2019年6月29日土曜日

外に写す妄念を振り払うやり方


 作家というのは、取り上げたいテーマを横糸に、物語りの展開を縦糸にして、作品を書き上げる。もしテーマが前面に出てしまうと、まとまりのないエッセイを読むようになって、下手な論文にも及ばなくなる。ストーリーが急ぎ足になると、骨組みの構図ばかりが浮き彫りになって、薄っぺらな粗筋のスケッチを読むようになる。その両者がうまくかみ合うと、登場人物たちが独り歩きするようになって、読むものの胸の裡に広がる情景が起ちあがり、ひとや社会に対する深い奥行きが感じられて、ずっしりと響く読後感が残響を残す。


 いま読み終わった、宮部みゆき『おまえさん【上】(下)』(講談社文庫、2011年)は、まさに、そのような作品である。上下2巻で1200ページもある。だが描き出される物語は、ストーリー展開を急ぐでもなく、江戸の町民の日常を揺蕩うように描き出しながら、でも間違いなく歩一歩と進展する。

 標題の「おまえさん」に反して、宮部がテーマとして取り上げたい主人公は「女たち」である。女たちの胸中に去来する妄念であったり、執着であったり、愛憎であったりの思いが、人と人との絡まりにつれて揺れ動く。「男は莫迦だ。女は嫉妬だ」という悋気から解き放たれて、心たしかに暮らすには、どうするのか。それを宮部は、この作品の全編を通じて描き出している。

 「おまえさん」という言葉を発する女たちの、身を置いている安定感を支えているのは、何か。連れ合いが居ようと居るまいと、女たちの暮らしのたたずまいの確かさは、生業に従事し、人の面倒を見、日々の為すべきことを丹念に取り計らう振る舞いにある。それをおろそかにすると、妄念に振り回され、執着に道を誤り、愛憎に切歯扼腕することになる。

 江戸という舞台がいっそう「かんけい」の事態を明白にする。出自や身分、仕事や男女の違いによって「断念」しなくてはならない壁は、いくらでも目に見える。妄念や執着が行き当たる壁もまた、目に見えてそそり立つ。それは裏を返すと、今の時代に見えなくなっている分だけ、人の抱える妄念の振り払いどころが、わからなくなっているとも読める。

 面白いことに、この作品に登場する男たちに、しっかり者の女たちは頼りがいを求めていない。宮部が「おまえさん」と、好ましい響きを湛えて呼ぶ男がどのような人物かをとりだしてみると、何とも剽げた、一見頼りがいのない、ちゃらんぽらんの、遊び人風情か、律義に、坦々と、為すべき事を運ぶ職人や商売人である。つまり人が生きることの基本を押さえてさえいれば、わりと男っていい加減に生きているのよ、と見極め、女が抑えるべきところをしっかりと押さえて、食べ物をつくり、始末をしてやりなさい。そうすれば男たちが、そこそこ世の中を転がしていくもんだよと、宮部はみてとっている。

 いま大真面目にそういうことを言うと、ジェンダーだと非難の声が上がるに違いない。江戸という舞台だから許されている向きはあろう。だが、時代をこえて、男と女が織りなす世の中と見てみると、向き不向きをふくめて、男と女のあいだの傾きの違いを感じないわけにはいかない。女のことを語るのに「おまえさん」という男を経由し、介添えさせて表現するという手管にこそ、たんなるジェンダーモンダイに落とし込まない宮部の「腕」があるようにおもったのだが、どうだろうか。

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