2018年5月3日木曜日
日々忘却の彼方へ
「世俗に戻る」と昨日記した。来週の今ごろは甘粛省の砂漠の中を歩いているはず。大慌てで、帰国後の、新しい社会的役割を果たすべく、準備を整えているというわけであった。また他方で、シルクロードから帰ってきた三日後に、Seminarがある。じつは私がコーディネートしてきたSeminarの最初の約束である五年間は、今年の一月に終え、三月にはその「まとめ」のSeminarも片づけた。そこで終了にすればよかったのだが、元気なうちは継続しようという「提案」があり、なんとなく私も「活力」のひとつと考えていたから、「第二期」をやることになった。5月は、AIと人間とを対比させて、自動機械の方から「人間とは何か」を眺めてみようというSeminarである。
これまでも何回か、そういうテーマでここに記してきたから、それを(意図して)まとめてみる機会にしようと「レジュメ」と「資料」をつくることにした。ここ十年以上も綴っている「日誌」を辿ってみると、2015年に最初の記事を書いている。レイ・カーツワイルが2045年に「シンギュラリティ/技術的特異点」が来て、その後の世界は、予測がつかないと述べたのが2005年であったから、10年遅れの後追いであった。関連記事を拾って、改めて読みなおしてみると、そうか、こんなのもあったかというのをふくめて、すっかり忘れているのもあった。過ぎ去ったことごとが、日々忘却の彼方へ消え去っている。もし「日誌」に記すことなく来ていれば、そういうことに触れたことさえ思い出さないであろう。「つれづれなるままに」書き記すブログが「私の記憶脳」を健康に保つというのではなく、「私の記憶の外部装置」として機能しているというわけだ。ははは。脳は着実に衰え、直近のことばかりか、十年前のことも、二十年前のことも、虫食いだらけの葉っぱのようにあちらこちらが欠落していっている。ま、そのようにして、不快な出来事も「体験」から蒸発し、今の今を大切に生きるという、まるで信仰篤き宗と教者の解脱のような気分を味わっている。
そうして改めて、カーツワイルの未来予測を読み返してみると、いやこれが、よく当たっている。当たっているというよりも、それ以上に現実態は進行している。カーツワイルは2018年に「10TBの記憶装置が1000ドルで手に入る」と2005年に予測している。ふと、今いくらくらいしているのだろうと、ネットで検索してみると、なんと2万円ちょっとである。2010年代にデザインベービーが登場するというのも、遺伝子解析が進んで、あれこれいじれるようになってきている。とすると、AIが価値判断するときのモチベーションが「利得」というとき、それこそトランプさんの振舞いのように「わが利得ファースト」となると、「このAI」と「そのAI」との衝突が起こらないとも限らない。ただ、AIはなんとなく、汎用性を持っていると想定されているから、「(人間社会にとっての)倫理的な振る舞いにふさわしい利得」と枠をはめておかねばならない。でも今の国際情勢を見ていると、とうてい、そのようなことは望めそうもない。当分、人間社会の利害を反映した「断片的な利得」を求めるAIフラグマンの「確執」を何十年か経て、2045年を迎えるのかなと、思う。
もうこの事態になれば、私らがどう考えるかなどは、ほとんど何の影響も与えない。ただただ、AIが自己進化していく過程で、アナログ的な(電子工学研究者からすると、取り除くべきノイズと考えられている)電磁的な漏出などを組み込んだ「謎」の回路を経験則的に、つまり試行錯誤的に取り入れて、「確執」を活かしていってもらいたいと願うばかりである。
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