2019年2月12日火曜日
私の平成時代(1)なぜ時代区分ができるか
間もなく「平成」が終わる。マスメディアは、その30年を振り返って「特集」を組んでいる。私はチラリと目を通すだけで、細かく読まない。
天皇制を国体と考えている人たちは「元号」を信奉して「画期」と考えているだろうが、国体としての天皇制は、敗戦とともに消滅した。百歩譲っても、昭和天皇の死とともに蒸発した。
だから「元号」は日本の文化的な遺産として意味を持つだけだ。天皇の「御代」を表す記号ではなくなっている。
「戦後日本の国体はアメリカであった」と、最近若手の政治学者が指摘して評判になった。戦後の政治過程を社会学的に読み取って、「国体」って何? と問えば、この答えになる。
「いや日本の国体は(変わることなく)天皇制だよ」と答える人は、そう信じていると自己表白しているにすぎない。このやりとりを見ていると、「国体」って所詮、統治者がもっている「国民統合の」自己イメージだ。
象徴天皇でもいい、「国民統合の象徴」こそ日本人の誇るべき唯一の集約点だと考えているのであろう。統治者としては、そう言っていればいいかもしれない。でもそれを私たち国民に押し付けるのだったら、「日本の国体はアメリカ」というような事象をまず排斥して、たとえば、日米行政協定をきっちり五分にするとかして、からにしてもらいたいね。
元号についていうと、日本の高度経済成長が進展するにともなって、使わなくなってきた。その境目を、私の記憶から引き出して記せば、1960年代にある。
いまでもそうだが、高校の同窓生の会は、「36会」と名づけている。卒業年次の「昭和36年」に由来する。
だが、大学を出てからは西暦で通してきた。欧米の文書を参照することもあったからだが、簡単にいうと、日本が国際化してきたからだ。
高度経済成長時代に日本が経済合理主義を争って世界の舞台に登場するようになれば、まず利便性が優先される。今のご時世に西暦がキリスト教世界の元号だと言いつのるのは、アラビア数字が日本起源ではないと言い張って拒否するようなものだ。
日本の文化もまた世界の文化との交流に洗われ大きく変容してきた。利便性を優先するというのも、その一つといえば言えなくはない。でも日本文化は、外来の文化文明を遠慮なく咀嚼して取り入れてきたではないか。その「流動性」「柔軟性」を日本の国体と言ってもいいほどだと、私は思う。
ならば元号で時代区分する「平成時代」に、なぜいまさら、こだわるのか。ここでやっと、「時代区分」の話になる。
「平成時代」という言葉をいまのメディアは、単なる周年行事的にとらえて使い始めた。平成が30年で終わるから平成時代が終わる、と。
だが、ではどういう「時代」だったかと振り返ると、後付けながら画然とした特徴が浮かび上がる。それは、平成以前と画然たる違いをもち、平成以後とも異なる時代と記憶されるような予感を孕んでいるとでもいうように。
特徴も、予感も、読み取る者が読み取っているにすぎない。だが私の読み取りが個別性から発しながら一般性を失わないのは、戦中生まれ戦後育ちという世代的な通有性をもっているからにほかならない。
子どもの物心つくのを十歳前後とみると、そのころ日本は独立した。「アメリカ国体」時代の幕開けである。たっぷりと時代の空気を吸って私たちは育った。
高校を卒業した昭和36年は「所得倍増政策」の池田内閣がスタートした直後であり、私たちが就職したのちの日本社会は、高度経済成長から高度消費社会へ向けて一目散に走りに走った時代であった。思い返すと私たちが、その先端を担って走っていた。
中流社会が招来され、アメリカをして「どちらが敗戦国であったか」と言わしめた黄金の1980年代は、「アメリカ国体」の精華であり、それが幕を閉じたのも、奇しくも「昭和」の終わりとともにであった。
「時代区分」とは「変化」をとりだすこと。私たちが「昭和時代」という時代区分に馴染めないのは、「戦前―戦後」という「変化」が強烈であったからだ。
戦前の、国際社会におけるそれなりの隆盛と傲慢と破綻、戦後の混沌と高度成長と高度消費社会とバブルという際立つ変化は、その同時代を生きた者にとっては、ふた世を生きたような面持ちさえある。それをともども一緒にして一つの「時代」としてしまうのには違和感を感じないではいられない。
あえて私が「昭和」を区分するとしたら「昭和前期」と「昭和後期」と名づける。画期は1960年安保。あれで日本の「アメリカ国体」が定まった。
ところが、「平成時代」という区分を私が受け入れるのは、バブルが崩壊してからここまで、それなりの高度消費社会をつづけている昭和との対照にある。予感だが、日本は、ポルトガルのようになりつつある。一度高度に発展し隆盛を誇った社会が、時間をかけて、そのときの富の蓄えをつかいながらゆっくりと成熟していっていると思える。これは、そうなるといいなという予感である。(つづく)
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