2019年2月28日木曜日
外部・他者を内蔵している
昨日(2/27)の朝、新聞の「文芸時評」を見て感ずるところがあったのだが、ちょうど山に出かけるところだったので、そのままにしておいた。歩いているうちにすっかり忘れ、今朝、ふと思い出してこれを記している。
磯崎憲一郎は郡司ペギオ幸夫『天然知能』を取り上げ、人間の知覚可能なすべてを数量に置き換えて「人工知能化」するコンピュータの知性と対照して、「外部」を媒介項としてとりだす。
《それに対して、見ることも聞くことも、予想することすらできない、しかし間違いなく存在する「徹底した外部」を受け容れ、その「外部を生きる次元」にまで踏み出す知性こそが「天然知能」であると、著者は定義する。》
つまり人の心裡には「外部」がある、と。知覚可能なことでも数量に置き換えることが出来ない、コンピュータの計算処理の速さでは及ばない「内なる外部」を人間固有の知性としてとりだして、それに「天然知能」という名を冠したのだ。面白い。「超越的なもの」と哲学世界で謂われていることこそが、人間固有の知性だという。自らを対象化し、外から見つめる視線。それが人間の出発点であったと、旧約聖書はエデンの園の物語を通して、語り継いできた。そのときの「超越性」とは「神」であった。
だが、神が人と同じ地平の延長上にあったり、絶対神なき里の日本では、神は超越性というよりは出自の淵源を意味し、自らを対象とするよりは、自らの正統性を明かすことのようにみなされた。
この、西欧と日本の「超越性」の違いを「自然観の違い」としてとらえ、組み直そうとしていた哲学者が木田元『反哲学史』ではなかったかと、私は記憶している。ま、その権威的由来はさて措いておこう。
では、日本の自然観からは、どのように「超越性」が組みだされてきたのだろうか。死者の世界から生者の現在を見る視線である。黄泉平坂を駆け下るイザナギの振舞いを原点に、死の世界との対比をすることを通して、生きている私たちの現在の、いわば「遠近法的消失点」として「彼岸」を思い描き、そこから対照して己の現在を位置づけるというのが、絶対神なき里の人々の「超越性」であり「外部」であった。つまり、日本的自然観を持つ庶民にとっては、自らをも自然存在として位置づけ、いずれ自然に還ると同時に、ことごとに魂の宿る万物、八百万の神が取り囲み観ているという視点を内蔵する。それがのちに謂う「知性」となったといえる。
磯崎憲一郎は、古井諭吉の小説に言及して、
《文学的達成ともいうべきこの作者独自の語り口で、枯れていながら生々しくつややかに、止め処なく生成されるこの作品は、同じ作家の端くれとしてほとんど確信を込めて言うのだが、予め構想されて書かれたものではない。創作の渦中にある作家にとって、新たな文章とは、そこまでの文章を書いたことによってそのとき初めて見出される、苦労して切り拓くことによってそこで漸く出会う、正しく未知なる「外部」なのだ。》
と、感懐を込めて書き記している。そうしてそれをまとめるように、「むしろ私の内部に、外部・他者を内蔵している」と、『天然知能』の言葉を引用する。
磯崎の支援の届く奥行きと、受け止める私の感懐とは、その深さがはるかに違う。だが、日ごろ私の心裡が落ち着きどころを求めて表白していた一つの問題に、入口が開かれたような気配を感じた。
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