2019年6月12日水曜日

農業国に変わるか、モンゴル東南部


 モンゴルの旅は、私にとって三度目。3年前(2016年)に南ゴビ、2年前(2017年)に東北部のチョイバルサン周辺、そして今回(2019年)がモンゴル東部地方。いずれもウランバートルを起点にして移動しています。今回は東南部地方の最南端、内モンゴルと接するあたりにまで足を延ばしました。前に2回には、ウランバートルとその近辺の探鳥地も訪ねているが、今回は滞在のほんのちょっとの間に宿の近くをみただけでした。


 モンゴルを初めて訪ねたSさんは、探鳥歴が半世紀近くになる強者。ほかの地方にも興味を示し、「この東部地方とどう違いますか」と風土的な特徴を車中で口にしました。そう問われてう~んとしばし困ったのは、北東部と東南部地方の地勢的な違いでした。南ゴビは平原と山岳。砂漠地帯という私のゴビ・イメージとまったく違っていて、驚くほど変化に富んでいました。チョイバルサンと北東部は、広大な平原。今回の東南部と違って高い山もそれなりの丘陵地帯もあったという印象がありません。では、東北部と東南部の草原は同じかというと、印象が違います。その違いをどう説明したらいいか、わからず、う~んと唸ってしまったのです。

 東南部地方の平原は、雨が多かったということも影響しているかもしれませんが、遠目には緑に溢れていました。でも上空から見たら緑と土色が半々を占め、背の低い草々が懸命に生き延びようとしているようにみえたと思います。東北部はかつて海の底であったと言われるように塩苦汁土に満ちていました。風が吹くと塩土が舞い上がり、まるで湯気が立つように真っ白なカーテンをつくっていました。その東北部の草は、株ごとにまとまって孤塁を護るように小さな盛り上がりをつくって、ぽつぽつとたくさん点在していました。たぶん、成り立ちは逆で、植物の生育した部分以外の土砂が風に吹き飛ばされて、孤塁のように盛り上がったのでしょう。そうでしたから、車はその小さな凸凹を避けようもなく、絶えず小さく揺れ続けて走ったものでした。植生が違うのだと思いますが、東南部地方の草々は生育に適した土が増え繁殖すれば、一面密生する草原に変わるように思いました。

 じっさい、いくぶん山間高地に入ったKHURKH BIRD BANDING STATION のあった草地は、水の豊富な湿地ということもあってか草々は密生しており、タンポポやサクラソウのような花々が咲き乱れていました。また、草原ばかりと思っていたところが、気づくと小麦の畑が延々とつづく地帯を通過していることもありました。単作の小麦だからでしょう、連作が利かないために、休耕地と耕作地が広く互い違いにしつらえられて、まるで富良野か美瑛かという景観のところも通過しました。土質や栽培技術にも関係するのでしょうが、生育はまばらで上手に育てているとは言えません。まだ始まったばかりなのかもしれません。地形的な高低差がないこともあって、全体を見渡すような地点がありませんでしたが、もし機械化するならば一大農業地帯になると、気象の変化と合わせて思ったものです。

 そう言えばガイドは、北海道産米の品種を導入して、モンゴルで米作りに挑戦していると話していました。現在はもっぱら中国から輸入している米を国内産にしてゆくというイメージは、開発途上のモンゴルの気風にマッチするのだろうと思います。そもそもモンゴルではコメもジャガイモも同じと考えているように思えます。モンゴル航空の機内食で「ビーフかチキンか」と聞かれビーフを頼んだら、ジャガイモを崩して味をつけたものがついていました。隣のチキンを頼んだ方のには、ご飯がついていました。どちらも「おかず」として考えているのだと思います。

 実際、これまで3回のモンゴルの旅で提供された野菜の印象が、その違いをふくめて強烈です。3年前のときも、ゲルで出された食事に野菜サラダがついていました。レタスもキュウリも生は歯ごたえを感じるほど固いものでした。私たちのテーブルにある野菜がドライバーさんたちにはなかったので、そのことを聞いたら、ドライバーさんが「そんな、私たちは羊や牛じゃないんだから」とさもバカにしたように嗤っていたのが、記憶に残っています。日本人客だからというので、特別にあつらえたものだったのです。

 2回目の旅に感じた野菜のことを「ホールケーキのようなポテトサラダ」と題して、こう記しています。

 《お昼が運ばれてきた。大きいサラダだろうか、見た目にはホールケーキのようだ。ナイフとフォークを入れる。ポテトサラダを野菜とマヨネーズではない何かと混ぜ合わせて、ケーキのようにまとめている。これが、おいしい。これだけでお腹はいっぱいになると思われたが、とうとう全部食べてしまった。……食べ終わったころに、メインディッシュが運ばれてくる。鶏肉を素揚げにしたのであろうか、味もしっかりついていて、これもおいしい。いやはやこれを食べるのはたいへんだ。とうとう私も、ひとかけら残してしまった。これまでも何度か書いたが、モンゴルの食事はこの一年の間に激烈に変化したように思う。私の加わったツアーの違いもあろうが、モンゴルが急速に変化していると思えてうれしい。》

 そして今回の旅。野菜は格段に上手に調理され、サラダにはドレッシングが添えられて、ただ単に日本人向けに提供されているというより、モンゴルの食事の一角を占めるようになったいると思われました。たぶん野菜の栽培も、事業として確立してきているのでしょう。モンゴルのマーケットに、トイレ休憩も含めて二度立ち寄ったが、広い売り場に豊富な果物と野菜が盛り上げて売られていました。国内産がどの程度を占めるかはわかりません。ロシアからとか中国から輸入されているものが多いとも聞きました。だが着実に、羊や牛でないモンゴル人が増えているのではないか。面白いと思いました。

 モンゴルの旅ではいつでも感じることですが、ことに今回の東部の旅では、モンゴルの人々は遊牧の民だと思いました。これまで以上に、広々とした草原に、牛や馬、羊や山羊の群れが草を食んでいます。人は見かけませんが、おおよそ目に入る範囲にひとつは、ぽつんと白いゲルがあります。その周りに柵囲いがあったりするのは、夜になるとそこに牛馬や羊などを入れるのかもしれません。ときどき、馬に乗った人やバイクに乗って馬を追うカー・ボーイをみました。都会地は別としてモンゴルの人たちの暮らしは遊牧を基本として、それがいま、変わりつつあるのでしょう。

 ウランバートルへ戻る途中に、ほんのわずか珍しく針葉樹が立ち並んでいるところがありました。傍らに網囲いをした「針葉樹の植林」が行われていて、細い水路が設えられていました。そう言えば鳥取大学の知り合いがメキシコへ学生さんたちを引き連れて「植林」の活動をしているという話を聞いたこともあります。砂漠や高地での植林も、日本のODAとして行われているといいます。どこであった街道の途中で、日本の国旗とモンゴルの国旗を記した開発事業らしい拠点もありました。何をしているのかわかりませんが、モンゴルも変わりつつあるように感じました。

 ただ、水があっても土質があわなければ作物は育ちません。まして、遊牧で暮らしを立ててきたモンゴルの人々が定住の農業生活へ切り替えていくのは、文化的な大転換でもあります。跡継ぎを別として、家庭の次三男が遊牧から離れて農業に従事するという想定は、机上で想定するようには進まないものです。人口の6割が住み暮らすウランバートルに、遊牧地から余剰人口が出てきてマンホールに暮らすしかない人たちを生み出しているそうです。その現状を何とかしようと政策がたてられ「高層ビル建設ラッシュ」であるとはいうものの、その開発資本はどこから捻出しているのか。目下開発展開中のウランバートル近辺でさえ、米中貿易戦争のお蔭で中国資本は途絶気味。建設途中で中断された高層ビルがそちらこちらに、廃墟のように佇んでいるのをみると、そう楽観的に語れません。

 今後のモンゴルがどのように変貌していくのかわかりませんが、気候の温暖化に伴って農業国に変わるかという私の期待は、じつは私自身が(子ども時代から現在までの)日本で失ったことの裏返しなのかもしれません。モンゴルに対する私の(ある種、憧憬ともいえるような)感懐は、遠く離れてみる故郷の醸し出すようなものともいえます。そのような思いを抱えてモンゴルを見るのは、もうやめなければならないと、ふと思いはするのですが……。

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