四国のお遍路から戻ってきました。
えっ、五月いっぱいの予定ではなかったの? とお思いでしょう。
その通りです。でも途中でひと区切り付けて、帰ってきてしまいました。なぜ続けなかったのか、どうして止めたのか。これは「お遍路敗退」ではないのか、などと思い巡らしながら、今考えているところです。そもそも全部通しで歩こうというお遍路を意図していたわけでもありませんから「敗退」ってのは、似つかわしくありません。お遍路を(ひとまず)お返路したっていうところですね。
自分でも、よく分からない。身の裡の感触は言葉にできます。飽きちゃったんです。
何やってんだろうねえと、自問自答が始まり、これよりは、山歩きの方が面白いじゃんとか、家に籠もって浮かび来るよしなしごとを綴っている方が、身の充足感が一段上なんじゃないかとか、感じるようになってしまったんです。
なんでだろう? 飽きちゃうって、何だろう?
私の本源的なナニカが、声を上げ始めているのだろうか。あれやこれや思い巡らして、いややっぱり、まずなによりもすっかり草臥れているわいと、取りやめて戻ってくるまで、帰ってきてからのわが身の振る舞いを振り返って、身の奥底からの声に耳を傾けている次第です。
子細は後ほど記しますが、19番札所立江寺から37番札所岩本寺まで合計422キロ、4月22日から5月7日まで16日間歩いてきました。1日の最長歩行距離は35キロ、最小歩行距離は13キロ、平均するとほぼ毎日26キロ歩いた勘定になります。でも振り返ってみると、歩いた距離と疲労感とは比例していません。感じ取る疲れははじめの頃が強く、だんだんに慣れてきて、切り上げることには、えっこんなに歩いたの、と終わって歩数計を見て驚くようでした。もちろん気分は、まだまだ歩けると余裕のよっちゃんでした。
ところが、岩本寺近くの窪川の宿で一泊、翌日岡山の兄の家に泊まって翌々日、つまり二日掛けて帰宅したのですが、窪川から岡山までの電車の中と岡山から浦和までの電車の中で読んだ本はわずか3頁ほど。少し読んで考え耽っている間に眠り込みボーッとしている間に電車は乗換駅に到着しているという有様。つまり躰はすっかり疲れてしまっていたのだと、振り返って思うようでした。
気分は余裕のよっちゃんでしたが、躰は数えの八十歳を忘れずにいて、そのギャップを身の裡の奥底から伝えてきているようです。
じゃあ、どちらを「わたし」は選ぶか。もちろん躰の言い分を聞き届けなくてはいけません。思いのままに振る舞って矩を越えずという年齢になっているとは言え、やはり身の内奥からの声を聞き届けなくては、自ずから調整して行けるほど、繊細にコトを感受し反応する鋭さは失われて、鈍くなってしまっているのです。
出立するときに、ちゃらんぽらん遍路だったり、ぶらり遍路であったりすると口上を述べたのは、じつは自戒でもあったのですね。けっしてナニカをやり遂げようと意図したり強く決意して身を損なうようなことをしてはいけませんよ。それくらいお前は、身と心の歩度を調整しなくてはならない歳なのですよと、言い聞かせようとしていたのだと、今更ながら思っている次第です。
とりあえず、帰還のご挨拶をして、明日以降ぼちぼちと、「お返路」に至るまでのお遍路を振り返ってみようと思っています。再び、よろしくお付き合い願います。
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