2018年2月19日月曜日

完成度が高い劇団ぴゅあ公演

 劇団ぴゅあの第30回記念公演『其は誰が為に贈られる』を観てきた。150席ほどの彩の国さいたま芸術劇場の映像ホールが満席になるほど。土日の三回公演の真ん中。役者も一回演ってひと眠りし、勢いに乗る午前11時の公演。脂がのると思った。

 面白かった。「ハートフル・ホーム・コメディ」と案内葉書に記していたから、ひょっとしてドタバタかと思っていたが、案に相違して、テーマが一本筋を通している。


 「2016/11/7」のこのブログで「人類の才能の延長」として取り上げたテーマと同じ。ブログで話題にしたのは、2006年のフィールズ賞を受賞することになった二人の数学者。一人は、百年の難題と謂われた「ポアンカレ予想」を解いた(のに受賞を断った)ロシア人数学者、グリゴーリー・ベレルマン(40歳)。もう一人は、ベレルマンと同時に受賞したUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のテレンス・タオ教授(31歳)を育てた、小児科医の父親の人間観とその教育方針に賛辞を送ったものであった。

 その二つの話題をミックスさせて、平凡な日常に投げ込み、「ハートフル・ホーム・コメディ」に仕立て上げている。脚本の萩原康節は上手くなった。流れるようなストーリーは、まさに短編小説を読むような軽妙さを湛えている。それを演ずる役者たちの立ち居振る舞いも、なめらかである。いつも公演を見た後で書いて出す「感想」に、「上手くなった」と書こうとして、おっとこれは失礼と思って「上手い」と記した。あるいはまた、「商業演劇としても遜色ない」と書き落とし、出口を出るところにいた顔見知りの受付嬢に「完成度が高い、と訂正しておいて」とお願いした。つい、ご祝儀袋にいつもの倍の金額を入れてしまったくらいだ。

 「市民劇団」と自称する劇団ぴゅあの活動については、やはりこのブログ、2016/2/2「劇団ぴゅあの開放性に敬服」と2014/12/10「萩原康節主宰の劇団ぴゅあ、頑張れ」で、文化運動としての質の高さを称賛したが、今回の公演で萩原康節の世界を見る視線が、ひとつ厚い層に踏み込んだように感じた。これまでの「物語り」は同世代の齟齬や軋轢を素材としていた。だが今回は、次の世代の行方を俎上に上げている。

 「今回のお芝居は娘ができたから、演じたくなった作品であった」と萩原は記している。もともと持っていた彼の人に向ける視線の柔らかさが、世代の超えた[普遍性]を得たように思わせる。その転換点にある観念を[孤独]におく。私に言わせると[孤独の感知]。あるいは「[人間存在の底に足をつける]とでも謂えようか。萩原は、「市民劇団」を主宰し公演を積み重ねつづけるうちに、活動の一つひとつが浮かび上がっては消えていく陽炎のように儚いものと思えてきた、という趣旨のことを記している。あたかも「公演」を消費しているのではないか、と。

 じつはこの感覚には、人が活動的に生きようとする上で必ずぶつかるように思う。先日の「ささらほうさら」の講師を務めたosmさんも、理念的な体系を探究する彼自身の視線の基点に、「その人がいなくなってしまうと消えてしまうようなことに意味があるか」と社会的な論を構築する意義を問うている。osmさんの視線の行く先には(たぶん)[普遍的な体系]が想定されている。だが、そこには、ない。このブログの2018-2-1《「転向」なのか「自然(じねん)への先祖返り」なのか》にも述べたように、[普遍的な体系]は遠近法的消失点に「あると想定」されているものであって、現実には「かんけい」のなかに刹那に現れ、場が変わるとたちまち消えてなくなるコトなのだ。[普遍性]というのは、人間が文字通り観念的に仮構しているだけのものなのだ。

 ことに演劇の公演という感性に深くかかわる活動をしている人たちにとっては、公演の成功は、「時よ止まれ」と叫びたくなるほどの興奮を呼び起こし、「[普遍性]を刻みたくなる。だが、陽炎のように消える。そのことに「いらだちや焦り」を感じるのは、その人の活動的欲望がその先へ膨らもうとしている、証のようなこと。それが集団的な活動において起こると、あたかもそれが一般性を獲得し、永続性を持つように錯覚してしまう。「商業演劇」の場合には、そのひと公演が当たれば、即収入に結びつくから、若干の手入れくらいでやった成果は目に見える。マンネリになる。マンネリがひとの暮らしのベースであることは、誰もが知るところだが、創造的な活動においては停滞となる。創造的な、二歩目の一歩をどう踏み出すか、いつもそれを考えて呻吟しているのが、欲望の神髄がある。萩原はそこに突き当たっているのだと思う。

 「市民活動としての劇団ぴゅあ」は、一つひとつの要素を取り上げてみると、「総合芸術」と謂われるだけの広がりと深さをもっている。音声、照明、衣装、色合いのコーディネート、映像、大道具、小道具、場の構成、それの転換、発声、所作、関係的振舞い、人の立ち位置、そして動線、その上の、台詞と演技である。そのひとつひとつに「流れるような/違和感を感じない」、見ている人との間の無言のやりとり(コミュニケーション)が行われている。まさに総合的な文化運動である。その一局面に焦点を当てて踏み込んでみると、そこにまた、意識されない厚い時代的堆積とみてとれぬ深い闇があることに気づく。それは同時に、いまほとんど身体感覚の趣くまま、つまり無意識に振る舞っている日常を意識化する、自己を対象化する、自己批評的な地平が広がってみえることでもある。劇団ぴゅあの活動は、そういう意味で、市民生活の文化性への(自己)批評的活動でもある。別のことばを使えば、自己の輪郭を描く自画像の活動なのだ。もう一つ別様のことばを重ねれば、それは(活動にかかわる人それぞれの)「せかい」を描き出す活動でもある。

 劇団ぴゅあの公演がそのような広がりに対して開放的であるとは、たくさんの枝葉に「じぶん/せかい」を吟味しつつ描き出す芽を育てていることだ。その芽がどう育つかは、まさに社会のオーラがどう紡がれ築かれていくかにも(いつしか)影響を与え、与えられていく。それが世代を超えて受け継がれていくことによって、いまの「わたし」が立ち現れていることでもある。十分ではないか、それで。

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