2018年5月24日木曜日

幸運の七面山


 一昨日(5/22)から七面山へ出かけて来た。五日前の事前の天気予報は「両日とも曇り、降水確率40%、降水量0mm」。「行きましょう」と山の会の方々にはメールをした。ところが前日の予報をみると「22日…晴」「23日…雨、午前6時小雨、午前9時降水量1mm、12時降水量2mm」と後になるほど雨がひどくなる。「今年は梅雨の入りが早いかも」と追っかけるような報道も。まあ、22日に登って山頂付近のお寺に泊まり、23日は降るだけだから、早発ちをして温泉に入って汗を流して来ようと考えた。


 8時半ころ甲府で身延線に乗り換えてから、予約のタクシー会社に電話。万事承知の応対。9時半頃下部温泉に降り立ちタクシーに乗り込む。意図したとおり、10時前に登山口に着いた。まず手近の白糸の滝を見てから出発しようと春木側の橋を渡る。高さ30mほど。まっすぐに落ち、水しぶきが飛び散る。下で滝行ができるのか、着替えの小屋もあり、「届け出てください」と書いてある。日蓮宗の行場なのだ。

 10時15分、登山道を上りはじめる。「一丁目」の丁石がある。今日泊りの敬慎院まで50丁。信者の方々はこれを励みに歩一歩とすすむようだ。ところどころに坊が設けられ、ベンチや木の長机をおいて休憩できるようにしてある。陽ざしは強いが樹林の中を上るから、暑くはない。というよりは、標高が高くなるにつれて(風もないのに)体が冷えるように感じる。それが心地よい。見晴らしはほとんどない。ところどころに親鸞のことばや登る信者を励ます信仰にまつわる言葉が書き記されている。山頂の敬慎院のお坊さんが「法話」で「登っているときに誰かご一緒していると感じませんでしたか」と問いかけていた。親鸞さんというのではなく、亡くなった近親者のことが思い浮かんだのではないかという意味であったと思うが、そうしたことを彷彿とさせる表参道である。道幅は急だが広い。山歩きになれぬ人たちはジグザグ道の角ごとに止まって息をつく。

 先頭を行くkwrさんは10丁ごとに一休みする。はじめは10丁25分、後には30分ほど。上りは登り口の標高487mから七面山山頂1982mまで約1500m、下りは山頂から北参道の登り口神通坊320mまで1650m。富士山五合目から山頂までの1400mほどよりもきつい。三組の人たちを追い越した。皆さん信者らしく、一組は23丁の中適坊で太鼓をたたきながらお題目を唱えていた。上から降りてきたのは何人かの若いお坊さんと数組の登山客と信者さんたち。お坊さんたちはほとんど空身で、「お休み」をもらったよう。軽々と降っていった。登山客は若い人たちだが「日帰り」で、表参道を山頂まで上り下っている。登山口の木立の間に車を止めていたのは、この人たちなのであろう。

 2月の奥日光以来久々に山に同行するSさんの近況を耳にしながらゆっくりとすすむ。68歳だが、まだ現役。外国人向けツアーガイドへの「日本案内ネタ」を教えている。彼女にとっては「七面山」も教材のひとつなのではなかろうか。とても好奇心旺盛で、「神仏習合」や日本人の習俗、能や歌舞伎といった芸能、その歴史的な変遷などを身体ごと味わいたいというように、前のめりになってみつめている。元気だなあと感心する。

 ニリンソウや(おやこんなところに、とkwmさんのいう)クリンソウが咲いている。46丁目の和光門の先にアカヤシオが満開。門が切りとった枠のなかに、敬慎院へとつづく広い上り斜面の両側に見事な彩を添えている。上から降りてくる若いペアに出逢った。山頂を日帰り。朝8時半頃に出発したというから、見事にコースタイムで歩いている。若いっていいねと年寄りが談義する。

 標高1620mの敬慎院に13時半着、上りはじめてから3時間15分。コースタイムより15分早い。途中でお昼を食べているから、実はもっと早いのだが、kwrさんは強くなった。宿坊の入口で6,7人のお坊さんがいて出迎えてくれるのが、なんども気恥ずかしい。受付をして、荷物を置いて水と防寒着一枚をもって山頂へ行ってくることにする。

 随身門を出ると正面に富士山が、頭に雲をかぶって座を占めている。その前に九月に登る予定の毛無山が黒々と立ちはだかり、さらにその前にこんもりと低く山頂をみせるのが身延山だ。早川の明るい河川敷が南の方へと広がっている。「随身門前展望図」という標石の右隅に駿河湾とある。木立を避けて体を左へ寄せてみると、確かに遠方に海が見えるとkwrさんがいう。どれどれと、身を寄せる。明日は早朝から雨だから、しっかり見ておこうという。冥途の土産だね一つひとつが、と誰かが言う。

 「七面山 山頂まで片道40分→」とアニメを備えた表示がある。昨年ここに来たときにはなかった。山頂への道へ踏み込むと一面のカラマツの林。昨年のカラマツの落ち葉がふかふかと気持ちいい。「こりゃあすごい」と先頭のkwrさんが声を出す。先ほどの展望台よりももっと南の方が開けて、ずうと先の富士川とその先の富士市の方まで見通せるようだ。登路の東側が大きく崩れ落ち、岩盤が素肌を見せている。Sさんが気の根について生えた苔の名を言う。彼女は苔に詳しい。私は耳に入っても素通りしてしまう。先ちょが刈り取られた笹の間を上り、少し広く切り拓かれた樹林の間の平地が山頂。見晴らしはまったくない。陽ざしはあるが暑くはない。14時45分。敬慎院から1時間。宿に入ってもすることはないから、山頂でしばらくおしゃべり。古い方位盤には富士山から南アルプスまで彫り込まれているが、(たぶん)冬でも眺望はあるまいというほどコメツガかトドマツのような針葉樹が森をなしている。「じゃあ、宿に戻ってひと風呂浴びてビールにしよう」と15時すぎに下山を開始する。

 15時半に展望台に戻ってみると、富士山の雲がだいぶ取れ、山頂が顔を出す。随身門をくぐって見下ろす階段と正面下の明るい陽ざしを受けた本堂を飾り立てるような両側のアカヤシオと若い緑が照り輝く。いい光景だ。なんとなく厳粛な気分になる。「延暦寺の設え境内がこうであった」とkwrさんが思い出して話す。正面の高いところの門から下って境内と本堂へと入るつくりが、そっくりだそうだ。宿坊に入り、お坊さんの案内で12畳ほどの広い部屋に通される。すでに暖房ストーブのスウィッチが入っていて、お茶が置かれている。「お風呂も入れます」というので、すぐに着替えをもっていく。四人くらいが同時に入れそうな湯船。湯温はほどよく、体を温めるだけのカラスの行水をする。「ビールは置いてない、お酒も売ってないんだって」とkwrさんが残念そうな声をあげる。何だ般若湯もないのかと思うが、お茶がおいしい。ところが夕食になって運び込まれたお膳に「御神酒七面山」の二合徳利が一本ついている。いやいいねえこれは、と食べ始める。とすぐに隣の部屋の方が来て、そちらの徳利を「私たち呑めませんので」と提供してくれ、ありがたく頂戴して大満足。夕食も、精進料理と言おうか、高野豆腐とごぼうやニンジン、昆布の煮つけ、とヒジキに一汁一菜。これを一週間続けると脂肪肝もよくなるわと誰かが言う。

 夕食は5時、6時から御開扉といって、ご本尊の七面大明神の扉を開き、参列者の名前を読み上げる。南無妙法蓮華経とお題目を唱えている方々多数には家内安全・家業繁栄、私のような不信心者には「無事の下山」を祈ってくれた。部屋に布団を敷いてくれている。一枚の長い敷布団、一枚の長い掛け布団、枕にはカバーが掛けられている。そこに全員が枕を並べて横になる。方角は北枕。寒いときは、部屋の隅に置いてある掻巻を身につけて寝るのだと思った。お坊さんは素足だ。冬は40センチの雪が積もるというから、まさか素足ではあるまいが、でもそうかもしれないと、「修行」を思う。会計を済ませ、翌朝のスケジュールを聞く。4時起き、4時半から勤行、でも4時40分にはご来光があるから見る方はそちらを優先してよいと。朝食はその後に急ぎであればすぐにも出す、と。良かった。「予報」では朝遅くなるほど雨がひどくなる。できれば早いうちに下山したいと思っていたから、5時ころ朝食、6時出発とした。

 6時半から勤行がはじまる。kwrさんたちは「疲れたので」と失礼したが、私はかつてここの勤行を体験したokdさんが「声明が良かった」と話していたので参列した。10人ほどの袈裟を来たお坊さんと6人ほどの作務衣の修行僧とが勤行をし、もちろん信者の方々はお題目だけでなく、法華経の読経にも唱和している。中には30歳くらいの(東京の)若い人も、九州からやってきたご夫婦も、岐阜県の会社の経営者もいて、熱心に参籠している。不信心な私はお焼香の順番が回って来たことにも気づかず、横にいたSさんにつつかれて、そうか私も焼香するのかと思ったほどだ。本堂両脇においてある大太鼓を、ふたりの作務衣姿のお坊さんが自然木を削った撥で、(お題目に合わせて)どん、どん、どん、どん、どんと打ち鳴らす。Sさんは何を思ったか、本堂の傍らに備えてあった法華の太鼓を手にもって、南無妙法蓮華経に合わせてどん、どん、どんと叩いている。後で聞くと、リズムが良い、声が良い、体で感じるとどうなのかと思ってという。彼女の尽きない興味の根源に、体感を通して身に刻むセンスが沁みとおっているようだ。

 翌朝4時15分前くらいに目が覚めた。トイレに行ってこようと部屋を出ると、すでにほかの部屋の布団を作務衣のお坊さんが片付けている。戻ってくると、私たちの部屋の脇に3人のお坊さんが待ち構えている。部屋に入り「おい、まだ少し早いが片づけのお坊さんが待ってるから起きようよ」とkwrさんに声をかける。部屋の電気をつけるとすぐに、外から声がかかり、ハイどうぞと返事をすると、お坊さんたちが入ってきて、さかさかと布団を片付け、お茶のお盆を持ってきてくれる。なるほどこれも、修行としての作務なのだと思った。

 「山の天気は予報通りとはいきませんから」とお坊さんの言っていた通り、雨が落ちていない。4時半ころ、随身門を出てみると、空の一部はすでに赤くなり始めている。その右の富士山には雲一つ掛かっていない。黒っぽい姿を屹立させている。緩やかに空の赤味が増してくる。遠方には雲が厚くかかっているから、下から上がってくる太陽の陽が照り映えていると思ったのだが、いつのまにか雲のなかに太陽の丸い形が赤く輝き、ここにいるよと言っているようであった。まだご来光時刻の5分前というのに。緩やかに世界が明るくなり、富士山の山肌の雪も見える。昨夜の勤行でお題目を唱和していた人たちもご来光を見に来ている。朝の勤行は、背中の方で始まっている。

 展望台からもどってくると、作務衣のお坊さんが「朝食になさいますか」と聞く。まだ5時前。ありがたいと応えると、すぐに部屋に朝食が運ばれてくる。食事をしている間も、本堂の方からは誦経と太鼓の音が響いてくる。食事を済ませ6時に出ようとのんびりしている間も、朝の勤行はやまない。部屋の裏側にある一の池の水面も明るくなる。緑の藻が蔓延って、水はきれいとは言えない。「昨日夕方の勤行の間に、この池にシカが何頭かやってきて、雄ジカが嬉しそうに飛び跳ねていた」とkwmさんが話す。静かなお寺の山に囲まれた池に初夏を迎えたシカの悦びが現れているように思った。

 6時に出発。二の池のあたりでkwrさんがリスを見かけた。池の水は少ない。鳥居の向こうに「影(よう)ごう石」と呼ばれる大岩が注連縄を張って陽ざしを受けている。切れ落ちた右側をみると富士山がくっきりと姿を見せている。奥の院は岩の北脇にある。ここも宿所になっているようだ。そしてここにも、七面大明神のご神体とご開扉があるという。後でここに泊まった二人連れの女性客信者を追い越した。彼女たちは昨年、敬慎院に泊まったが、あちらより1000円安いという。勤行も向こうと一緒、何より部屋から日の出と富士山が拝めるのが良かったとご満悦であった。同業他社なのか、別院というだけなのか。

 下山は緩やかな、と言っても標高差1650mを降るのだから、表参道に比べ二倍以上の長い下りになる。シロヤシオが咲いている。「自然記念物ゴヨウツツジ」と山梨県の説明板。見回すと付近の森の緑のなかに白い花をつけた木々が見える。アカヤシオの花は地面に落ちている。踏み固められた北参道は、しかし、あまり歩かれていないようで、丁石も古いまゝだ。坊はところどころにあるが、全部閉じている。その途次に大きなトチノキが花をつけている。「七面山の大トチノキ」と説明板が供えられ、こちらは早川町教育委員会と署名がある。ここにもクリンソウが身を隠すように花をつけていた。ここから主尾根を過ぎてジグザグの下りになる。傾斜はけっこうある。Sさんがひざを痛めたようだ。痛みを堪えようと体を後ろへそらせて左脚をピンと伸ばしたままで下り、その負担を右脚が全部引き受けてぎくしゃくしている。おしゃべりがすっかり止まっている。ずいぶん我慢して頑張っていたが、とうとう音を上げた。ベンチのあるところで休憩し、膝に炎症止めのスプレーをかける。効き目があるならとテーピングして、膝の周りにある筋を補助するようにテープを巻く。少しは楽になったようで、Sさんは先頭をゆっくり下る。おしゃべりが復活している。

 下の方が明るく見えるようになっても、Sさんは気を緩めない。一丁目の石が出てきてやっと、「学校が見える」と声が上がり、ほどなく前方に赤い鳥居が緑の合間に姿を現す。神通坊だ。お墓がたくさん並んでいる。みなお坊さんのお墓のようだと、Sさんはいう。そういわれてみると、確かにそうだ。振り返ってみると、鳥居の扁額には「七面山」と書かれている。つまり、表参道の鳥居をくぐったところから、この北参道の鳥居のところまで、すべてが「七面山」。山頂もさることながら、それよりも、参道の丁石や敬慎院や勤行や日の出と富士山の景観とそれを展望台からみているときの身延山までふくめて、そのすべてが「七面山」だと思った。昨年日帰りしたときには「みなまではみず」で七面山に登ったと思っていたんだなあと、あらためて感じ入った次第である。

 予約のタクシーはすぐに下部温泉ホテルに向かう。ホテルでは3人もの従業員が出迎えてくれる。車内から「日帰り温泉をお借りできますか」と聞くと、あと20分ほどで清掃に入るから、11時まで待っていただくようになると丁重なお断り。「膝を悪くしたSさんがもっとゆっくり休んで、下山すればよかったんだ」とkwrさんが茶化す。タクシーの運転手は、町営の温泉があるからとそちらへ車を回す。ところがそちらは、今日は清掃日に当たって入れない、と。やむなく駅に引き返すと「あと3分で甲府行きが来る」と運転手が調べてくれて、すぐに電車に乗る。Sさんがスマホで温泉を探してくれる。甲府駅から一つ先の石和温泉なら駅近にあるというので、そちらへ行くことにする。ところが接続がよくない。特急を使って510円払えばすぐに接続しているが、立川まで640円の特急券とは別に買うとなると、なんとも無駄遣い。ならば風呂はいいから、甲府でほうとうを食べて打ち上げにしようと気分が変わる。「何ですよぉ、それじゃあ石和温泉調べた甲斐がないじゃない」と愚痴を言いながら、Sさんは甲府駅徒歩三分の評判のお店「ほうとう小作」を検索する。こうして、具だくさんの「かぼちゃのほうとう」を生ビールのつまみにして、海サラダというすごく豪勢なサラダを頂戴して下山を祝った。交通の便と言い、天気予報の外れと言い、いろんな幸運に恵まれた七面山であった。

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