2019年2月14日木曜日
私の平成時代(2)変化は積み重なって、今に留まる
社会学者の大澤真幸は、戦後の「時代区分」として、25年毎に区切ってみせた。敗戦の1945年~1970年、その後の、~1995年、そして、~現在まで、と。エポックメイキングな、大きな出来事をかぶせて、その変化の特徴をとりだしている。私にとっては、まさにその時代の空気を吸ってきたこともあって、感触としては、異議はない。だがその区分は、大澤真幸の人生とは切り離された客観的な視線で見たものだ。なにより、この後のことについての時代の継続性について、引き続く「未来」という気分を漂わせている。だが私はすでに、後期高齢者。謝意快適な年齢区分というよりも、わが身の衰えを感じているから、わが身の区分としては「結末」が置かれている方が、似つかわしい。
その運びからすると、4コマ漫画の起承転結のような四展開がいいかもしれない。そういえば、ヒンドゥの「マヌ法典」の四住期という区切り方が思い浮かぶ。「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」は、ライフサイクルとしての変転を特徴づけて命名している。それからすると私の場合、おおよそ25年毎に区切って、~25歳(1967年)、~50歳(1992年)、~75歳(1997年)、~これ以後と、4区分できる。これ以後を25年とみると、人生百年時代という大きな括りに相当する。だが、まあ、それほど楽観的ではないし、わが身の移ろいに関して楽天的ではない。最後の遊行期があとちょっぴりであっても別に悔しくはないほど、それなりに生きてきたという思いがある。
そう考えてみると、50歳~75歳の「林棲期」の25年が若干前後に延長すると、「平成時代」に相当する。「マヌの法典」(岩波文庫)は「林棲期」を次のように記している。
「家住者、顔に皺より、毛髪灰色となり、その子に子息を見るに至らば、その時、彼は森林に赴くべし」
「耕作による全ての食物、及び彼のすべての財産を捨て、その妻を子に託し、或いはこれを伴いて森林に赴くべし」
ヒンドゥの世界とは少しずれるから、定年退職したり孫の顔を見るのはもう少し後になるが、私が50歳のとき、ちょうど下の子が成人した年であったことを思うと、文字通り「子育て」は終了した。子を育てるという人類史的役割を終えて、わが身のかかわりにおいて思うところを遂げるように振る舞う時期に重なっている。仕事においても、そこそこ安定した切り回しをしながら、全国で四番目という新しい仕組みを導入した体制を構築する運びに取りかかることになった。あるいは、山歩きにしても海外へ足を延ばすようになり、東南アジアやヒマラヤ、のちにはスイスやイタリア・アルプス、ニューギニア、モロッコ、中国、チベットやキリマンジャロに向かったのも、50歳代前半から70歳までにかけてであった。ではそれが、「平成」の変化とどうかかわっているのか。そこに、「私にとっての平成時代」がある。
だがそこを述べるには、それ以前の、私の「学生期」「家住期」と「時代」の変遷について触れておかねばならない。
「学生期」とは、学びの時代である。誕生して親兄弟や近隣の人々に育まれ、混沌の海から紡ぎだされるようにして、いつしか「じぶん」をもち来る。その「じぶん」が混沌の海で育まれた「せかい」の受け渡したものであることに気づくのは、物心ついて「じぶん」の感じていること、考えていることが本当に自分で感じたことなのか、考えたことなのかと自問しはじめててからだ。
つまり、「じぶん」が受け入れることのできない外界が屹立し、翻って、では「じぶん」の感じていること、考えていることの根拠は何かと問う内なる声に出逢ったときであった。「じぶん」を対象化し、その感性や感覚、その考えかたの根拠を言葉にしはじめたとき、「わたし」が姿を見せはじた。
「マヌの法典」は「学生期」をベーダを学ぶ時期としている。「入門の儀式を行いたる後、師は先づ第一に学生に身体の潔斎、作法、聖火の礼拝、及び朝夕の薄明時の勤行の諸規則を教うべし」と。これはしかし、「学ぶ」本体、つまり「じぶん」に触れていない。
すでに「じぶん」は(十分かどうかは疑問だが)学んでつくられてきている。混沌の「せかい」が受け継ぐようにして(いつしか)かたちづくったものである。だから「マヌ法典」のいう「学ぶ」は、意識的に学習することを指しているが、だれが、なぜ学ぶかについて言い及んでいない。まるで白紙に書き込むように「学び」があるという設定である。
私がいう自己対象化は、その(ベーダでも学校ででもいいのだが「学び」の)過程で発生する「じぶん」とは何かという疑問に応え始めることを指している。それは「外からの学ぶべきこと」に触発されるようにして、すでに形を成している「じぶん」の輪郭を描き出すことを指している。それは同時に、「外からの学ぶべきこと」を分節化することにもつながり、「せかい」を描き出すことになる。
畢竟、この「せかい」が「林棲期」や「遊行期」の「捨てる」ことに大きくつながるのである。
私の「学生期」を誕生から1967年とみると、その半ば、1952年ころまでは、私は混沌の世界にあった。「ボーっと生きてんじゃねえよ」と近頃は叱る人がいるが、混沌の海を泳いで、ボーっと生きてるのが子どもである。だがそのボーっと生きてる間に、ことばを覚え、振る舞い方を身に着け、世の中の仕組みや慣習や規範をいつしか身に着ける。身に着けながら、どこかに「文法があること」を感知し、根底的なこととして「じぶんなりに」一般化するのが、子どもが育つということであった。
親兄弟との関係で、近隣の人々とのかんけいで、学校における子ども同士のかかわりのあいだに、どう振る舞うことがなぜ必要なのかを、ことばにならないが、雰囲気として、イメージとして、かたちにならない混沌の味わいとして、身に着けた心の習慣が、のちのち大きく、「じぶん」を規定する。それに気づいたとき、「わたし」への脱皮がはじまるが、脱皮しないままにすり抜ける道筋もないわけではない。すり抜けてしまったり緩やかな方へ舵を切ってしまうと、大きくなってから、苦しむことになったり、世の中に背を向けられるようになる。
そういうふうに「学生期」を考えると、私の場合、自己対象化の視線は、じつは、若いうちに終わったわけではなく、かたちを変えながら、今でも続いている。脱皮に脱皮を重ねてついには、骨川筋衛門になる分けにはいかないから、相変わらず「じぶん」はどこから来てどこへ行くのかと、埒もないことを考えている。あるいは「わたし」は、所詮、「せかい」の借り物。人類史的な「営みの所産」が「わたし」という身に乗り移って、いまここを通過しつつある。そんな感じで、「じぶん」をみている。四住期は、通り過ぎて行ってしまうのではなく、積み重なって現在にとどまっている。そのように「変化」がわが身に訪れていると考えるようになった。(つづく)
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