2017年1月9日月曜日

物事を切って捨てる爽快さの厄介さ


 ささらほうさらの合宿に行ってきた。その帰り、もつかなと思った天気が崩れ、駅から家までの間に雨が落ちてきた。外へ出かけていたカミサンは、駅からバスに乗ったという。年末から久々の雨。今朝もまだ落ちている。明後日山に行くというのに、それをさておいて雨を喜んでいる自分が可笑しい。明後日の山の天気をチェックする。雨は今日だけ。明日も明後日も、関東地方は晴れがつづく。最低気温も3,4℃と、足元が凍りつく気遣いがないかもしれない。


 合宿の方はみな年を取り、お酒もそれほど飲めなくなっている。そのうえ、身体の運びが自在さに欠けるように感じている。コトの運びに余裕が必要なため早め早めに動き始めるから、「時程表」より早く集合するようになり、「では、早いのですがはじめましょうか」となって、さかさかとコトがすすむ。

 論題になったことはいろいろとあったが、それよりも気になったことがあった。参加者のうちの、まだ現役である一人、kさんの思考の傾きである。

 5本ほどの「テキスト」を取り上げたのだが、その執筆者についてスパスパッと断定的な評価を下す。外山滋比古の「新聞大学」の記述について「今はチャットの時代、彼の(対象としている日本語標準語など)の話は古い」と切(って捨て)る。ドイツの作家、フェルディナント・シーラッハの2015年のM100サンスーシ・メディア賞の授与式におけるスピーチは「プラウダと一緒、自分たちのやって来たことを相対化していない」、鷲田清一の若い人向けの文章については「サヨクが何をやって来たか」と反撥を顕わにする。その自信に満ちた断定の端々に、ここ20年以上も付き合ってきたささらほうさらの前身にあたるグルーピングで共有してきた「方言」が混じっているから耳を傾けるし、一概に否定はしないのだが、どうにも噛みあわない。「世界」を見るときのスタンドポイントが違うように思える。

 どう違うのか。彼の小気味いいほどの断定は、現場の「情況」に身を置いて即座に判断しなければならないことが多く、「迷っている」こと自体が立場を危うくするとでもいうような、切迫感に曝されているからではないか。ちょうど大阪府知事・市長時代の橋本徹のように、物事を断定することによって事態を分かりやすく切り裂いて見せ、批判する相手を一色に決めつけて叩きのめす。そうすることによって、多様な利害と期待とを(支持勢力として)一つにまとめていく政治手法。また、なぜいまそういう論議するのかということの子細に踏み込んで詮索することを差し止め、「学者先生は、現実を知らないでああでもないこうでもないと喋ってる。対案を出せ」と論議の舞台の主導権を握っていたことが思い出される。kさんが管理職として身を置いている6,70人で構成される現場職員と彼らが相手にしている数百人の生徒たちの、振る舞いや言説や価値観の交錯を取り仕切っていくときに、「迷い」や逡巡が醸し出す不安定が即ち現場秩序の混沌につながる。そうさせてはならないという想いが彼の切迫感につながっているのではないか。

 橋下徹もそうだ。彼の言葉の端々に表れる社会通念や彼が指摘する行政の「問題」を聴いている方もモンダイと思わないわけではないから、耳を傾ける。聴衆である間はもちろん口を挟む理由がないから当事者にはならないが、それでも「論議の舞台」の成り行きには関心が集まる。彼がどう考えて、何を根拠にそう判断しているのか、それに対して相手の方は何故、どう、何を根拠に反論しているのか、という論脈とそのやりとりに関心が向かえば、聴衆もまた、それを機会に知的力を向上させることができるかもしれないが、そんなまだるっこしいことは橋下は採らないし、聴衆も望まない。速戦即決。プロレスを見ているようなものだ。これがトランプを生んだばかりではない。考えてみればオバマもそうであったし、クリントンもそうであった。つまり時代が、速戦即決に向かってきたし、ますますそれが加速されつつある。いまや「論拠」自体がどうでもよくなり、トランプが「ロシアの介入が選挙結果に影響したことはまったくない」といえば、それで済むのだ。聴衆はあきれはてるか、そんなものだと愛想をつかすか、あるいはそれでもトランプがんばれと声援を送るか。

 橋下徹自身が単純明快を好むと言えるかどうかはわからないが、選挙結果が彼の主張の正当性の根拠だと考えれば、主張の「データ的な根拠」よりも「正当性」を求める。そのことは、大阪都構想がそうであったように、反対勢力を様々な手法で説得し妥協点を探るという手間を足らず、住民投票の結果に託して、簡単に潰えてしまった。大衆の意思がそれほどに変わりやすいと言えばその通りであるが、ということは、選挙によって力を託された首長は論理的な正当性を十分に駆使するだけでなく、諸勢力の調整をして、まさに政治的に方向を定めることを一身に背負うことになるのである。

 kさんの現場は、しかし、それほど切迫しているようには思えない。kさん自身はずいぶん余裕をもって取り仕切っているように見える。それと、彼の思考の(人や概念への)断定化の傾きが(私の直感ではたぶん)密接に関連しているであろうが、その思考の癖をささらほうさらに持ちこんでは「お門違い」になる。年寄りの集まりだからというのではなく、そういう日常の己の思考法を相対化するのが、ささらほうさらの(別に合意したわけでも構えたわけでもないが)流儀だからである。

 あるいはこうも言えようか。上記の流儀は私の好みである。そして今回のテキストを選定したのは私である。kさんは普段、ささらほうさらには顔を出していない。年に2回の合宿のときだけ参加を希望して顔を見せる。私(の流儀)が気にくわないからかもしれない。あるいは顔をあわせなかったこの半年の間に、私たち年寄りのとりあげている「論題」がぼけ始めていて気にくわない。そういう思いが、噴出したのかもしれない。もしそうなら、彼はもう顔出しをする必要がなくなったと見極めればいいのであって、憤懣をぶつける必要はない。

 もちろん私の論題設定が緊張感を欠いているのだとしたら、そのワケは明らかにしなければならない。現場を離れて「ささらほうさら」に暮らしている年寄りの思索の焦点が(我知らず)ぼけてくるのは、外からの指摘によらなければわからないことが多いであろう。だがもしそうだとしたら、それこそ「ささらほうさら」であって、私自身の(こういうミーティングの)幕を閉じるほかない。だがそれは、また別の次元の問題である。

 いろんな論題のやりとりより先に、論議に踏み込む前段の傾きに苦慮した。それはたぶん、私自身が、そうした論議に存分に付き合う根気がぼちぼち失せてきているからのようにも思える。年を取るって、そういうことなのよね。

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