2019年5月31日金曜日

「わたし」というミステリー(3)「わたし」になる道程


 ちょっと寄り道してしまいました。篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)の物語に戻しましょう。虐待や自傷行為、アルコールや薬物中毒で普通の暮らしを送れない女性たちの避難所を営む主宰者が、死後、入れ替わっていたとわかって、その謎が解き明かされていく本書の話の運びは、「ひと」が何に拠って「わたし」と特定され、なにをもって他者からの「信頼」を得るのかを解き明かす過程でもあります。


 展開の過程で、演劇の座長や女優が取材を受けて応じる場面があります。座長はこんな指摘をしています。

 《存在感というのは、しかしやっかいなものであって、女優は芸術家じゃ困るわけなんだよね。そのあたりが難しい。……明美は芝居のロジックの中に、自己を埋没させるという点では稀有な才能を持っていたね。……自己の生活上の感情から解き放たれ、芝居の世界を構成する要素に従い、そこに新たな自己を形成することが肝心だ……》

 「ひと」が「わたし」であることを実感するのは、周りの人たちからの特定的承認です。「このひと」という承認が、自分の側からみると「わたし」になります。でも「この人」という特定性は、「わたし」というオリジナリティを表出することのように思われているのですが、ここに登場する座長は、「芝居のロジックの中に、自己を埋没させる……稀有な才能」を称賛しています。つまり、「わたし」という自己は、置かれた場のロジックに溶け込むことともいえます。

 同じ劇団で舞台を張っていた看板女優はこういいます。

 《自意識が出たらだめなんです。私は私なんだけど芝居のロジックについては関係がない。だけどその中で自己はあるんです。生活している私から離れていくのだけれど、芝居の構造のなかでの私が、どんどんリアルになっていく。わかっているけれど私には難しい。私はここにいる、表現したいって気持ちが表に出たとき、座長から厳しい言葉が飛んできますね。》

 それは、「わたし」がじつは、置かれた場の気配が憑依してつくっているものだと、指摘する言葉です。24時間いっしょに過ごす避難所という場で、そこにいる人たちから「主宰者」と信頼されることとは、どういうことか。外面や立ち居振る舞いだけでなく、その「ひと」の感性や感覚、ものの考え方やさらに根柢の直感的反応、それらすべてが「そのもの」として信頼を得なければなりません。篠田節子は全盲の避難所共同運営者を配置して、私たちの認知・認識がいかに視覚に負うているかを浮き彫りにするとともに、「役になりきる女優」の鍛錬の奥深くに入り込もうとしています。いかにして「自己」を消し、「その人」になりきるか。しかも何年も続けて……。その過程で「キーンが俺か、俺がキーンか」という悩みや迷いが浮かび上がる。それをどう超えていくか。そこにまで目をやって、篠田節子は物語りを設えています。

 木乃伊取りが木乃伊になると言ってしまえば、それきりですが、その木乃伊が周りの方々から全幅の信頼を得て、周りの人たちの存在の落ち着きどころとなり、宗教的な教義や集約点なしに心の収まりを見出すところとなるというのは、並大抵のことではありません。いわば、木乃伊は神であり、常時神になるために「役」を演じるには、どうすることが必要か、そう問うているようにみえます。読みすすめていると、私は何を根拠に(自分がこれと考える)「せかい」に対する信頼を築いているのかが問われていると、思いました。と同時に、翻っていま、「わたし」という卑俗な木乃伊は、どこから来て、どこへ向かっているのかと考えている自分を、見出しています。

 「わたし」は人類史的変遷進化の堆積物です。むろん「せかい」は、ローカルなもの。私の描き出す「せかい」は私の体験し意識表面に浮上したことしかとらえていないと思いますが、その私にすら、累々と堆積し、無意識とか身体性として受け継がれてきている無数のことごとが、内なるものとして働いています。ヘンな言い方に聞こえるかもしれませんが、普遍なんてものは、「わたし」には存在しません。個別性を捨象したら、「せかい」そのものが消えてしまいます。にもかかわらず、私が語ることのなかに人類史に通有する普遍性は存在し、それに出逢うには個別性を描きとる以外に、為す術をもたないのです。

 篠田節子はそれを、光は天から降ってくるものではなく、向き合っている悪逆、卑賎、低劣、俗悪の裡から輝きを見せてくるものと描いています。その描き出し方に私は、論理的ではなく、まさにその通りだねと共感の響きを感じています。なぜかは、わかりません。たぶん私の、これまでの人生が、その底に溜まっているからなのでしょう。篠田のいう光は、私にとっては「わたし」の内部から現れる「他者」、「超越的存在」のように感じています。

 「鏡の背面」というタイトルの意味するのは、なんでしょうか。私は当初、見えていることの裏側に張り付いて見えるように映し出しているものと、考えていました。つまり、見ている自分、鏡に映して見えている自分、だがそれが見えているのは、鏡の背面に反射率の高い加工を施し、光が反射してくるからです。篠田節子は、その反射率の高い加工が、人類史的な諸悪を自らのものとして乗り越えてきた、無数の、苦渋の生があったからとみているように思いました。それは決して、この後も絶えることなく、人類を襲う事柄となるに違いありません。でも、目を背けず、木乃伊取りが木乃伊になって(間違えて)神になるような生きようを辿りたいものだと、思っているように受け取りました。私流に翻訳すると、無数の苦渋の生から「わたし」の裡に「他者」が生まれ、それと向き合うことで「超越的存在」をわが身の裡に培うことが出来るのだと、いえます。

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