2017年1月21日土曜日
ひとり、見事
「Tさん、亡くなってた」と短いメールが入った。今月中旬のこと。Tさんというのは、四半世紀つづけてきたカミサンのヨーガの師匠。今年最初の教室へ行って、亡くなったと知らされた。去年12月の24日、一人暮らしの師匠の家を、鍵を持っている息子が訪れた。ドアを開けたらドアチェーンがかかっている。呼んでも返事がない。チェーンを切ってもらって中へ入ると息絶えていたというのだ。享年九十一歳。
去年最後の教室は、例年のように12月中旬。相変わらずおしゃべりが好きで、そのほとんどが自慢話。「ヨーガのおかげで薬いらずの元気、ひとりで暮らしている。先週、九州の教室へ行ってきた。これこれこんなおいしいものを食べてね……」とつづけ、「来年イタリアへ行くのよ、皆さんもご一緒にどうですか」と声をかけたという。インドやスリランカの仏教遺跡、カラコルムやシリア、レバノンなどの遺跡訪問も呼びかけて、カミサンは同道している。私もその教室に50歳代のとき、仕事帰りに足を運んだが、この師匠の(周りを見ない)自慢話がいやで、やめてしまった。そのときもカミサンは、「だって、もう七十五歳。自慢話でいいじゃない、あの年なんだから」と私の狭量を笑うようにして、師匠とつきあってきた。
それにしても、見事である。矍鑠として、意気軒高。家は息子の近所ではあったが一人暮らし。浦和ばかりでなく池袋などにも教室をもち、ネットワークを駆使して全国を飛び歩く。タウン雑誌の編集長をしている息子の紙面にも時々登場して、ヨーガの効用を説いていた。「ではまた来月、お会いしましょう。佳いお年を!」と明るく挨拶して、(たぶん)患うことなく逝ってしまうなんて、「元気に死ぬ」お手本みたい。
山折哲雄『「ひとり」の哲学』(新潮選書、2016年)を読んでいた。親鸞、道元、日蓮などの出現した13世紀を「日本の軸の世紀」ととりあげて、彼らの共通する思想が「ひとり」にあったと見て取る。山折の宗教思想遍歴の体感的なエッセイ。親鸞は「超越者」を、道元は「無」を、日蓮は「国家」を見据えて、そこに遠近法的な消失点を見出して世界を描きとったと見極め、その集約的なことばを「ひとり」に見出している。
欲も得もなく、ただひとり佇む。孤独ではないと山折は断るが、私は「孤独」の底に脚をつけたと、これまで表現してきた。「己」はただひとりでしかない。じつは身も心も、自分一人がつくりあげたものではない。身のこなしも感覚も言葉も、ことごとく育ってきた人間集団の育みつくりなしてきたもの。それをただ単に、受け継いでいるにすぎない。「世界」を宇宙にとってみれば、いかに「己」が卑小かは一目瞭然。その中に位置づけて「生きる」を見るとき、卑小であるがゆえに微細なことに感動し、壮大なことに肝をつぶして一生を送る。その受け継ぐ一生が、命の系統発生の継承であることを何よりも第一義と思う。つまりまず、世代を受け継いでさえいれば、何も患うことはない、と言える。
自慢話がいやなのは、いまでもそう思うが、「ひとり」超然と世を去るってのも、カッコいいかな、と思った。
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