2018年5月5日土曜日
自画像を描き出す宮部みゆき
先月の「ささらほうさら」月例会で、「宮部みゆきの世界」を聴いた。講師のnkjさんに触発されて『孤宿の人』を読み、『楽園』を読みすすめていると昨日記した。今日、読み終えた。「宮部が一番気に入っている作品」と聞いたから、どこがそうだろうと考えながら読んだ。じつは読みはじめたときに、(あれっ、どこかで読んだかな)と思った。ストーリーの展開に、既視感というか「おぼえ」があった。だが読んだとすればブログの記録にあると考えて、2014年までを探してみたが、見当たらない。ま、ま、二度読んでもいいではないかと思いながら読みすすめたわけだ。
読み終わって、これは宮部の自画像だと思った。作家・宮部は、発生する「謎」にかかわるフリーライターの立ち位置を克明に穿鑿する。物語の展開にその都度生じる事態に対して感じる共感、哀しみや憤り。でも、第三者のフリーライターがどうしてそこまで「我がこと」のようになれるのかと自問させる社会の通念を、とことん引き摺る。ことを追及はするが、書くためではない。書くこともしない。作中で繰り返し、関係者にそう宣言する。作中、成り行きで(このフリーライターに協力した)若い女性警察官に「シゲちゃんは天性の嘘つきだ」と称賛させる。井上光晴の「全身小説家」を思い出した。しかし同時に、メディアに追い回される事件当事者の日常を取り戻すときに、「天性の嘘つきも、役に立つことがある」と言わしめる。これは、作家の自己批評だ。
作家は「虚構」を物語として語る。それがいかにも非日常的であることによって、面白さが醸し出される。でも現実から飛び離れてしまっては、ファンタジーになってしまう。あるいは、SFに堕してしまう。現実の世相を取り入れ、社会関係に身を置いて、なおかつ、「虚構」に向き合っていく人物を主人公に据えて追いかけるには、その隙間を埋めることのできる「嘘」が欠かせない。その「嘘」の展開が自然でないと、これまた、嘘っぽくなって物語は破たんしてしまう。その綱渡りをしている作家・宮部が、このストーリーの中で、フリーライター・前畑慈子として、気鬱になり、酔っ払い、憤り、とどのつまり、わが子の犯罪的行為にどうすればいいとあなたは言うのかと反問され、それに答えられない姿をさらけ出す。宮部は、自ら描き始めた虚構現実の「かんけい」に対して、自らたてた疑問にこたえるべく、ストーリーを語らねばならない地点に、来てしまった。先に述べた「自己批評」というのは、一歩腰が引けた表現だ。宮部は、自らを追い詰めてしまう。それが、ジグソーの最後の一片がピタリと収まるように見事に着地点を得て、とりあえず、「楽園」としての日常へ上手くつなげることができて、フリーライターもほっと一息つくことができた。これは作家の安堵のためいきに聞こえた。
そうだよなあ、でも、ところどころで、この展開を俺は知っているという「おぼえ」があったのを、消し去ることができない。そうか、2014年より前かと思い立ち、それ以前のブログのテキストに「検索」をかけた。あった、2013年6月16日のブログに《虚構という日常に浸る「おたく」》と題して、他の作家の作品と対照して、記している。私も気分で読んでいるんだと、じぶんを鏡に照らしてみるようであった。気分によって読み方が違えば、読むときの立ち位置まで違う。参考までに、その記事を後に続ける。それにしても、私はウソがつけない。それがいい事か悪い事か、わからなくなる。
* 2013/6/16 虚構という日常に浸る「おたく」
雨のせいではなく、この二日間ずうっと小説を読んでばかりいた。宮部みゆきの『楽園』文藝春秋、2007年)、上下2巻、新聞連載小説。それと、真保裕一『最愛』新潮社、2007年)。いずれも、姉妹と姉弟の間の、不在の十数年を挟んで起こった「事故」を契機に、何があったかに踏みこむ組み立ては似ている。
だが、宮部の小説が、なぜ抵抗なく読み手である私の幻想に絡み、真保の作品がなぜ「作り物」めいていると思われてしまうのか。そういうことを考えながら、どっぷりと作品世界に浸っていた。
ミステリーというのは、読み手というたくさんの日常世界の「日常性」をたどりながら、そこに挿入された亀裂から「非日常世界」に分け入って、そこに生まれるスリルを不可欠としている。「非日常世界」というのは、じつは日常性の裏側に張り付いていて気づかれないまま見過ごされていることが多いと宮部はみてとり、そこを解き明かしてゆく。真保は、自分の日常世界とは異質の非日常世界がかかわりのないところにあるという設定だ。
この両者の懸隔は、読後に読み手にもたらす衝撃において大きな違いがある。宮部の構築は、ボディ・ブローのように、時をおいて身に応える。わが身から離れないままに「非日常」が同質のこととしてわが身に)あることに気づかされるからだ。それが、あたかも他人事のように噴き出しているのが「家庭内のあらそい」であったり「非行」であったり「犯罪」であったりする。誰もが通過経験する「困ったこと」である。子どもの成長・生成ということは、それらを親と子や兄弟姉妹や同級生らとの)人との関係において通過しながら、それぞれに関係や世界や人間や自分というものを)「日常」として獲得していく。その感覚が、わが身をふりかえらせる仕掛けに通じている。
真保の仕掛けは、子どものころに縁戚に預けられていき別れて暮らしていた姉弟が、姉の「事故」によって弟が招きよせられ、弟が別れていた10数年の間の、意識の回復しない姉の日常性を探るという組み立て。それに対して宮部は、妹が姉との16年以上の不在をたどり返して、子ども時代の記憶を呼び起こし埋めていくという組み立て。しかも宮部は、第3者を間において、その解き明しが第3者自身にとっても我がこととして取り組まれる「蓋然性」を違和感なく、設定している。
つまり、宮部は子どもから大人への成長という人が歩む意識の)変化を読者と共有の)前提にする。それに対して真保は、行き別れた16歳ごろの印象をそのまま抱いて弟が「姉らしい」と納得することを通して、隔絶していた間に世間並みに抱いていた姉の人物像を修正しながら「親近感」を再生してゆく。
わが身の生成や成長を、苦い思いもふくめて思い起こすことの多い年になってみると、「我が印象」をそのままに延長して説得力とする仕掛けに、「わざとらしさ」を醸し出す「力仕事」をみてしまう。
さらに宮部は、語り手として登場する「第3者」と作者とを重ねあわせるようにして、人としての気分や気持ちや感覚や思念の)移ろいとその「理由/わけ」を書き込んでいる。そこに読者と同じ地平を築きながら、読者を「日常性」から自己を対象化してみせる「非日常性」へと誘い込む契機をつくりあげていっている。なかなかの手練れと言わねばならない。
すっかり虚構の世界に浸りきって、梅雨らしく湿度が高くなった「おたく」を過ごしている。
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