2018年2月26日月曜日

わたしの自然信仰――「わたし」というすべて


 むかし、トルーマン・カポーティ『クリスマスの思い出』という短編を読んで記し置いたことがあった。
 トルーマン・カポーティというと、昔『冷血』という一家殺人事件を扱った作者だとおもうから、ノンフィクション・ライターだとばかり思っていたのだ。それが、メルヘンというのとは趣が違うが、七歳の子どもと「いとこどうし」というばあさんと犬が、周りの顰蹙を買いながら言葉を交わし、日々を愉しみ、クリスマスの用意をするというお伽噺のような短編。次のような一文を見つけて、《まさに、その通り!》ともろ手を挙げた。

「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには私たちはまず病気になって死ななくちゃならないんだってね。そして神様がおみえになるときにはきっと、バプティスト教会の窓を見るようなものだろうって想像してたんだ。太陽が差し込んでいる色つきガラスみたいにきれいでさ、とても明るいから、日が沈んできてもまるっきり気がつかないんだ。そう思うと、安心できたんだよ。その光を見ていれば怖い思いなんてせずにすむってさ。でもそれは正真正銘のおおまちがいだったんだよ。これは誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちのまえにそのお姿を現していらっしゃったんだということを、ものごとのあるがままの姿」……「私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。」


 ここでいう「ものごとのあるがままの姿」とは、わが身のおかれている「自然」そのもののこと。「私たちがいつも目にしていたもの」とは、「わたし」そのもの。「わたし」とは、わが身にかかわって集積されてきたありとあらゆる「自然」であり、「わが身」という存在そのもののことである。生まれ落ち、育まれ、いろいろな感性や感覚を身につけ、ことばを使って生きる術を備えてきた「わたし」こそ、じつは「自然」そのものであり、「ものごとのあるがままの姿」の集約された形であった。ただひとつ、「わたし」は「じぶん」の姿をじかに見ることはできない。鏡に映すように、他のことごとや人々との「かんけい」を通して映し出される姿を「イメージする」ことしかできない。触ろうとして触れず、触れようとしてつかみどころのない「空」を感じとる。しかし「かんけい」は間違いなく存在し、「わたし」が消えてなくなろうとも、他の人々との「かんけい」の中に生き続ける。それこそがわたしの「かみ」である。

 トルーマンカポーティが、わたしと同じように考えたかどうかは、わからない。身を置いている「自然」が違うからだ。ことに欧米の神がもつ強烈な呪縛力が作用しているから、かれは「正真正銘のおおまちがいだった」と否定形で語るしかなかったのかもしれないと、思う。

 ではなぜわたしは呪縛されていないのか。ひとえにこの地に根付いてきた原始的な自然信仰のゆえではないかとわたしは感じている。純朴であり、素朴を重んじ、素直を大切にし、善し悪しを切り分けず人の性を受け容れてきた。長い道のりには、切り分ける苛烈な風圧のもとに清濁併せ呑むような混沌を潜り抜ける適応を必要とされたにしても、それも自然のしからしむるところと受けとめる諦念をつくりあげてきた。

 そうでなく過ごしてきた「わたし」の幸運に感謝をささげるというとき、「自然信仰のわたし」は昇る朝陽に向かって手を合わせる所作に「かたち」を見出したりしたのだ。今の健康状況、今の子や孫のありよう、かかわりのある人々との落ち着いた状況は、誰に感謝していいかわからないが、まちがいなく、そのように振る舞うことの出来た「わたし」を包むすべてにわたしが手を合わせる姿に見える。

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