2017年1月20日金曜日

肚を括る


 読んでいるときに「伝法な女」という言葉が浮かんだ。はたして主人公を言い当てているだろうか。そう思って「日本国語大辞典」を引いてみた。


 「伝法」には四つの意味があった。
① 仏語。師が弟子に仏法を授け伝えること。
② (江戸時代、江戸浅草の伝法院の寺男たちが、寺の威光をかさに来て、境内の飲食店・興業物などを無線で飲食・見物してまわったところから)むりやりはいりこみ無料見物・無銭飲食をすること。
③ 悪ずれて粗暴な言動をすること。あばずれ、ならずもの。……
④ いなせなこと。いさみ肌であること。…現在では多く女性について用いる。

 「伝法」の意味にこんなに幅があるとは思わなかった。かろうじて④がちかいか。でも、ちょっと違う。「伝法」という言葉が頭に浮かんだのは、主人公の女の語り口、江戸言葉の感触にあった。ざっくばらん、あけすけ、裏も表もない。でもいつも、言ってしまったことが、思いのたけを言いきっているとは思えない。やっていることが、的を射ているかどうかもわからない。手がける絵が目指すものに近づいているかどうかも自信がない。そのとき師匠が言う。

 「限りある時でいかに描くか、その肚が括れねぇんなら素人に戻れ。その方がよっぽど気楽だ」

 「だが、たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥をしのぶからだ。己が満足できねぇものでも、歯ぁ喰いしばって世間の目に晒す。やっちまったもんをつべこべ悔いる暇があったら、次の仕事にとっとと掛かりやがれ」

 朝井まかて『眩(くらら)』(新潮社、2016年)を読んだ。

 葛飾北斎の娘・栄を主人公に、江戸の町と江戸の絵師の生き方を描く。師匠とは、父・北斎。まさに、女だてらに絵師を志す。師匠の形ばかりか構図も真似て真似て真似しつくしてさらに、すべて自分でつくりだす。ことに色をつくりだすのには動植物を選んで煮たり干したり摩り下ろしたりして調合し、裏から塗ったり表から重ねて、濃淡陰影を出す。骨格や筋肉の動き、対象がかもしだす柔らかな表情、光の濃淡と遠近法による配置と省略、西欧画にない象徴的誇大化など、浮世絵のすべてを彷彿とさせる世界に、主人公はのめり込む。

 だが世間は、そういう時代ではない。暮らしの実務のひとつひとつ、娘が嫁がないではいられないご時世、母親との関係、係累やご近所との向き合い方、嫁いだ後の亭主との関係などなど、それらの煩わしい「かんけい」を、北斎の娘という立場が整除して、お栄の身過ぎ世過ぎを絵師の道へと簡略化する。お栄自身が、絵にかかわること以外に頓着しないことがまた、それを加速する。この作品の絵を描くことというのは、結局、人生を生きることとすっかり同じであることが、読むうちに浮かび上がる。

 そのとき、江戸という時代の庶民の暮らしが育む、地域的な人と人とのかかわりが、大きく影響していることが土台をなしている。そのうえで、「かんけい」をさっぱりとすること、貧しくとも生きていけると肚を括ること。それが神髄と読める。

 肚を括っていれば、いま「生きること」について私たちは「玄人」である。「やっちまったもんをつべこべ悔いる暇があったら、次の仕事にとっとと掛かりやがれ」とばかりに、威勢良く、いなせに、終わりの日に向かっていってやろうじゃねぇか。そんな気になったね。

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