ディキンスンという「生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え、没後発見された1800篇近い作品により”アメリカ文学史上の奇跡”と称えられる女性詩人」の、大学(?)卒業後から死に至るまでの半生を描く。「清教徒主義の影響を受ける上流階級」の宗教的な抑圧と欺瞞を暴き出し、ピューリタンな魂の叫びを歌いあげる崇高さを描こうというのであれば、もっと俗にまみれて欺瞞へと頽落する魂を描きおくことが必須であったろう。あるいは、奴隷制度が問題となる19世紀・南北戦争時代を生きる女性の、自らの開放を志向する立場の困難を描きとろうとしたというのであれば、もっと生活臭のする場面を盛り込んだであろう。だがそのようには描かれていない。

 生活臭から切り離され中空に浮いたエミリ・ディキンスンの清純な魂だけが取り出されて称揚され、結婚して俗にまみれていく人を「喪失する」感覚が浮き彫りになる。そこには「人間」が「魂」を介在させて抽象的に純化され、そこに「永遠」の至高の価値を見出しはするが、逆にそのことによって「俗」を蔑み、非難する上流階級の醜さが表出すると、私には読めた。作品はしかし、その醜さを「詩」の崇高さによって簡単に消し去ってしまっている。ディキンスンが、弟の、社交夫人との不倫を非難するときにも、弟夫婦に生まれ、ディキンスン自身が抱いて祝った子どもが、一瞬も現れてこない。ディキンスン自身が亡くなった葬列にさえ、その子どもの姿は描かれてない。子どもを描かずして「永遠」を謳おうというのは、「時間よ止まれ」というに等しい。この監督自身が抱く「人間」像が、そもそもそういうものであったのかと思う。となると、まさにここに描かれ称揚された「詩」や「魂」は、それこそ大統領トランプが非難している「知」そのものではないか。お高くとまり、俗を軽蔑し、自らの暮らしは奴隷や女に頼り切りながら、インテリジェンスがその足場を築いてくれているシステムの「権威」に居直っているような。

 エミリ・ディキンスンが《これは世界に当てた私の手紙です 私に一度も手紙をくれたことのない世界への――》と謳うとき、私は、「そうよ、わたしたちは誰も一度も世界から手紙を受け取ったことはないよ。だって、わたしたちそのものが、世界からの手紙なのだから」といいかえしたいような気分になる。欧米とアジアに住まうわたしの「世界観/自然観」の違いなのだろうか。そうそう、字幕の「人生」というのを「human nature」と呼んでいたっけ。俗にまみれたボディなどはhuman natureに過ぎないと思っているとみた。この映画の監督自身も、ディキンスンと同じように、抽象的な、そういう意味では清教徒的な呪縛に絡めとられて抜け出せないままに、ディキンスンを祀り上げて自らの魂の平安を得ようとしているのではないか。

 だからこの映画は、ディキンスンの魂をセピア色のままに固めて称揚する、ずいぶんと古臭い出来上がりになっていると私は思った。これではエミリ・ディキンスンも浮かばれまい。

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