2017年1月23日月曜日
庶民の「うそとほんと」
アメリカの新大統領が就任したことで、連日の新聞テレビはにぎわっている。昨日の朝日新聞の「日曜に想う」は編集委員の福島申二が《「考える人」から「思う人」へ》と題して、こういう。
《「ポスト真実(トゥルース)」という聞きなれない言葉が、昨年来、瞬く間に世界に流布した。好ましい言葉ではない。平たく言えば、事実や真実よりも感情的な言辞や虚言、あるいはウソの情報に民意が誘導されいく状況を指している。》
ここには三つの思い込みが優先されている。その思い込みが対象化されなかったために「トランプの勝利」ということを予測できなかったことが、まだわかっていない。
①「事実や真実」と「感情的な言辞や虚言」が対立されている。
②「民意が誘導されていく」とある。つまり「民意」そのものは空洞で、政治的リーダーやメディアが「誘導」してかたちづくるものと考えている。
③「ポスト真実」を「好ましくない」ものとして、切り捨てている。
子細に読めば、じつは福島申二は、「思い込み」の端境のところにまで来ていた。というのは、その後段で谷川俊太郎の「うそとほんと」と題する詩を引用しているからだ。
《うそはほんとによく似てる ほんとはうそによく似てる うそとほんとは双生児/うそはほんととよくまざる ほんとはうそとよくまざる/うととほんとは 化合物》
この詩を引用しておきながら、福島は《かわいい詩ながら恐ろしい》と片づける。なんだ折角ここまで来ていながら、それだけかよと、私は思う。もし谷川俊太郎の詩を福島申二の主題とするところに近づけてすなおに読めば、「真実」も「虚言」も裏と表、切り離してとらえられないよと読める。上記①の「対立」を対立でなくなる地点で読み取れと謳っている。
なぜ私には、そう読めるか。「真実」も「事実」も、「感情」を介在させないでは空疎な虚言でしかないからだ。「ひとつの事実そのものが取り出される」ということは、ない。取り出したとき、だれが、どのような地点に立って、なぜ取り出しているか、だれが、いつ、どこで、それを受け止めているかによって、「事実」は「真実」にもなれば「虚言」にもなる。つまり、発言者・報道提供者と情報受容者の、時と処と状況によって、「うそとまことは 化合物」となる。福島申二という新聞記者にとっては「真実」はひとつのように思っているかもしれないが、じつはそうではない。「真実」は「人」の数だけ存在する。しかもその当の「人」は刻一刻と変わっているから、さらにその変わりようだけ「真実」は増える。昨日の「ほんと」は今日の「うそ」となる。よく「似てる」だけでなく、よく「まざる」。これが、庶民の「うそとほんと」の受け取り方だ。
問題は、トランプではない。これまでの「感情的な」ことを介在させない「事実や真実」が(半数を少し超える人たちによって)拒絶されたのだ。そのことに気づかない知的な人たちが、あいかわらず③のように、「感情的な言辞や虚言」を端から「好ましくない」として排斥しようとしている。それは「感情的な言辞や虚言」に「真実」を感じとる人たちを切り捨てていることでもある。つまり、私なども切り捨てられているのかもしれない。
なぜか。「民意」は「誘導されるもの」だとみているからではないか。たしかに「民意」は実体的には存在しない。つねに実態的である。なぜなら、庶民のおかれている時と処と状況によって「意」は移ろう。それぞれの感情を介在させるからである。
政治家や言論メディアは、いくつかの意見を取り交わすことによって「民意を集約する」。それは(庶民の側からみると)、状況の違いを断片化したり単純化することによって、(感情部分を)ある程度整除する機能を果たす。トランプを支持した人たちには、エスタブリッシュメントの「知的な」言説が、じぶんたちの感情部分を経由しない空疎な「虚言」に映ったのである。基本的に(感情的なものを経由した)判断が庶民の側に置かれている。
もちろん福島申二がいうように、トランプ陣営は、民意を操作したと言える。リーダーシップをとる側はつねに「民意を誘導する」役を果たしている。でもそこに、「感情的な言辞や虚言」で動く「庶民」という思い込みをもっているから福島は《ウソの情報に民意が誘導されていく状況》を見て取ったのであろう。これまでの福島たち、エスタブリッシュメントの寄りかかって来た「事実や真実」が庶民の感情をくぐらせることをしなかったことが、トランプの当選として厳しく指弾されたのだ。
じつはここには、近代の言説が限界に突き当たっていることが示されているカントやヘーゲル以来、立場を超えて「理性的理知的真実」を求めるヨーロッパ的な普遍的思考が広まった。科学技術や近代産業の進展によっていっそうそれは、庶民の暮らしの中にも影響を及ぼし、威力を発揮した。その「普遍」が、(庶民の)具体的にはすっかり化けの皮を剥がされたのちにも、「ことば」が空疎に響きを湛えて残り、一部(特権階級)の利権を隠蔽し、多数の悲惨に目をつむってきた。つまり「普遍」に「感情」を組み込まないことが正しいという近代思想が、とっくに限界に来ていること人びとは感じていたのである。その化けの皮が剥がされた。それがトランプの当選となって現れただけである。
だからそれを「民主主義の危機」というのは、正しくない。近代普遍思想の危機と呼ぶべきであろう。そこんところを勘違いしたまま、「考える人」から「思う人」へなどと問題をすり替えていては、いつまで経っても日本の庶民の悲惨も終わらない。
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