2019年2月5日火曜日

なぜ武術を鍛えるのか


 今野敏『武士マチムラ』(集英社、2017年)を読む。4年半ほど昔になるが、「2015/7/4」の、このブログで「いま日本のナイファンチはどうなっているか」と題して、今野敏『チャン ミーグヮー』(集英社、2014年)を取り上げた。ナイファンチとう沖縄の「手」と呼ばれる父子相伝の空手に似た武術だ。2015年にはそれを「体幹を整え、鍛える」と読み取った。体幹を鍛えもせずに、外面だけ取り繕おうとする「教育」に、笑止という思いを書きつけている。


 『チャン ミーグワー』の前と後に行われる「体幹訓練」と武術の展開を組み込んで、武術を体得し、かつ、それを伝承していく一人の「武士(ブサー)」のクロニクルが、本書である。クロニクルと呼ぶにふさわしく、坦々と松茂良興作の修業の歩みが、記録をつけるように辿り記されている。ほかの余計なことを伐り落してはいるが、フランスの軍艦が沖縄に立ち寄った1843年頃からの、幕末から明治にかけての出来事が時系列をなして傍らを駆け抜けているから、いわば、薩摩支配との確執、沖縄処分、日清戦争などの情勢の変化が目まぐるしい。それに「手」はどういう意味を持つのかと、修行者の心裡には響かないではいられない。にもかかわらず坦々と、記録的に記す今野敏の筆致は、まさに彼自身が「手」の達人であるかのごとく、読む者の心に立ち現れる。

 面白い。意図せずして「教える―学ぶ」核心に迫っている。また、情報ひしめく高度消費社会になって、すっかり忘れ去られた人と人との関係の軸になるものが何であるか、浮かび上がる。たぶん作者は「手」とその修業のことしか眼中に置かないからこそ、行間に伝わる人のありようの根幹部分が、迫真性をもって迫ってくるように思える。

 この作者の「警察小説」のように種も仕掛けも満載で施してストーリーを仕立て上げるのではなく、本当に松茂良興作生きた航跡を書きとどめたら「武士マチムラ」と尊称をもって呼ばれる人物が描き出されるのは、ちょっとした驚きであった。「琉球新報」に連載されたのが初出のようだ。その末尾にこう記されている。

 「本書は史実をもとにしたフィクションです。」

 その言やよし。

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