2017年1月29日日曜日
第24回Seminar ご報告(1)江戸の「列島改造」町づくり
昨日は第24回Seminar。これで満4年が終わる。75歳までは続けようやと話していたが、75歳になる年か、75歳がおわる年かは詰めてなかった。その入口に、いよいよ差し掛かる。会場の大学にまだ務めているSさんが「あと一年くらいは頑張るから、終わるところまでやろう」という。そういうわけであと一年、つづけることになった。
今回は講師:M.ハマダくんの『江戸・東京の街づくり』。家康以前の江戸のイメージが、あまり私たちの中にない、と講師は話しはじめる。将門の首塚と大田道灌が城を築いたという程度か。築城とはいえ、後の江戸城とは比較にならないほどの、土塁のようであったらしい。だが口火をそこから切ったものだから、家康が、秀吉によって国替えを命じられて、江戸に居城を定めることになった1590年当時の地勢はどうであったろうかと、関心が傾く。
「江戸は地の果ての空白地であった」と大雑把なイメージを描く。
《旧利根川は東京湾に直接注いでいた。千葉県側の下総台地と武蔵野台地のあいだの幅は12km~16kmの谷のような低地。荒川デルタと利根川デルタといえる湿地帯。……江戸城は武蔵野台地突端(どんづまり)につくられていた》
大川から東は下総だったという、その大川は今の隅田川。元は、上野台地の東側を流れる入間川が、川越方面から流れ込み、舟運として使われて川越まで一日で行き来していたそうだ。「徳川時代以前の江戸の河川流域図」によると、さらにその東に元荒川が利根川と合流して(今の江戸川として)流れ、それと並行するように、さらに東に渡良瀬川が(今の松戸の少し西を通って)江戸湾に流れ込む「太日(ふとゐ)川」となっている。現在の利根川や渡良瀬川の流路は、したがって江戸期以降に改修されて、大きく流れを変えていることがわかる。「240万石の国替え」とは言え、こんな低湿地帯。秀吉は家康を畏れていたのであろうが、それにしても家康は小田原などに居城を定めず、どうして江戸に腰を据えたのかと思われる。
《武蔵野台地の末端は上野飛鳥山、本郷巣鴨、小石川、牛込、麹町四谷、芝、白銀の「七つの大地」に別れていた。日比谷は入江。》
と講師は述べ、「江戸には七つの丘がある」点でローマとの地勢的な(ということは防御的にも、都市交通的にも)有効な「判断」が介在したであろうと推察する。そう、塩野七生の本にもそう書いてあったと、誰かが口を挟む。むろん江戸城の守りというよりも、街全体の暮らしと守りを河川と台地の入り組み具合を見通して適地とみたと思われる。つまり、将軍となってからの「天下普請」によって、河川の流れを変え、埋め立てをし、上水道を整備し、五街道を整え、江戸の地大規模な配置換えが行われ、神社・仏閣や吉原の移転、広小路・形を大きく変え、まるで17世紀の田中角栄とでもいうように国土改造計画を遂行した、と。
地形だけではない。明暦の大火(1657年)では江戸城の天守閣が焼け、
《大名160家、旗本・御家人608戸、神社・仏閣約350、町屋48000戸、市街地の六割が焼け野が原となった》
とある。そのあとの再建に際し、防火対策から大規模な屋敷の配置換えや神社・ぶっかっく、吉原の移転も進められ、広小路や火除け地の配置も行われたという。大川の向こうが大規模に開発され、埋め立てられた。そういわれてみて思うのだが、高度経済成長期に「夢の島」と言われていた土地が今やすっかり東京湾の沖合へと進出しているではないか。江戸初期から始まった「埋め立て」という近代の所業が、今もなお、ほぼ同じセンスで引き継がれてすすめられている。これが東京という人工都市の象徴的な姿だということが出来そうだ。これが「素敵よ」という人もいれば、「いやだなあ」と感じる私のような者もいる。
首都圏にやってきて私も56年が過ぎるが、こういわれてみると、まるで東京の地勢的なことを見ていなかったなあと臍を噛む思いがする。すっかり改良された江戸の上に、さらに人工的に改造が加えられ、その上に乗っかって何食わぬ顔をしてきた。そう我が身を振り返る。面白い。
講師のM.ハマダくんは江戸物の小説をたくさん読んでいることもあって、それらの話しを織り込みながら、今と江戸とを行き来しながらテンポよく「街づくり」がすすむ。ほとんど江戸時代から日本の「近代」が始まっているようにイメージをふくらましながら、Seminarが始まったのでした。(つづく)
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