2019年6月1日土曜日
何という冒険!
ニュースを見ていて、驚いた。エベレストの山頂付近で何百人もが列をなして、順番待ちをしている映像が流されている。まるでディズニーランドの人気催し並みだ。だがたぶん、(こりゃあ駄目だ、やめよう)と気軽に離脱することが出来る場所ではない。行くも地獄、帰るも地獄。待っているのが一番の地獄だ。
還暦を迎える2年ほど前に、インドヒマラヤの無名峰にチャレンジしたことがある。地図はソ連時代の衛星から撮影された画像だけ。氷河から流れ落ちる水のつくる谷川を辿り、山頂へ詰めるルートは、しかし、すでに何キロか氷河が後退していて、予想以上に時間を食った。
そのころすでに、エベレストの登山はやるもんじゃないと思っていた。入山料が100万円を超えると聞いた。それに遠征費用を加えると200万円以上かかる。そんなにしてまで上る山かと、負け惜しみのように(懐具合をみながら)思ったものだ。それに酸素ボンベを背負って登り、それを棄ててくるのが問題になっていた。エベレストのゴミだ。無酸素登山こそがホンモノという気分も、負け惜しみを後押ししてくれた。
だれが書いたものであったか、当時、地元シェルパの遭難死が絶えないと訴えていた。観光気分で入山する登山者を、とにもかくにも登らせよう、無事に下山させようと力を尽くし、命を失うガイドが毎年何人もいる、登る人たちはそれを考えているかというものだった。荷運びをふくめ、シェルパに頼り切って「登らせてもらう」のは、もう登山とは言えないという思いもあった。
何年か前から何度か、三浦雄一郎のエベレスト登山が大きく報道された。何十人というスタッフがサポートして、象徴的人物を神輿に乗せて一大イベントとして行われる登山。あれはもう、情報宣伝力と組織力と資金力の総力戦ではあっても、エベレストに対する畏敬の念を忘れてると思っていた。まあ私は、別に宗教的な主義主張をもっているわけではないから、その山に対して畏敬の念を持っていようといるまいとどうでもいいといえばいいのだが、自分の歩くルートや目標とする山について畏れと敬意をもたなかったら、単なるトレーニングに過ぎない。
エベレストを間近に見に行ったことはある。ネパールの首都から小さなプロペラ機に乗って山間の斜面につくられた小さな滑走路・ルクラに降り、そこから往復一週間の旅をして、エベレストに近づいた。この山にサガルマタ(海の頭)という地元名があることも、そのとき知った。エベレストのベースキャンプを下の方に眺める標高5500mのエベレスト展望台というようなところ、カラパタール。山頂から20㎞離れて富士山ほどの高さが迫っている感触だが、周囲の大きな景観全体が一視に収まるから、距離感も高さも、それほどとは感じない。すぐそばにいるようだ。ところが、その一角で雪崩が起こり雪が崩れ落ちる。すぐ目の前で起きているのに、まったく無声映画を観ているように、音が聞こえない。黙ってそこに1時間近くいたであろうか。神々の世界に身を置いていると感じたと、当時の私は記している。
このカラパタールに行ったときも、高度障害を起こして、7人のうち3人が5000m付近から下山した。エベレスト・ルートの、その上は、氷河のクラックもあり、ハシゴやザイルの援けを借りなければならない。何よりもシェルパのガイドが先行し荷を担ぎ上げてくれるから、わが身一つなのだが、それでも自分の脚で歩かねばならない。技術的には冬の富士登山と同じ程度でいいそうだが、何より薄い空気に負けない資質を必要とする。酸素ボンベを使うのは、身のほどを知らない振舞い。つまり、手の届かないところとみていた。
だから、驚きなのだ。こんなにたくさんの人たちが、山頂直下にいる。映像を見ると、まるで槍ヶ岳のピーク直下のように、明るい陽ざしを受けて順番待ちをしている。槍ヶ岳のピーク直下なら、10分もすれば山頂に届く。しかも下山路は登山路と別に設けられているから、すれ違いに難しさはない。だが、エベレストは、山頂まで最低2時間はかかる。しかも下の方までびっしりと人が並んでいて、「渋滞」と表現している。さらに悪いことに、登山路と下山路は一つ。すれ違いをするだけで足を踏み外す危険がある。どうすんだろう、この人たちは。
そうか、これも冒険なのか。いつからこうなったか知らないが、エベレスト登山は、何という冒険か!
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