2019年2月23日土曜日

メンドクサイという劣化


 鷲田清一が「折々のことば」(2/23)で《そう「健常」が「障害」になっているのだ!  稲垣えみ子》を引いて、こう続けている。

《例えば老いて、「できない」ことだらけになってはじめて「できる」こともあるのに、人は「人生を否定される側」にまわらないかと怯え、「できない」ことをもぐら叩きのようになくそうとする。……》

 つまり人は、「健常者」の側に身を置いて自らを測る。それが自らを追い詰めていくことになるというわけだ。「健常者の側に身を置く」というのは、若かりし頃の自らをスタンダードとしている。

 先日山を歩いているときに、今でもアスリートを育てていて、かつてトップアスリートでもあったKさんは、身体の劣化を考えると暗くなると話す。これを聞いたある女性は、
「ええっ、どうして? 喜寿になってまだマラソンに興じているなんて、すごいじゃない?」
 と驚いている。還暦を迎えて仕事をリタイアし、山に旅にと忙しい彼女にすると、毎日が挑戦の連続。新しい体験を一つひとつ達成しただけで、充足感に充たされてアカルイ。なんでクラクなるの? というわけだ。
 だがKさんは、かつての自分を参照している。歳をとると着実に、記録は落ちるし、バランスは悪くなる。疲れも長引くから、参照先を換えない限り、クラクなるのは当然の結果だ。ところがこの女性の方は、かつて経験したことのないアウトドアに挑んでいる。毎回、新しい体験だから、参照先がかつての自分であっても、落ち込んだりはしない。あるいは一般的なタイムやコースであっても、年齢相応以上を達成していると思えば、十分充実感をもてるってわけ。

 年を取ってわが体に現れる事象は、「できる/できない」ではない。段々やることを後回しにしたり、手を抜いてしまうことだ。つまり、メンドクサイという身のもたらす気分が「できなくさせている」のだ。「健常」が「障害」になるというのと違って、それまではわりと容易に取りかかっていたことが、さりげなく先送りにされている。たとえば、「トリセツ」。新しい商品を買って取扱説明書を読むのが、メンドクサイ。あるいはその商品の動きがうまく運ばなかったときにトリセツを読んで、調整したことを、忘れてしまう。その都度読むのがメンドクサイ。

 これはひょっとすると、アナログ世代の私たちは、トリセツを読むよりも、だれか人から教えてもらった方が性に合うのかもしれない。スマホの電話がかかって来た時、受けることが出来なかった。ぽん、ぽん、と何度押しても、つながらない。どうやったらいいのかわからない。若い人に聞いたら、笑いながら、画面に指をあててスーッと横になぞる。そうして、受けることが分かった。このわかり方も、スマホの扱い方に馴染めないからではあるが、たぶん体で覚えるのを自然と感じて育ってきたからではないか。歳をとると、無意識が大きく身を動かす。アナログの育ちに戻っているのだ。

 メンドクサイという気分に支配されて、身体が思うように動いていないのは、ではガンバッテ身体を動かせばいいのかというと、そうでもない。無理をすることが身に合わない。そういう自分の身の移り変わりに思いを致す。それこそが年を取ることの、自然の極意ではなかろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿