2018年2月1日木曜日

現に見るということ


 昨日(1/31)の夜10時ころ、「月食が見えるよ」とカミサンが話す。外へ出て、団地の頭上の雲間に赤く黒ずんでいるというので、私は、双眼鏡をもって外へ出た。見える、見える。左下の方がより黒っぽいが、全体に赤味がかって異様な感じになっている。双眼鏡で覗いていると、雲がかかったりとれたりする。初め双眼鏡の調子が悪くなっているのかと思ったほどだ。スーパー・ブルー・ブラックムーンと呼ぶと、今朝の新聞を見て知った。


 寒いから、長い時間観ているわけにはいかなかったが、この寒さ、この雲の多さ、そうしてこの赤黒っぽさ、皆既日食のように真っ暗になるのではなく、陽に照り輝く満月の丸さを残したまま、地球の陰に身を隠したみせたわけだ。でも隠れることならず、楚々と身を縮めているようであった。奥ゆかしい。

 新聞などでは、ああなるこうなると言っていたが、読むよりも現に見る方がはるかに感性に響くものがある。昔の民話にあるような呪術的な気配は感じない。竹取の物語をコンクリートばかりでできた団地の林立する中でイメージするなんてのは、一種の芸当だ。それよりもたぶん、呪術的な感性の受け手が衰えてしまって、そのような気配の発信がなされていても、もう受信できなくなっているからなのだろう。かわりに、太陽や月の位置と地球との関係が「理知的に」作用するように場所を占めている。好い事か悪い事かわからないが、私自身がそれに適応してしまっている。

 それでも、現に見るという行為が伴ってはじめて、身の裡に喚起される感懐がある。この色づき、この大きな形、そこに不気味さを感じとり、それが引き金となって想い起していたことがあった。12歳(1954年)の頃、叔父の住んでいた西の家から祖父の住まう東の家へ卵を運んで、灯りもなく車も通らず舗装もされていない田舎の国道を、とぼとぼと歩いて帰って来るときに見上げた満月を思い出す。まさに煌々と照る月がどこまでも私についてくる。その不思議を感じながら、親や兄弟と一人離れて暮らしていたわが身の境遇を対象化していたのだろうか。

 そうした月を(わが身に引き寄せて)しげしげとみたことのない今の私の暮らしは何なのだろう、とも思う。山に入り山を歩くというのは、自然に身を浸すことのように感じているが、なにも山にまで行かなくとも、月や星を見上げ、海を眺め、草木と親しむことで自然に浸ることはできる。つまり、そういう感性が(環境がないことも含めて)備わっていない。あるいはこうも言えようか。日常を対象化できるほどの(できるだけ)対極に身を置くことによって、非日常としての「自然」に浸っているという錯覚を愉しんでいるだけなのかもしれない。

 とすると、呪術的であった昔のように、闇に畏れを感じ、寒さや暑さに身を曝し、清浄と対極にある汚穢を目にする環境に触れることによって、はじめて自然に対する畏敬を受信する感性が磨かれ、霊的な世界を感じとるセンスが育つのかもしれない。あまりにもそういった世界からかけ離れて過ごしている高度消費社会は、もうすっかり人間を変えてしまい、天体の運動構造としてスーパー・ブルー・ブラックムーンを受け取ることしかできないのかもしれない。

 それでもわが目で見たことが、そういう感懐を誘い出したのであった。

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