2018年2月6日火曜日
システム構築における超越的存在
「団地の次期理事長を引き受けることになった」と先日記した。でもこれは正確な表現ではないと、相撲協会の理事の決定の仕方を見ていて思った。相撲協会の理事は、選挙でえらばれた後「理事候補」となり、3月の評議委員会の承認を経て正式に「理事」となるというふうに、もうひと段階上の承認機関が存在する。これはどういうことなのだろうかと考えたとき、団地の次期理事も候補であって、「定例総会」で承認決定されてから正式に「理事」になるのだ。それまでは「理事候補」なのだとわかった次第。
わが団地の理事は、住まう階段(おおむね10戸、三カ所だけ9戸)毎に一人を出すことになっている。ここに住みはじめた28年前に「順番でやることにしましょう」と、それぞれの階段で「順番表」をつくった。私の住まう階段は9戸。9年に一回役割が回って来る。私は最初に年に役を引き受けたものだから、4回目。ところが何年もたつと、所有者が変わる。長期転勤のため所有権は変わらないが、賃貸にしている方がいる。世代交代したところもある。役員資格に「所有者」であり「現住者」という制限がある。やって来たばかりの人に次期理事ですよとやるわけにもいくまい。歳をとってとても務まらないという方もいて、「順番」がずれはじめる(ところが出る)。そういうわけもあってか、もう二回、三回と同期にやるかたもいる。それでも、あまり団地のことに関心を払ってこなかった私としては、急に近景が起ちあがってきたように感じたと記したのが、前回の関連記事であった。
だが、「理事会」の超越的機関と言っても、団地の定例総会が相撲協会の評議委員会とでは、その設営のされ方が違う。相撲協会の評議委員会の方は、外部識者が半数含まれるとは言え任命するのは相撲協会の理事長である。つまり相撲協会の方は、システムの構成が入れ籠状になっている。だから超越的と言っても、お互いに依存しあっているから、ちょっと眉に唾つけて見なければならない。でも、システムを構築するときに、形だけでもこの超越的な立場が必要というのが、面白い。これは日本的な特性なのかと思ったら、そうではなさそうだ。ドイツではほぼ政治的執行権限を持たない大統領がいる。アメリカの場合も、大統領就任の折にキリスト教の司祭(らしき人)が「宣誓」をさせる。つまり人が(自らの力で)構成するシステムには、それが天命によってか神によってか下されたという「権威」の証が(手続き的に)必要なのだ。
団地の定例総会は、管理組合の運営上の最高議決機関である。理事会というのはその決定に基づいて執行する機関である。人為のシステムとしては完結している。だが完結しているがゆえに、「神託を受けた」とでもいうような「権威の証」がともすると欠落しがちになる。欠落すると何が起こるか。馴れあいになる。
いくつかのケースを拾うことができるが、たとえば、管理組合の規約に含まれるか含まれないか端境の「事案」の処理を「管理費」をつかっておこなったことがあった。「何とかしてください」という住民の訴えを理事会が「それは各戸が個別に処理すべきことですから、自費で行ってください」というべきところを、聞き入れて管理費から支出したのであった。当然のように「定例総会」で論議になって紛糾した。理事長は立ち往生して平身低頭している。方法のひとつは、管理費の支出を差し止め、該当住民に負担してもらうこと。どうも事情が(説明不能なのか説明しないのか)わからないから、平身低頭されても困るばかりだ。脇からひとつ別法が示唆された。「規約の該当箇所の解釈が違うということなのか」という質問が出されたのであった。「それならそうと言えば、今回の処置は解釈の違いによって起きたことであるが、今後はその解釈は間違いであると、ここで決めることができる」と追い打ちがかかる。なるほど、そういうやり方もあると私は面白がってみていた。それでも理事長は「申し訳なかった。今回はこれで勘弁してください」というばかり。議長もころあいとみたのか「ではこれで」と締めくくってしまった。そのときに思ったのだが、理事長と総会構成員の(どういう力がこの結論に結びついたのだろうか)という疑問である。
① 何しろ日々顔を合わせるお隣さんの「事案」である。つい情にほだされてフライングをしたのであろう。あまり理事長を責めても、あの人たち(理事会)に任せたのだからそういうこともあろう。
② 大騒ぎするほどの額でもなし、今回は(なぜかは別として)「すまなかった」と詫びているのだから、これ以上深追いはやめよう。
③ 「規約」を振りかざして「正論」を言い立てるのは、何か他に意図があるのではないか。
どれが作用しているかはわからないし、あるいはそれら全部が少しずつ影響しているのかもしれない。直接民主主義という言葉は立派だが、持ち回りで役職を務めていることを考えると、結局いずれ自分の首を絞めるようになる、と思っているのかもしれない。つまり、民主主義の「議決」と「執行」というメカニズムが裸で歩いているわけではないのだ。しかも、構成員の人たちそれぞれが社会的に所属している(仕事上の)組織が、どのような「人と人とのかかわり方という民主主義センス」を備えているかわからない。たぶん、多様な形のものがある。それに馴染んだ身体性を持ち来って、団地の定例総会で共有するというのは、モザイク状の多様な「民主主義センス」が、「定例総会」の場の雰囲気と運びとによって、定まってくる。そういうことを実感させることが、日々の管理組合の活動の中に埋め込まれていく。
それでいて不思議なのは、管理組合の規約なども国土交通省のモデルに沿って作成される。あるいは変更される。それがどのような集合住宅をイメージして作成されているかに頓着しない。たとえば「長期修繕積立金の額」に関する国交省のモデルは、「280円/㎡」としているらしい。その根拠は? と尋ねても「わからない。そう書いてある」という。それが最近の超高層ビルの集合住宅の管理に適応できるように考えて作成されたものかどうかも分別せずに、5階建てのわが団地に適応すると、「○○円になる」と提出して、「(うちは安い)もっと値上げをしてもよいのでは」と話しがすすんだりする。公務員やインフラ整備の大手企業や高名な製造業に携わっていた人、労務士や会計士や税理士、不動産関係の人もいるからか、法への準拠精神というよりも、依存する心が強い。どういう趣旨の法や省令なのかに疑いを挟まない。お上の意向に平身低頭するような気分だ。
でも、具体的な運びとなると、生活にかかわる慣習的なやり方、身に馴染むやり方が通る。だから、出くわす一つひとつの事象に応じて、根幹から「なぜ」と問いかけ、「どういう視点でそれをみているのか」を吟味し、調べていく。そうすることによって、混沌の海のなかから、私たち流のやり方を作り出していかなければならない。面白いといえば面白い。面倒といえば面倒だが、ま、この歳になって世の中の文化性に少しでもかかわるお役目と心得て、尽力しようかと思案している。
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