2017年8月26日土曜日

どこに実感の起点と焦点を合わせるか


 朝鮮半島情勢が緊張を増している。元自衛隊将校OBは、今年末までにアメリカが北朝鮮への軍事行動に出ないならアメリカの威信は地に落ち、日本は(安全保障のために)防衛予算を倍増して装備を十分に整え、中国との連携を模索することが必要になると具体的な提言もするほどだ。

 また今日(8/25)の東洋経済onlineでは、津上俊哉という中国研究者が、朝鮮半島から米軍が撤退する可能性と半島が中立化したのちの東アジアと日本の安全を保持するために、日本が採ることのできるシナリオを検討している。最悪の場合に日本は、核武装をするという意思の表明をして米中と渡り合う必要があるかもしれないと提言している。つまり、北朝鮮崩壊後の朝鮮半島をめぐる国際的な力関係の変化と日本の立ち位置を論題にしているわけだ。


 元自衛隊将校OBは、中国における軍関係者との懇談会での情報も勘案して(アメリカの威信の低下を考えて)いるが、北朝鮮からのミサイルによる攻撃などに備えて地上型イージスを8基配備するなどが必要とするほか、地上工作者の侵入や攪乱工作活動に対処する方途、非常事対処のための国内道路管理権限の防衛相への一時的移行などの法整備にも言及して、緊迫の度合いを伝えている。GDP2%の防衛予算という提言も、そのひとつである。

 他方、津上俊哉は北朝鮮の「緊迫事態」が収まった後にやってくる見通に目を移す。アメリカが中国との提携均衡を図り、米軍が朝鮮半島から撤退する可能性が大であると考え、そののちの(日本の)東アジアにおける防衛戦略を構想して、中国と拮抗しながらも手を結んで、東アジアの平和維持に発言権を持つべき道筋を見極めようとしている。日本の核武装という意思表明も、米中が日本の頭越しに取引することに対して(日本が)一枚噛むための手だてと考えている。

 でもこういうレベルのやりとりになると、まるでSFの物語のように見てしまうのは、やはり戦後72年の平和ボケの所産なのであろうか。「緊迫した事態」に感情をともなった焦点が合わないのである。今の私たちは自衛隊の防衛出動に対しても、傭兵の活動のようにしか見ていない。つまり自らの身を切るような、差し迫った決断を迫られているとは感じられない。同じような反応が(緊急事態の退避訓練をしている)ソウルにもあると先日の新聞報道があったが、高度消費社会に馴染んだ身からすると、「戦時」という異常事態が実感できないのだ。

 (戦争とか防衛とかを)わが身に実感できるようになるためには、「徴兵制」を布くのが一番よいと、私は口走ったことがある。そのとき(先の戦争の深い反省を込めて)ひとつだけ条件を付けたのは、ドイツが実施しているような「抗命の義務規定」を全軍人に課することであった。そう話した時、ドイツがそういう規定を盛り込んでいることを知らなかったと私の知人が伝えてきた。はてどこで私はそれを知ったろう、と考えてはみたがそのまんまにしておいた。ところが先日(8/21)の朝日新聞の「政治断簡」で編集委員の松下秀雄がそのことに触れていた。この記事の論旨はそれが焦点ではないのだが、上司の命令に「従う人」がナチスドイツのホロコーストを生んだというハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」の指摘から、次のように導き出している。

《戦後のドイツは、自分で判断する「個人」を育てようとした。軍人も、人の尊厳を傷つける命令には従わなくてよい、違法な命令に従ってはならないという「抗命権」「抗命義務」を法に記した。》

 そうだ、これだ。でもねえ、日本では「基本的人権」を「公共の福祉」の下位におこうとしているくらいだから、とうていドイツのように「個人の抗命権を育成する」という発想が出てこないに違いない。そもそも今、このタイプを「こうめい」とうっていても、「抗命」という文字が出てこない。「こう」と「めい」を打ち込んで初めて変換できるという仕儀となっている。かほどに、そのような発想が根づいていないのだ。ましてや「抗命義務」などは、机上の空論にさえなりそうにない。その文化的な(ドイツとの)落差を考えると、「徴兵制」という提言だけが独り歩きして、「抗命」のほうは雲散霧消しそうだ。

 でもこれを論題にしている私は、朝鮮半島情勢を他人事のように考えている。この(実感の)ズレはただの平和ボケというだけでなしに、なにかもっと大きな「現実の喪失」なのではないか。そしてこの「現実」が恢復するのは非常事態が起こってからなのだ、と思う。やっぱり「状況適応的」な体質は変わっていないのかなあ。はたして、「リア充」などと「現実」をとらえている若い人たちは「現実を喪失」していないのだろうか。

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