2019年6月3日月曜日
職務遂行の力から解き放ちたまえ
久々に活劇物を読んだ。ドン・ウィンズロウ『犬の力(上)(下)』(角川文庫、2005年)、ハードボイルド・サスペンスとでも言おうか。でも、素材が大掛かりで生々しい。1970年代から2000年代前半までの30年余にわたる合衆国と中南米諸国の麻薬をめぐるマフィアと麻薬カルテルと取締当局と関係各地の警察や公安当局の絡んだ抗争。それに、米国の政治的・経済的中南米への介入政策とCIAの秘密工作や各国政府の思惑がまとわりつく。今ちょうど壁をつくることでクローズアップされているアメリカとメキシコの争っている現場。その両者の関係の、利害のかかわるいろいろなモメントがもつれて展開する。ちょうどその間、合衆国が中南米諸国に手を下していた左翼制圧の政治工作や破壊工作が(いかにもそれらしく)麻薬栽培に絡めて登場し、どこまでが本当でどこにフィクションが盛り込まれているのかが混沌としている、と感じられる。作劇の結構がきっちりしているとでも言おうか。ベトナム戦争の手練手管が、コロンビアやグアテマラ、ニカラグアなどを舞台に繰り広げられると、イラン・コントラ事件などが想い起こされ、ふむふむそういうこともあったなと心裡が落ち着かない。
でも通快といかないのは、この作者、正邪を明確にしないから。取り締まる側も対抗する側も、有無を言わせぬ金と暴力の支配が大手を振ってまかり通り、謀略と密告、力による制圧と報復が交錯する。その間に家族とセックスと圧倒的な貧富の差と浮かばれない人々の暮らしが挟まれていて、上から下まで汚職にまみれる当局者が登場して舞台回しをつとめ、庶民は屈辱に打ちひしがれて虫のようにあしらわれる。これこそが現実よと、皿に盛って差し出したってところか。
日本に舞台を置き換えると成立しないような物語りと思うのは、私の世界が狭いからなのだろうか。ハードボイルドといったが、あまりにドライに命を奪う展開は、全体の図柄を簡明にして提示することに貢献する。敵と味方、力と非力、支配するものと対抗するもの、交渉相手とその他大勢、つまり構造的な対立構図を描き出す。だが、人と人との関係をこの作家がどうみているかが、家族関係を除いて揮発してしまう。セックスと家族と教会とが特段の動機やモメントを担って描かれ、そこに情が絡むような仕掛けをしているから、この登場人物たちの世界観、社会観、人間観がどうなっているのか、ふと疑問に思う。とても単純、扁平にみえる。
いや世界観なんてないよ、といえばそうかもしれないと思う。だが殺戮を、ただ単に(命じられた)「仕事をしているだけ」というには、あまりに非情。ナチスの強制収容所の管理者たちさえ普通の人に思えてくる。つまり暴力を、関係を動かす必須の要素とみているだけではなく、その行使に、まったく何のためらいもない。マフィアとか麻薬カルテルというのは、ヤクザなのだから、そういう世界ばかりで当然と、ひとはいうかもしれない。だが、その彼らと同じ次元で、警察官や麻薬取締官や、大統領も含めて政府の高い地位にいる人たちが、タテマエ的な合法性だけを保ったふりをして登場するのをみると、えっ、ちょっと違うんじゃないのと思ったりもする。
だがそれを否定しきれないのは、CIAがどのような秘密工作をしてきたかを、たとえば、ティム・ワイナー『CIA秘録(上)(下)』(文藝春秋、2008年)などのドキュメンタリーで読み知っているからだ。もしこの作家の描く暴力性がアメリカのそれなら(これまでに見た報道や映画や本からすると、ほんとうだと思ったりするのだが)、暴力に関する彼我の相違は埋めがたいほど大きい。日本における私たちの「暴力」に対する見立ては、ずいぶんと情を絡めて、その行使にはきちんと筋道立てた言い訳を(作家が)しながらだなあと、感慨深いものを感じる。ヤクザ映画の暴力にしたって、暴力の爆発までには、ある種の美学を込めて描いているのではないか。
あるいは、ウィンズロウの作品中にも滲み出ている「敵―味方」を明確に識別して物事を見たてるアメリカ的というか、西部劇的価値観に色濃く塗りこめられて、容赦のない暴力の行使がわだかまりなく披瀝されているように思える。アメリカでまた銃乱射事件が起こったと今日の新聞にも報道がなされている。文化として「暴力」がどう受け入れられ、どう排除されてきたか。そんなことを考えさせられている。
ウィンズロウの作品の最後に、まるで贖罪のように次の詩編が挟まれていた。
わが魂を剣から解き放ちたまえ
わが愛を犬の力から解き放ちたまえ
そう、まさに、「解き放ちたまえ」と祈りを込めたいと(私は)思ったが、果たして作者がそう思う地点に立っているのかどうか、わからない。
そうそうひとつ追加。タイトルの、「犬の力」って何だ?
本書中に登場する犬は、麻薬取締官であったり、麻薬カルテルを支えるシステムであったりしている。強固に職務を遂行する力が「犬の力」かと思わせる。職務は、いうまでもなく正義であったり、忠誠であったりするから、正邪どちらの側のものかは問わないのかもしれない。つまり登場人物から少し距離を置いてクールに観ているぞ、と著者の到達点を示そうというのが、この詩編かも知れない。そのあいまいなところが、この作家の今後の伸びしろを示しているように思うのだが、どうだろう。
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