2019年2月11日月曜日
ゆっくりと静かな崩壊
このところ、微細なわが身の変化が気にかかる。
1、お酒がおいしくなくなった。
むろん、だれと飲むかが一番の「肴」だから、独りで呑むのにそれほど身を入れたことはない。だが、少しずつでも日々嗜むのは、愉しみであった。ところが、それほど美味いと思わなくなった。
口当たりがいいワインは、値段にかかわらず(というのは、安くてもという意味だが)美味いと思って口にした。それが、グラスに一杯で、もういいやって思うようになった。
焼酎は、少々値段が張っても、雑味の少ないものを呑みつけていた。それも(お湯割りにして)、五酌くらいで十分と感じている。いやそれだけでなく、翌日目覚めたときに、胃の腑にちょっとばかりだが、どろんとした重みを感じるようになった。消化吸収が十全でないのかもしれない。
日本酒は、近ごろ(一般的にだが)たいへん旨くなって、ほんわりとした風味が口中に広がるのを愉しむように冷酒を口にしている。それでも、お猪口に二杯くらい、一合も呑まないで杯を卓においてしまう。
アル中になるのではないかと常々カミサンが気遣うほど酒好きだったのに、どうしたことだ。
2、指の感覚が鈍くなっている。
先日、何かの折に友人から千円を借りた。それを返そうと財布から千円を抜き出して封筒に入れ、ポストに投げ込んだ。そうしたらその友人から、「お貸ししたのは千円、利息は要りません」と書いて、封筒に千円を入れて返してきた。二千円入れていたのだ。ぱっと財布から抜き出したお札が、一枚か二枚かは、手の感触で分かるはずなのに、どうしたんだろう。これはちょっとした、驚きだった。
3、きっぱりと起きられない。
夜は早く床に就く。これまでは6時間とか、7時間半とか寝ると、トイレに行きたくなって目が覚めた。いや、トイレに行きたいから目が覚めるのか、目が覚めるからトイレに行きたくなるのか、わからないと思ったりしたものだ。たいていは目が醒めると起きだす。カミサンとは床に就くペースが違うから、そっと起きだして書斎のリクライニングに座って新聞を読んだり、本を読んだりしていた。
ところが最近、トイレに行ってから、もう一度床に入る。カミサンが起きだすのは、なんとなくわかっている。でも、起きられない。なんと、それから1時間半ほどはうつらうつらと、いつしか寝入ってしまう。もちろん山に行く予定があったりすると、目覚ましをかけるから、文句なく起きるのだが、そうでもないと、なんとなくだらしなくなったように感じる。
寝起きのキレが悪くなったとでも言おうか。できるだけわが身の自然には逆らわないようにふるまっているから、何時でも後から気づくことになるのだが、ここ二、三か月のあいだの変わりよう。なんだろうこれは。
4、記憶の持続時間が短くなった。
本を読んでいて、気になったことを文章にしようとして、え~っと、何だったっけ? と思っている自分に気づく。すぐに書き記しておかないと、忘れてしまうのだ。いや、気になったことなら、まだそれほどでもないか。
読みながら、ほほう、なるほど、これは面白いとか、ふむふむ、そうかあの本はこういう視点から読む読み方があるんだと、私も読んだことのある引用文献の読み取り方に感心する。それを文章にしようとすると、はて、なにに感心したのか、なにを面白いと思ったのか、忘れている。これは、気づいてショックであった。付箋を貼るとか、メモをとるとかしなければならない。
昨日などは、ついに、読んでいる文章の肝心と思うところを、パソコンにいちいち書きつけていった。そうすると時間がかかるが、仕方がない。書き付けた文書を見返すと、読みながら感じていた感懐が甦る。
こうでもしなければ、本全体が、読み終わったとき、ぼんやりとした遠景に佇んでいて、たしかに印象は刻まれているように感じるが、ずいぶんこれは、抽象化した受け止め方だなと思ってしまうほどになる。これじゃあ、コメントのしようもない。たぶん、読んだかどうかさえ、何日か経つと忘れてしまうのじゃないかと、わが身の変わりようを感じている。
むろんそれほど切実に思って読んでいるわけではないから、忘れることへの「恐れ」はない。忘れることが、自分への抑圧にはならない。でもこれは間違いなく、「ボーっと読んでんじゃねえよ」と著者に叱られる事態ではある。
日本人の3割は日本語が読めないと、AI研究者の大学の先生が声をあげている。私も、もう、その一人に加わっているように思う。
上記の微細な変化は、ゆっくりと静かに進行してきている(ように思う)。「私の崩壊」である。それは、別様にみれば、「私」が「わたし」を離れて、遠景に溶け込んでいく姿かもしれない。独りが全体に一体化していく。個別が普遍に合一化する。ああ、涅槃の境地って、こういうものをいったのかもしれないと、我田引水で読み解けば、言えるかもしれない。
後期高齢者の鳥羽口に入ったところだから、まだ早いかもしれないし、喜寿でなくなった長兄のことを思うと、そろそろだねと順調な運びに同意できるかもしれない。ことに「4」のようなことに出逢うと、藤田省三が古希を迎える前に「断筆宣言」をしたのも、無理からぬことと「わかる」ような気がする。彼の厳格な思考と筆運びは、ちゃらんぽらんの私の比ではないくらい、綿密であったのだから、彼の感じた自覚的ショックは烈しいものだったに違いない。
ちゃらんぽらんを悔いているわけではない。ときの訪れをしみじみと感じている。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿