2019年2月25日月曜日
無意識の「わたし」――「だてに年を取ってんじゃねえよ」
先日「メンドクサイという劣化」と書いた。今朝寝覚めに、「それは劣化か」と、どこからか声が聞こえた。「えっ? じゃあなんだ?」と「わたし」が反応したら、「それって無意識なんじゃないの」と半醒半睡の迷妄の中から返ってきたように思う。
「劣化」というのは、「そうでない状態」を標準ととらえているところから出てくる言葉。とすると、なぜ「そうでない状態」を標準としているのかから、応えなければならない。たいていそれは、「わたし」が若かりし頃とか、世間の元気な人とか、つまり「ふつうのありよう」を想定している。逆にいうと、自分が勝手に想定した標準から現在の「わたし」を観ているのだ。
だが「わたし」は、時代と年齢と身を置いた状況によって、移り変わる。変異するのを自然と考えたら、「ふつうのありよう」を規準にするのは、おかしい。つまりメンドクサイは劣化ではなく、身体の自然な反応である。「わたし」の無意識が反応している。良いか悪いかは、どこからみているかによって違ってくる。
何に対する反応か。身のまわり、置かれている状況、環境に対する反応。それは、今現在に適応しようとしている「わたし」に対する無意識の応答である。メンドクサイという応答は、今現在が「わたし」に要求していることを無意識が嫌がっているのかもしれない。若いころは状況に身を合わせるのに腐心してきた。「できないことはない」と叱咤激励して、向き合っていると、それなりに「できた」りしたものだから、ますます励んで適応してきた。だが、そうして70有余年経ってみると、どうしてそれほどまでに今現在に適応しようとしたのかと疑念が湧く。疑念というのは(なにがモンダイなのかわからないが)意識的な作業であるから、これは、反省といえるかもしれない。
だが、メンドクサイは、疑念の前の段階に生じる無意識の示す態度だ。今現在自体が移り変わっている。適応しているうちに「わたし」自身も変化する。この変化する「わたし」は意識の私であるから、無意識と「わたし」が乖離するともいえる。それに無意識が抗っている、と考えることはできないか。高齢になって無意識が抗うというのは、物心ついてのちに身に着けてきた感性や感覚や意識と違って、遺伝的な形質や環境による心の習慣や振る舞い方が、自ら刻苦勉励してかたちづくってきた「わたし」を批判している姿でもある。
ひとつモンダイが浮かぶ。高齢になって、どうして先祖返りのようにひととしての出発当初に受け継いだものが表面化して来るのか。長年の意識的な「わたし」が、抑え込んできた無意識によって逆襲を受けるとは、どういうことか。なぜなのか。
「無意識は高い知能を持っている」と橘玲が紹介している(『もっと言ってはいけない』新潮社、2019年)。それによると、「これ(無意識の反応)は緊張や警戒の合図で……進化論的にいうならば、私たちのこころは、面倒なことを無意識に任せることで最も効率的に働くように設計されている」と。適応的無意識と心理学ではいうらしいが、橘玲はこれを「暗黙知」と呼んで、「職人の知恵」になぞらえている。
知能かどうかはわからないが、無意識が「警戒の合図」をだすことは、山を歩いていてときどき経験する。岩場や雪の斜面、急傾斜の下り。「危険だよ」とビビる。股間がぞくぞくする。皮膚がゾワリとする。身が引き締まり、緊張して、慎重に通過する。
それとは逆の反応にみえるが、メンドクサイは、「やってはいけない」と混沌の「せかい」から無意識が声をあげている。「それ」をやってはいけないと、断片的な指摘をしているわけではない。あれもこれも含め包括して、「きけん」信号をだしている。そう考えると、ちゃらんぽらんであったり、いい加減だったり、怠け者であることも、また、無意識の反応と考えると、時代そのものの進行変化に「きけん」と呼びかけていたように読むことが出来る。ゴミ屋敷と呼ばれたりするものも、使い棄て文化に対する無意識の「警告」かもしれない。片付けが苦手というのも、この理屈を使うと、合理化できるかもしれない(笑)。
そういう無意識が健在であった時代が、終わりかけている。デジタル時代になって、ことにそう思う。何につけ、白黒はっきりつけ、明快で分かりやすいことが奨励され、優柔不断が嫌われる。メンドクサイも、不適応の証拠のように「劣化」と診断される。その時代の進展そのものが「きけん」であるとホモ・サピエンスの無意識が「警告」を発している。
そう考えると、「だてに年を取ってんじゃねえよ」とチコちゃんに反駁することもできるかもしれない。
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