2017年1月15日日曜日

言葉が人を裏切る


 机の上を片付けていたとき、折り込み広告の切れはしの裏側に書き付けた、古いメモが落ちていた。

 《言葉っていうのはね、どうも不自由にしか遣いこなせない時よりも、巧みに易々と遣いこなせている時の方が、本当に痛烈に人を裏切るものなんじゃないかっていう気がする。176ページ》
 
 と、ある。誰の、何にあった言葉であろうか。図書館で読んでいて気になるとメモをする。語り口からすると座談かインタビューのようだ。本だろうか、雑誌だろうか。ま、それはいい。でも、このことば、次期アメリカ大統領のトランプさんはどう受け取るだろう。


 そもそも彼は「裏切られた」と思わないのではないか。口から出放題。ともかく目前の「敵」をやっつけることしか頭にないようなしゃべり方だ。その時、そう思ったことを口にした、それだけではないか。批判を受けても、「そんなことは言ってない」「(そういう非難は)フェイクだ」と言い張れば、いい。あとは「敵」へのしゃべり方でも振る舞い方でも人格でも、徹頭徹尾攻撃すれば、自分への災厄は逃げていくとでも信じているように。トランプさんを「頭がいい」と評する人がいる。聞いている人の関心を逸らすことが上手だと。そのためにひとかけらに真実を取り出して、それがすべてであるように言い張りさえすれば、相手はそれが「ひとかけら」であることを「弁明」しなければならない。「そんなことはフェイクだ。でっち上げだ」と声を荒げれば、やり取りの場面の優劣は決する。音声や画像の残るスキャンダルでさえそうであった。これほど強い態度はない。

 トランプさんが常用する「ツィッター」は、そもそも発信するだけのメディアだから、耳を貸す必要がない。でも(何をするかわからない)という雰囲気を醸し出しておきさえすれば、(関係する人たちは)それを気にしないではいられない。マスメディアもそこを一つの主財源として「報道」する。そのさざ波が次々と広がっていく。なにしろ、世界最大の経済的、軍事的大国の大統領になるのだから、彼の言動が反響を呼び、企業家も政治家も、取り入ろうとしてか、誤解を解こうとしてか「弁明」したり、「ツィッター」に迎合する応対をする。

 トランプさんが大統領に決まりそうだというとき、ちょうど山を歩いていて、そのことを知った。一緒に山に登っていた人が、「でも(スタッフがいなくて)、政治の世界で困るんじゃないか」と心配をしていたことを思い出す。「そんなことはないよ。権力に座れば、寄ってくるものはたくさんいるよ」と私は応じたが、スタッフとして寄ってくるばかりではなかった。彼の「ツイッター」に寄ってくる、投資家や企業や世界各地の国や政治家の振る舞いや言葉が、すでに(トランプさんが)世界を「変えるかのように」作用し始めている。

 権力者の強みは、まず、他人の意見ばかりでなく、自分の言葉にも、耳を傾けないことのようだ。そうすると、自分に都合の悪い言葉をいつもスルーしてしまうことができる。決して後ろを振り返らないことにもなる。振り返ると、自分が自分を裏切っていることに気づいてしまう。あるいは、自分の言葉のもたらした現実が、自分の意図を裏切っていることを確認する破目になる。そうこうするうちに、権力的立場にあるという事実が、すべてを「現実」として(人々を)承認せしめてしまう。

 もちろん世界人口の3%ほどの人たちが世界の富の3割を占めているという経済的優位性がある(国のトップだ)からなのだが、振り回される側にいる私たちは、経済的、政治的影響というよりも、そこに働いている文化的作用のほうを気に留める。つまり、言葉と権力が、人々の振る舞いによって共有されているという姿に、である。民主主義かどうか(という政治体制)も関係ない。

 こうも言えようか。トランプさんが権力を握るのだが、彼の言葉に反応して「迎合」したり「弁明」したりするひとたちもまた、権力を行使しているのだ、と。世界を牛耳る有力なアメリカという国の国家権力が、それに応じる(世界中の国や)人たちの「権力性」に支えられて、世界を牛耳っていくのだ、と。日本でいえば、1950年から60年代にかけて一世を風靡したように、「権力」は支配者のもの、民衆は被支配者として権力に苦しめられているという図式は、今は通用しない。私たちでさえ、1968年からの社会運動を見ていて、その地平から離脱した。つまり、私たち自身の(暮らしや身体の)中に、「権力」を支える要素がしっかりと根付いているのだ。

 そこから抜け出ることはできない。だが、(相対的に)自立する道を探ることをしなければ、永遠に私たちは、世界や市場経済や国家や地方行政に従属し、依存して暮らすしかできない。それらと別個に暮らしの足場を据えることはできないが、少しでもわが暮らしは自分たちが決めていくといえる要素を多くしておかないと、(どうなるかわからない/為政者が、事業者が、なにをするかわからない)不安に、常に悩まされてしまう。

 自分が(自力で)できないところを、お金を払って買い求めたりやってもらうことは仕方がないのだが、その部分が多くなってくると、すっかり依存して自律性を失ってしまう。それが不安を醸し出す。「言葉が巧みに遣いこなせない」というのは、(どうなるかわからない)不安が自分の内部にあるとき。イメージがしっかり定まっていないからだ。そういうとき私たちは、誰かが決めてくれると「お任せ」して気楽になる。市場経済に委ねるというのは、お金を払ってその「不安」を払う代償を手に入れること。お金をもらう方は明確なイメージを提供しておかねばならない。つまり、誰かがやってくれるということは、「(言葉が)巧みに易々と遣いこなせている」こと。だから、「裏切られる」ことにもなる。お金の代償として受け取るのなら、(まあまあこの程度かな)ということもあろう。(なんだ、こんな程度か)ということもあろう。もうろん(よかったねえ)と満足することもあろう。それに浸って依存性が高まってきた。そして気が付くと私たちは、依存しないでは暮らせないように思っている。独立不羈などという言葉はどこを探しても出てこない。

 トランプさんのツイッターに一喜一憂している姿を見ると、我が身の拠って立つ基盤の不安定さに思い当たる。一つだけ私が持っている独立不羈の自身の根拠は、貧乏暮らしには耐えられるという、敗戦後の原体験。その後の(高度成長の)私たちの暮らしがそれを裏切ってきたのだと、つくづく思う。いまさら貧乏暮らしをしましょう、はないだろう。せめて、「言葉が巧みに遣いこなせる」人は政治家でなくとも、企業家であっても、ネットワークのリーダーであっても選ばない、という程度のことから始めるしかないか。

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