2019年6月14日金曜日

うろつく「わたし」


 昨日は午後から定例の会合が予定されていた。その例会毎に刊行している「通信誌」を作成した。いつもなら、早めのお昼を済ませて、12時ころには家を出て浦和駅まで歩き、図書館や本屋をのぞいたりアウトドアショップで買い物をする。だが、たまたま友人に渡すものがあって、それを手にもって歩くのはちょっと重いなあと思ったので、電車で行くことにした。とすると図書館などには寄らないからゆっくり家を出ればよいと、お昼をゆっくり済ませてTVを見ていたら、出かけていたカミサンから珍しく電話がかかってきた。


「いまどこにいるの?」
「ああ、これから出かけるところ」
「いまKさんと出あってね。今日の会合は来週に延期されたんじゃないの?」
 という。Kさんというのは、手渡すものがあるという私の友人。その友人がカミサンと高尾山に来ていて、偶然出会ったのだそうだ。

 私の手帳をみてみると、たしかに「13日(木)→20日(木)」と矢印が引かれている。そうか、そう言えばそんな話が出て、修正したことがあったなと、思い出したというか、思い当たるところがあった。すっかり忘れていた。

 カミサンは植物の観察会に足を運んだ。友人夫婦は、山歩きのトレーニングで高尾山に来ていて、これから下山するという途中でばったり出会ったようだった。あれっ、今日は定例会じゃないの? とカミサンが思ったことから、私に電話することになった。

 私にとっては、ラッキーといおうか。もし大宮まで行って、会場で「そんな会合予定は入っていません」といわれて、手渡す荷物をまた、持ち帰るってことになっていたら、さぞや落胆するだろう。何より自分のウカツ、ソコツが身に堪えて、一日ボーっと過ごしてしまうに違いない。

 考えてみると、本当にラッキーが、重なっている。重い荷をもって出かけていたら、おろおろとうろつくようになったにちがいない。うろつくって彷徨うことと思っていたが、身に洞(うろ)がついて(振る舞いが)虚(うつろ)になることなんじゃないか。それを外部から見たら、彷徨(さまよ)っているようにみえる。外から見ていることを、内からみると、じつは同じことを指していたってことは、よくある話。

 いよいよ「わたし」も、うろつく年齢になった。

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