2019年6月13日木曜日
自然に身を浸す暮らし方
6/3成田空港を14時40分発。ウランバートル着20時少し前。ほぼ定刻に出発し40分ほど遅れてに着いた。旅のコーディネートをしてくれたモンゴル人ガイド・バヤラさんが迎えてくれる。日本語の達者なこの方と埼玉県の野鳥観察の達者であるngsさんが逐一相談して企画を立ててくれた。今回は石川県の野鳥グループも6人参加して、これまでにない大勢のモンゴルの旅となった。埼玉から参加した鳥観の人たちも6人。大半の人が4回から7回もモンゴルを訪問している。私は3回目。
どうしてそんなにモンゴルに魅かれるのか。じつは、よくわからない。顔つきが似ているから? 朝青龍や白鵬の顔を思い出していただくとわかるが、典型的なモンゴル人の頭骨は顎のえらが張った四角い顔だ。どちらかというと、縄文人の顔つきに近い。今の若い日本人は顎も細く、モンゴル系とは思えないから、顔貌が似ているからではない。だが、モンゴルの都会地の人波のなかにいると、ピリピリした緊張感を感じない。中国や香港では、飛び跳ねるようなことばの響きもあるが、身体が緊張に包まれ身構えている。去年、シルクロードを訪ねたとき甘粛省のモンゴル系の人、ツングース系の人やウィグル族の人たちにはそれほどの緊張を感じなかったのは、なぜか。漢族などの人性が醸し出すこすっからさが、用心ならないという警告音を私の身の裡に呼び出しているのかもしれない。
ただ一つ、思い当たるのは、飛行機の中で読んでいた小説の次の一節である。
《石づくりの小屋の小さな窓から外を眺めても、霧と激しい雨の幕が掛かって、ふもとの村からのぼってくる田舎道さえ見えない。あたりにはこの小屋一軒きりで、この午後は常にもまして孤絶感が募った。三、四日に一度、日用品を調達するために村へ下りるだけの、そんな暮らしがふだんは気に入っているのだが、きょうはどうにも人恋しい。ふだんは居心地のいい小屋なのだが、きょうはどうにも息苦しい。一つしかない電灯の光では、暗鬱を払うには足りなかった。……書物のほかに伴侶もない生活を、ここでもう七カ月も続けてきたのだから。……》
これは、アイルランドの片田舎に身を隠している青年の物語りの、その後に起こる大変転と対照させるために記された佇まいなのだが、昨日「モンゴルに対する私の(ある種、憧憬ともいえるような)感懐は、遠く離れてみる故郷の醸し出すようなものともいえます」と書き記したように、私自身の原体験と重なる「懐かしさ」を感じるからかもしれない。そう言えばモンゴル系、謂われてみればモンゴル語族であったという自己意識が鏡に映し出されるように、私の裡側から引きずり出しているものがあるような気もする。
今回の旅で移動する距離は約1000㎞。モンゴルの人口約324万人、そのうちのほぼ半分約150万人がウランバートルに住む。面積でいえば日本の4倍の国土に、40分の1の人口である。日本で問題になっている「過疎化」などは、なにがモンダイ? といわれてしまうような住まい方だ。もちろんそれに見合った暮らしの文化があるから、過疎化が問題になっているとは耳にしなかったが、そのように人口がう~んと少ない地域への旅であったわけだ。
ピンポイントで、鳥観に適している地域を訪ねて歩いた。旅をコーディネートしてくれたのはバヤラさんという30代半ばの女性。日本にも留学したことがあるという日本語の達者。彼女の家族のことは、2年前のモンゴルの旅で触れたので、今回は省略する。
鳥と動物のガイドをしてくれたのは、モンゴル科学アカデミーの生物学研究所の研究者のツグソーさん。正式の名前はSUKHBAATAR TUVSHINTUGSさんというのだが、通称TUGSUUツグソーと、バヤラさんが日本語に翻訳して紹介してくれた。
今回の旅のもっとも遠方が、スフバートル県のハラザン村にある「草原野生保護研究センター」のキャンプ。あと少しで中国の内モンゴル自治区に接するところ。ふんふんと聞いていたが、スフバートル県の綴りはSUKHBAATAR。つまりツグソーさんの苗字は出身地の県名。「スフバートル県のツグソー」というわけである。何というか、出身地がそのまま苗字として用いられる時代をモンゴルはいま過ごしていると思った。姓名の並び順も、なるほどモンゴル系だ。
ついでにもう一つ。じつはハラザン村の研究所のキャンプにいたとき、彼の撮影した写真集が2冊あることが分かった。いずれもモンゴル東部地区の動物を撮影したものであったが、1冊はマヌルネコというこの地固有の野生ネコの写真集であった。「ええっ、マヌルネコ! ここだったの?」と目の色を変えて飛びついたのは、家のカミサン。いつだったかNHKのBSで特集し、すっかりとりこになったカミサンは、録画して見ていた。帰国してとってある録画をチェックしたら、NHKBS「ワイルドライフ」のひとつ。そしてこの特集の撮影をガイドしたのが、ツグソーさんであったことが分かった。つい二日前に分かれた彼が、画面でマヌルネコを捕獲し、観察し、保護活動をしていることが1時間にわたって綴られていた。これは驚きであるとともに、うれしい発見。そうか、こんな方が鳥ガイドを引き受けてくれたいたのかと、感動したのであった。
別様にいえば、今回の鳥観の旅は、ツグソーさんの研究フィールドを駆け足で紹介していただいたものであった。NHKの番組は一年を通して撮影したものだったから、私たちが見て回った風景に、植物繁茂の時期や雪の季節など、いっそうの彩と特徴を添えて見つめ直すようであった。今月の半ばには33歳になるというツグソーさん。この若さで野生動物に関しては一家言持つ専門家になって、しかも写真集の売上金がこの土地の小学校建設のために用いられているという話も、彼の志の高さとこの地の文化伝承のかたちをうかがわせて興味深かった。ちなみに、車の中から通過しながら「おおっ」と声を上げたのだが、「日馬富士小学校」というのもあった。これも、例の引退した横綱が故郷に飾る錦の一つということなのであろう。こういう「ふるさと=くに」の心もちこそ、近代化が進んだために日本が失った一番大きなことであったかもしれない。
今回私たちは7泊のうち3泊をキャンプですごした。グンガルトキャンプ、フルフ川キャンプ、そしてハラザン村キャンプである。大きいところは、ゲルが何十張りかあり、食堂棟やトイレ・シャワー棟が別にしつらえられてあった。最後の研究所のあるハラザン村キャンプだけは、5張りのゲルと、囲いだけのトイレやシャワー。ここ数年で増えたリゾート・キャンプはゲルをくっつけてゲルとトイレ・シャワーが内側で続いている大きなつくりになっているが、ゲルの内部構造はいたって単純。
3メートルほどの長さの二本の支柱が半径50センチほどの天蓋の丸枠を支え、高さ1.5メートルほどの木組みの外壁部からもたせかける何十本かの柱を受け、それらの上を羊の毛皮で覆うというつくり。天蓋の覆いをとれば素通しになるところもあり、また、外壁部の裾をしっかり土で抑え込んでいて風が入らないようにしているところと、裾を開けたまんまにしているところとがあった。後者の方は夏用ゲルだと誰かが解説していたが、じつはそのゲルの天蓋が開いた方は、ゲル中央のストーブを焚いてくれたにもかかわらず、夜中に寒くて目が覚めたとぼやく人たちがいた。強風雨に見舞われたハラザン村キャンプのゲルは、入口が南向きになり、北からの風を防ぐようにしっかりと裾も固めてあった。床下浸水は、にもかかわらず……であったのだ。
ゲルには外壁に沿うように三つないし四つの寝台が置かれ、敷布団と掛け布団が用意されていた。簡単な洗面台が置かれているところもあったが、狭いとは思わなかった。要は、最小限の荷物を持ち込んで質素に簡潔に、そして不足ない暮らしが成り立つような暮らし方だと、私は感嘆した。近頃は別として私は、長年、山ではテント泊をしてきたから、このゲルの暮らしの簡潔さには、懐かしささえ感じるほどであった。夜中のゲルの天幕を打つ風や雨の音も懐かしく、(その音が何によるものかわからず)山中の単独行で怯えたこともあったと思い出していた。
こうしたゲルであったからこそ、早い人は朝4時前に起きだし、明るくなり始めている4時半には鳥を見に出払うようであったし、私などまで4時半には起きだし、5時ころから朝探に出かけ、そのような非日常もまったく苦にならなかった。
こうしたモンゴルの民の暮らし方は、いわば自然に身を浸し暮らすありようではないか。つまり私たちの原初の暮らしを彼らの日常がまだ持っていることこそ、遠くにありて思う故郷のように感じて、何度も足を運んでいるのではないかと、わが胸に問うているところである。
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