2019年2月26日火曜日
私の平成時代(4)大正教養主義の崩壊へ
平成時代になって、社会の治安を保つ方法が大きく変わって来た。大雑把な分け方になるが、「昭和時代」は、社会学の用語によると、「規律訓練型」であった。教育を通じて、一人前の社会人としての振る舞い方を身につけていく、と考えられていた。学校教育がそれを担うと考えられていたのだが、私たち自身が子どもであった当時(昭和20年代~30年代)は、教養を身に着けることが人格的に己を高める道と考えられていたから、学校での知識教育が、すなわち、人間形成と同義語であった。いま振り返ると、これは、大正教養主義の名残であったのかもしれない。
名残というのは、こういうことだ。すでに日中戦争や太平洋戦争の敗戦を通じて、国家と社会が分裂し、人々は、国家指導者=為政者というものが自分たちを守るものとは思わなくなっていた。だが、大正時代デモクラシーといわれた教養主義の大衆化、女子教育の広まりなど、昭和前期に社会を席巻した社会的な気風を吸って育った人たちは、国家指導者が混沌のなかに霧散したとき、自分の身に染み込んだ社会の気風を信じて、生き抜いていくしかなかった。その人たちが、戦中生まれ、戦後育ちである私たちの親であった。こうして、戦後前期をひと時代としておいて戦後後期と区別するならば、隔世遺伝的に、戦後後期を自分の時代として精神形成してきた私たちに、大正教養主義は受け継がれたといえるのかもしれない。
話を元に戻そう。学校でしっかり学んで、真善美を身に着けることが人格の形成の第一歩という教養主義的な考えは、戦後アメリカから持ち込まれた新憲法下の、民主主義や人権思想や平和主義ともうまく馴染んで、私たちの学校教育を彩った。善し悪しはさておいて、私たちのアイデンティティは、この場でかたちづくられたのであった。だから、特別な「規律訓練型」の何かをすることが必要だとは考えられていなかった。人として自立/自律すること、一人前の社会人になることが、すなわち人格の淘汰と同義であった。人として尊重されるに値する人間になる。それは、教養を身に備えた人間形成を果たすことであった。
ところが私が教師として学校の現場に身を置いた十年後、1970(昭和45)年代の半ばにはすでに、教養主義的な気配はすっかり姿を消し、学校は知識の切り売りとでもいうような、役に立つ知識の伝達を期待されるばかりになり、成績(能力)によって生徒を社会階層に配分する装置になり下がっていた。それは、「高校全入」という、「中流社会日本」の一つの結果とともに、学力別による高校の格差を生み出し、いわゆる「底辺高」では、学習どころか、日々生活指導に追われる実態を生み出していた。
そうなってはじめて(教師として)気づくのだが、じつは文部省(当時)が規定する教師の「正規の仕事」には、「生活指導」は組み込まれていなかった。「生徒指導」という素行不良の生徒を指導することや、生徒の所属するホームルームに対する「特別活動」という名の、いわば、余分な手仕事という雰囲気で、端っこに置かれていた。高名な大学を出た数学の女性教師が、定時制高校に赴任して最初の授業を行い職員室に戻ってきて、「こんなことを教えるために教師になったのではないのに」と涙を流したのが、忘れられない。つまりこの時代の大半の教師は、「生活指導」をするために教師になったとは、思ってもみなかったのである。
さて話は、飛ぶ。1970年代の後半から1980年代にかけて、日本の社会は、高度経済成長を果たし、車の生産でアメリカを追い抜いて世界のトップに立ち、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンといわれる工業国に躍り出た。人びとの暮らしも、人類史上これほどの多くの国民が(おおむね一様に)これほど物質的に豊かな暮らしを営んだことはなかったと言われるほど、高度な消費生活社会を作り出した。その頂点で昭和時代後期が終わったのであった。
じつはその高度消費社会を実現するまでの、経済社会の主たる担い手が、私たちであった。そして、その最中で私たちは、子育ても行った。ちょうど大正デモクラシーの空気を吸って育った人たちが私たちの親であったように、産業社会の高度化と一億総中流といわれる大衆消費社会を作り出した空気を吸った私たちの子どもが、「非行・暴力・登校拒否」の学校を席巻したのであった。
じつは私の書棚に『非行・暴力・登校拒否―子どもたちの不安―』という新書本があった。1981年に三一書房から発行されたもの。1970年代の半ばから「激増した」という表題のような事象のケースを取り上げたものであるが、この書名は、いま振り返ると、昭和時代の名残のような響きを持つ。というのも、昭和が終わって平成になってみると、「不良」や「虞犯」は消えてなくなり、「非行」や「暴力」は「ふつうのこどもたち」の所作になっていた。
思えば私たちの戦中生まれが青少年の時代には、ヤクザはヤクザ、不良は不良であった。カタギとか真面目とは、自ら一線を画して振る舞っていた。だが本書に取り上げられている「非行」や「暴力」は、ごくふつうの子どもたちに現れている。この時期の「登校拒否」は後に「引きこもり」となって、ごくふつうにみられる事象になった。この変化は、なにを意味していたであろうか。
私たちが子どものころの社会は、戦争と敗戦の混沌を経て、貧困も、差別も、社会的抑圧も、どこにでも見ることが出来た。いうまでもなく人は皆、違っていた。だから逆に、落ちぶれるも這い上がるも、自らの身を立てるのは自身の決意次第と、世の人々は思い定めていたのであった。もちろん誰もが、本人の意思次第とはいかない。運不運も、当然のことのようについて廻った。だから、社会体制のせいにしたり、世の中の移り変わりに受け容れられない世間の非情に悪態をつくこともできた。
ところが、1970年代後半の一億総中流時代は、文字通り、あらゆることを個々人の能力や努力やのせいにしてしまった。人を評価する尺度が「能力」一本やりになり、それを反映する学校歴が社会的なステータスと考えられるようになり、出来の悪い生徒たちは自らを責める以外に、憤懣の持って行き場がなくなってしまったのであった。そう言えば、いま大臣をしている東大卒の女性が、いつであったか、自分が大学受験の全国模試で一番を3回とったと(やはり優秀で都知事まで務めた元夫が1回だったことを嗤って)自慢話をしている記事があった。あるいはこんな話も思い出す。村上春樹がニューヨークへ行ったとき、大蔵省か通産省から派遣された優秀な官僚が共通一次試験で何点取ったと自己紹介したので呆れたという話を書いていたことがある。調べてみたわけではないが、これらの方々もたぶん、1970年代の後半に高校時代を過ごしたと思うが、ことほど左様に(最先端の優秀な人々でさえ)「能力」以外に自らを明かす言葉を知らない時代がやってきていたのであった。
これは、昭和時代後期に精華をみせようとしてきた大正教養主義の見事な末路を示していたと、いま、私は思う。それがどう、規律訓練型の社会秩序の崩壊と関連するのか。それはまた、別の機会に考えてみましょう。(つづく)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿