2019年2月28日木曜日
着実に年を感じる――赤鞍ヶ岳・菜畑山
昨日(2/27)、中央本線に沿うように、相模湖の南側から大月へと西に延びる山塊に並行するように走る道志山塊の赤鞍が岳(朝日山)と菜畑山に登ってきた。どこの本であったか、この赤鞍ヶ岳1299mを「道志山塊の東端に位置する盟主である」と記していた。しかし私が思うに、道志山塊には今倉山1470mや御正体山1681mがある。どうして赤鞍ヶ岳が「盟主」なのか、わからない。ただ、道志村役場は、この赤鞍ヶ岳を背にして位置している。また今倉山は都留市に属しているし、御正体山は道志村の西端、山頂を都留市と境を分けているから、「盟主」といわなかったのかもしれない。お膝元ならぬ、村の後背に位置する「ご神体」と考えると、まさに「盟主」である。
外部・他者を内蔵している
昨日(2/27)の朝、新聞の「文芸時評」を見て感ずるところがあったのだが、ちょうど山に出かけるところだったので、そのままにしておいた。歩いているうちにすっかり忘れ、今朝、ふと思い出してこれを記している。
2019年2月26日火曜日
私の平成時代(4)大正教養主義の崩壊へ
平成時代になって、社会の治安を保つ方法が大きく変わって来た。大雑把な分け方になるが、「昭和時代」は、社会学の用語によると、「規律訓練型」であった。教育を通じて、一人前の社会人としての振る舞い方を身につけていく、と考えられていた。学校教育がそれを担うと考えられていたのだが、私たち自身が子どもであった当時(昭和20年代~30年代)は、教養を身に着けることが人格的に己を高める道と考えられていたから、学校での知識教育が、すなわち、人間形成と同義語であった。いま振り返ると、これは、大正教養主義の名残であったのかもしれない。
2019年2月25日月曜日
無意識の「わたし」――「だてに年を取ってんじゃねえよ」
先日「メンドクサイという劣化」と書いた。今朝寝覚めに、「それは劣化か」と、どこからか声が聞こえた。「えっ? じゃあなんだ?」と「わたし」が反応したら、「それって無意識なんじゃないの」と半醒半睡の迷妄の中から返ってきたように思う。
2019年2月23日土曜日
メンドクサイという劣化
鷲田清一が「折々のことば」(2/23)で《そう「健常」が「障害」になっているのだ! 稲垣えみ子》を引いて、こう続けている。
《例えば老いて、「できない」ことだらけになってはじめて「できる」こともあるのに、人は「人生を否定される側」にまわらないかと怯え、「できない」ことをもぐら叩きのようになくそうとする。……》
つまり人は、「健常者」の側に身を置いて自らを測る。それが自らを追い詰めていくことになるというわけだ。「健常者の側に身を置く」というのは、若かりし頃の自らをスタンダードとしている。
2019年2月22日金曜日
春の気配の奥日光(2)ひねもすのたりの春の湖
翌日(2/20)、まだ暗い外の雪景色を見ながら朝風呂につかり、7時の朝食までに荷物を整理する。朝食のバイキングは、テーブルの半分くらいが空いている。冬のウィークデイとあって、お客が少ないのかもしれない。宿泊料金も、「誕生月割引」というのがあって、二人も該当者がいた。8時15分に宿を出発。Kさんと私は、スノーシューを車に積んで一足先に赤沼へ向かう。その途次、Kさんが指さす先の木の枝に、ノスリが止まっている。わりと大きな猛禽類。車を止めてシャッターを押す。
2019年2月21日木曜日
春の気配の奥日光(1)みぞれの山王峠道
19日―20日と奥日光へ行ってきた。恒例となっている山の会の2月スノーシュー合宿。湯元の休暇村に宿をとり、二つのコースを歩く。事前の天気予報は、60%の降水確率。麓の日光市は雨でも上は雪になると踏んで、今年は雪が少ないから歓迎だとタカをくくっていた。
2019年2月19日火曜日
私の平成時代(3)向き合う社会階層の違い
1989年に昭和が終わり、平成がはじまった。1月6日が、わが息子の20歳の誕生日であったのでよく覚えている。それと、もうひとつ。私は高校3年生の担任であった。卒業証書の準備は、12月からはじまる。卒業予定者の記名はしたが「昭和」がそのまま続くかどうかがわからないから、そこの部分を空白にして、のちに書き込めるようにおいた。それが「平成」になり、予測通りに書き込みができるようになったと、書道の教師が喜んでいたのが印象に残っている。
2019年2月18日月曜日
雲が晴れ、ゆめのなかへ~
一昨々日(2/14)は「ささらほうさら」の月例会。咽頭にがんが見つかり、放射線治療と抗がん剤の投与をしているnkさんは、まだ復帰していない。まだ現役の大学教師であるosmさんは、仕事が入って顔を出せない。今日の講師は、教育長まで務めたことのある元大学教師のkwrさん。お題は《『いじめ防止等のための基本的な方針』を読む》というもの。文科省の作成した「資料」を読み解いて、「いじめ」に対する教育関係者の思索を解読しようとする。
2019年2月16日土曜日
2019年2月14日木曜日
私の平成時代(2)変化は積み重なって、今に留まる
社会学者の大澤真幸は、戦後の「時代区分」として、25年毎に区切ってみせた。敗戦の1945年~1970年、その後の、~1995年、そして、~現在まで、と。エポックメイキングな、大きな出来事をかぶせて、その変化の特徴をとりだしている。私にとっては、まさにその時代の空気を吸ってきたこともあって、感触としては、異議はない。だがその区分は、大澤真幸の人生とは切り離された客観的な視線で見たものだ。なにより、この後のことについての時代の継続性について、引き続く「未来」という気分を漂わせている。だが私はすでに、後期高齢者。謝意快適な年齢区分というよりも、わが身の衰えを感じているから、わが身の区分としては「結末」が置かれている方が、似つかわしい。
2019年2月12日火曜日
私の平成時代(1)なぜ時代区分ができるか
間もなく「平成」が終わる。マスメディアは、その30年を振り返って「特集」を組んでいる。私はチラリと目を通すだけで、細かく読まない。
天皇制を国体と考えている人たちは「元号」を信奉して「画期」と考えているだろうが、国体としての天皇制は、敗戦とともに消滅した。百歩譲っても、昭和天皇の死とともに蒸発した。
だから「元号」は日本の文化的な遺産として意味を持つだけだ。天皇の「御代」を表す記号ではなくなっている。
2019年2月11日月曜日
2019年2月8日金曜日
すでに春の三浦半島
昨日(2/7)の日和見山歩(CL:myさん)は大楠山。三浦半島にある里山。逗子駅に集合してバスに乗る。私は横須賀線は鎌倉に行ったときだけ。その先の逗子にも葉山にも横須賀にも行ったことがない。山よりも、その土地がどんなところか、興味が湧く。家を出るのも7時半とずいぶんゆっくりだった。
2019年2月6日水曜日
愚民社会か選良の条件か(再掲)
4年半前に記したこの欄の記事が目に止まった。いまも思いが変わらないなあと、読み返して思った。再掲します。
何かの本を読んでいて、宮台真司×大塚英志『愚民社会』(太田出版、2011年)があるのを知った。図書館に予約しようと検索したら、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、2007年)もあったので、2冊とも予約して借りた。
2019年2月5日火曜日
なぜ武術を鍛えるのか
今野敏『武士マチムラ』(集英社、2017年)を読む。4年半ほど昔になるが、「2015/7/4」の、このブログで「いま日本のナイファンチはどうなっているか」と題して、今野敏『チャン ミーグヮー』(集英社、2014年)を取り上げた。ナイファンチとう沖縄の「手」と呼ばれる父子相伝の空手に似た武術だ。2015年にはそれを「体幹を整え、鍛える」と読み取った。体幹を鍛えもせずに、外面だけ取り繕おうとする「教育」に、笑止という思いを書きつけている。
2019年2月4日月曜日
文章を書くなら……
今朝(2/4)朝日新聞の「折々のことば」は強烈であった。
《おまえが絵を描くなら、文章を書くなら、このまちの住人になるなよ。距離をとれ。 陸前高田(岩手県)の写真館店主》
これにつけた鷲田清一エッセーの解説がつづく。
2019年2月3日日曜日
二つ目の山を越えた。よっこらしょっと。
きょう午前中は、定例理事会。理事の一人が亡くなったこともあって、黙禱からはじまったのですが、盛りだくさんの議題を手際よくこなし、かといって素通りすることなく、皆さんが口を挟むところは口を挟んでもらい、丁寧に協議すべきことはして充実した会議にった。全体で15分ほど終了時刻が伸びましたが、決めることは決めて、5月の着地点までが見通せるようになりました。
2019年2月2日土曜日
悼む
昨日、各階段の掲示板に「訃報」を掲出した。そのせいで、今日、逢う人ごとにNさんは気の毒だったと、悼む言葉を交わすことになった。若い女性理事の一人は、涙目になり言葉が出ない。私まで涙が出そうになり、ああ年をとったとわが身を振り返ることになった。でもそうして皆さんが若い彼のことを言の葉に乗せるのに応対していると、「訃報」を出してよかったと思う。
2019年2月1日金曜日
思いがけぬ知らせ
昨日のこと、夕食を済ませてテレビを見ていたとき、電話が入った。
「Nさんが事故で亡くなったと、いま、奥さまから電話がありました。どうしましょう」
と副理事長から、若い理事のNさんの訃報を知らされた。
えっ、どうして? と信じがたい。そう言えば関東は久々の雨、夜に東京は雪になると報道していた。車がスリップして事故にでも巻き込まれでもしたか。
だが今朝、起きる直前にふと、奥さまからの電話ならば、同じ女性として副理事長にあれこれと相談したかったのではないかと思い浮かび、早々にメールをした。副理事長は朝方奥さまを訪ね、姉上も昨夜から来ているし、Nさんのご両親もほんの2キロほど離れた地に暮らしていて、Nさんの友人たちからもいろいろ気遣いがあって、落ち着いた様子であったと知らせてきた。
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