2018年2月16日金曜日
「転向」なのか「自然(じねん)への先祖返り」なのか
昨日(2/15)の「ささらほうさら」の講師はosmさん。現在ある大学院大学の教師を務めている。彼が去年4月の「ささらほうさら」の定例会で講師を務め、「歴史の水脈」と題して彼の出自とその地にまつわる小作争議と、それを大学の卒業論文にすべく調べたこととを話してくれた。そのとき私は、彼が主題に据えていたことの手前のところで時間が来てしまったことを次のように記している。ずいぶん長いが、まずそれをお読みいただいて、今日の本題に入っていきたい。何しろ私たちの歳にもなると、すっかり忘れている。新鮮な気分で読める(笑)と、わが身に照らして自信を持っていたりする。文字通り、ご笑覧あれ。
****「歴史の水脈」(4)みずからを対象化して自己の輪郭を描き出す
4/28の「歴史の水脈」(3)につづけます。相馬という土地のもつ気風に育まれ、平田良衛の薫陶を受けて、いつしか日本共産党のシンパか党員かという立ち位置をもって大学生になったosmさんが、その後どのようにみずからの思想的遍歴をたどったのか。そこがじつは、先月の「ささらほうさら」のテーマだったのではないかと思うのだが、そこに入る前に時間が来てしまった。
何故それがテーマだったと思うのか。osmさんの用意したプリントの末尾の欄外に、磯田光一の『左翼がサヨクになるとき』の文章が2節、何の注釈もなく引用されて置かれていたからである。それをまず、転載する(番号は私が振った)。
(1)高度成長以前の日本だったら、貧苦にあえぐ階層を前にして『パルチザン伝説』の主人公は、大衆を侮蔑することはできなかったであろう。そこでは政治が過剰に倫理的に考えられたとしても、過激活動が倫理を離れたゲームの色調をもつことはあり得なかった。このときわれわれは、高度成長を否認する思想そのものが、高度成長の内側からしか生まれてこなかったという、大きな歴史の皮肉に出会うであろう。
(2)ソヴィエトの共産主義理念は、マルクス=レーニンの模倣によって成立し、共産主義的人間とはもともと〝模造人間〟なのである。事情は右翼民族主義においても変わりはなかった。国家や民族の原像が仮構され、その仮構されたものへのアイデンティフィケーションが集団の価値意識を形成する。その場合、左翼においては仮構された観念のシステムは、しばしば外来思想のシステムに依存しているが、その観念を生きる主体のメンタリティは、それを生きる民族の文化の表現とならざるを得ない。
osmさんと私は、9年ほどの歳の違いがある。osmさんは団塊の世代の最後の人たちよりも、さらに少し後の生まれになる。しかし、私は日本共産党にかかわったことはなかったが、私が入学した60年代前半の大学は、教員も学生も、混沌とした左翼全盛であった。私自身、岡山の田舎の高校から宇野経済学を勉強しようとして大学を選んだほどである。これは5歳上の私の長兄が帰省した時に、東京の安保闘争の話とか、彼の専攻とは異なる経済学の話を聞かされて「刷り込まれた」私の思い入れであった。だから気分は左翼と言って間違いない。要は、時代の(知識人層の)気風が左翼的であり、かつ混沌の様相を呈していたのだ。
宇野経済学を学ぶ過程と私自身が大学でかかわったサークル活動との関係で、私自身は「政治活動」と距離を置くことを学んだことによって、すぐ隣の友人たちが「政治活動」にのめり込んでいくこととの軋轢を感じて過ごし、そのことが私自身の「思い入れ」を対象化して、自らの輪郭を描き出すことによって「世界」を描きとるという方法を、かたちづくることに向かった。もちろん当時は、自分がそのような内的な作業をしていることさえ気づかずに、ただただ、観念と実存在とそれがもたらす実感との乖離に頭を悩ましては、自己弁解ばかりを内心でつぶやきながら、メンタルには混沌の生活をしていたと、今なら言える。それの一面を掬い取ったのが、上記磯田光一の引用文(1)である。私たちのおおむね皆の育った時代状況が、貧苦にあえぐ階層であった。そのなかから大学へ通うようになったこと自体が、パルチザン伝説の主人公に変身する場を与えられたように思いなして、自らの立ち位置を世界に位置づけようとしていたのであった。osmさんの育った時代は、すでに高度経済成長への道のりを着々と歩みはじめていた。
osmさんがどのようなことを契機にして日本共産党的左翼から離脱しはじめたかを、正面から据えて「論題」としてもらいたかったが、今回は叶わなかった。ただ彼のレポートする「歴史の水脈」の文脈でいえば、私たちは須らく、生まれ落ちた地域と時代の気風に育まれ、薫陶を受けて一人前になっていくものなのだ。これは「刷り込み」と言ってもいいし、「洗脳」と呼んでもいい。
ちょっと言葉にこだわっておくと、「育まれ」とはいうが「育てられ」とは言いたくない。「育てる」という語感には、育てる側の意思が張り付いている。じつは親自身も、あるいは成長期に日常的に近くにいる兄弟にしても、どう「育てる」という意思を注ぎ込んでいるわけではなく、じぶんたちの暮らしに一所懸命なのだ。気がつくと、そう育っているというのが、子どもの生育の実情ではないか。同様に「薫陶」とは言うが、「洗脳」とは言いたくない。もちろん社会の指導的な人たちは意図的に子どもたちを然るべき方向へ育てていきたいと考えている(かもしれない)から、外からみるとそれは「洗脳」だよと指摘できる(かもしれない)。しかし、子どもは、そう計算通りに育つわけではない。むしろ、言わずとも回りの人たちの言葉、振る舞い方、感じ方を真似て育つ。かといって回りにすっかり染まるかというと、必ずしもそうではなく、どこかでひとつクッションを挟んで、みずから学ぶべきを学ぶ。順接的に学ぶこともあれば、逆説的に身につけることもある。つまり「薫陶」を受けるのであって、「洗脳」されるわけではない。もちろん、自らの実存に必要な適応をするという本能的な性向があるから、自らの選択が挟まっている。
言葉にこだわったのは、私自身に、「自(おの)ずからなる」ことへの抜きがたい傾きがあるからだ。他者に謂われ・他人に言われて何かをするということへの拒否感は、極めて強い。自律心といえばいえるが、それほど突っ張った物言いを望んでいるわけではない。それ以上に、わが心裡のおのずから向かうところ、場の収まるところへ「おのずから」向かうことへの心地よさを感じている。これは私の自然信仰とか、自然観、実存感と深く関わっているのであろうが、その感性・感覚の出自がどこにあるかは、未だにつかみきれない。だがこの感性や感覚も、長い間の累々たる(人類史的)暮らしがかたちづくってきたものの、もたらしたことであろうことは、疑いない。
「おのずから」ということは、欲望のままにということであるのかというと、そうでもない。気分のままにではある。ではでは、どこにみずからの「実存」の落ち着く先をみているのか。まず、「みずから」を意識しはじめたときすでに、「私」はかたちづくられている。集団的無意識とユングが言ったことがこれにあたるのかどうかはわからないが、生まれ落ちてすぐから生きつづけようとする意思を持っているかのように泣き、わめき、笑い、ものを食べ、言葉を覚え、起ち歩く。だがそれは、じぶんの力ではない。私を生み育む集団の文化的集積である。集団的無意識というのは、その文化的集積が、いまだ「じぶん」を意識しない子どもの身体にいつ知らず刻まれることを(外から見て)指している。これは「おのずからなるじぶん」である。そこでかたちづくられた感性や感情や言葉をベースにして、あるとき、「じぶん」を世界から分節する。このとき、集団的無意識としての「おのずからなる」ことと「じぶん」とが齟齬をきたし、乖離する。たぶん模倣によってかたちづくられた「じぶん」への嫌悪感が「おのずからなるじぶん」から「じぶん」を切り離そうとするのであろう。ということは、「おのずから」を対象とすることによってはじめて「じぶん」の輪郭をつかみ取ることができるようになるのである。
ところが、古希を過ぎるほどの歳になると、「おのずからなるじぶん」と「じぶん」との懸隔がそれほど感じられなくなる。つまり「世界/じぶん」が、「わが身」としてほどよく折り合いをつけ、「身の程を知る」からであろう。「じぶん」を対象とするとき、なぜそう感じるか解き明かせないけれども、間違いなく自分がわが身に刻んできたことだけは確信できる。確信というのは、心裡の硬い思いではない。「じぶん」がじつは「世界」と同じであり、卑俗な一個の凡人にすぎないという思い。わが世界もまた、それと同じ器に盛られた想念である。だから、どちらが歩み寄っているのか、定かにはわからないけれども、「おのずからなるじぶん」と「じぶん」との齟齬が希薄に感じられるようになっている。「じねん」が肌に合う。あまりに人工的な環境にも馴れてしまって、「自然」ともそう隔たりがあるとも感じなくなっている。だから「自然に帰れ」と、いまさら言おうとも思わない。
もはや現実世界から離脱して幽冥の世界にわたりはじめているんだよと、象徴的には、いうのかもしれないが、いや人間が変わってしまったんだよというのかもしれないと、思ったりしている。(2017/5/5)
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昨日の主題は、まさにこれであった。そのやりとりの中で、四点、面白い論題が浮かび上がった。
(1)osmさんの「歴史の水脈」から受けた、漢字左翼的な趣からの「転向」を、osmさんは吉本隆明の『転向論』における「中野重治」を肯定的にとりあげて、自らの径庭に重ねようとしている。
「記憶違いかも?」とosmさんが注釈をつけているのが何を指しているのかわからなかったが、私もまた、吉本が「転向論」において中野重治の『村の家』を俎上に上げ、知的世界へと浮上して行った息子に向けた父親のことばを「大衆の原像」として位置づけていたことを、ぼんやりと(イメージ的に)想い起すだけであった。つまり吉本は、中野の描き出そうとした「大衆の原像」こそが、前近代からの優性遺伝的なよりどころであり、それを繰り込んだ「転向」だけが信頼するに足ると評価し後に、中野重治がそれを裏切って「再転向」したと批判していたのではなかったか(記憶違いかも?)。私のそれも記憶違いかもと思わないでもないが、改めて読みなおしてみるほどではない。要は、理念的な(欧米的な)正義を目指すべきものとして幟立て、演繹的に現地の「革命」を領導しようとする(高校時代のosmさんの勢い)が、小作争議を調べているうちに、吉本の指摘する「大衆の原像」への共感を感じとるようになっていったということであろう。
そのことを「転向」と受けとめつつ、高橋和巳の『我が闘争』や伝習館闘争の『伝習館・自律闘争宣言』に触発されて、(勢いの良かった高校時代の演繹的な)理念を疑う――吟味する道へと舵を切った。と同時に、学校の教師という仕事に就いたことも相まって、現場のことごとに足をつけた、現象学的な方法へと展開してきた。この彼の展開過程を受け止めてきたのが、ささらほうさらの前身、1970年にはじまる「異議あり!」のグルーピングであった。わが身を吟味する道のりがはじまった。
(2)osmさんは現場教師を務めた後、一時期教育行政に携わる。行政官僚の末端を担い、のちに小学校の校長を定年まで務めている。
彼に言わせると、校長になってから書けなくなったという。校長が児童を教育する現場に、じかに手を触れているわけではないから、もし現場のことをエクリチュールにとどめようとすると、校長が指揮をして学校を切り回していることの「先進性」を打ち出さねばならない。かつて斉藤喜博が群馬県の島小学校で行った「実践」とか、林竹二の湊川高校で展開したこと、あるいは藤原和博が杉並区の和田中学校で行った「よのなか科」というパフォーマンスができるわけでもなく、教育行政や校長としてやれることには(自分が直に手を入れるわけにはいかないということもあって)きびしい制約がついて廻る。書いても、自分の言葉が中空にさまよっているような気分になったであろう。
定年退職後に彼は現在の大学院大学の教師を引き受けた。彼に言わせると、この教員養成の仕事は彼自身の教師仕事を振り返り、論理的に構成し直して教育をとらえ返すいいきっかけになっているそうだ。再び彼は、書くことができる位置に立つことができたのだが、今度は書くことの社会的意味がない。日記をつけるようなこと。それもあって、書きはじめようという気力がわいてこない。そりゃあ、歳のせいだよとまもなく後期高齢者になるkwrさんが脇から茶化す。
(3)そのkwrさんの矛先が私に向かい、でもどうしてmukanさんは飽きずに書くことができるの? と。そこで私は、先に掲げたご笑覧文書に記したようなことを話しながら、気づいたことを一つ提起した。
私たち現場を離れた高齢者が、現場仕事の振り返りエクリチュールに記し落とすことはどういう社会的意味をもつだろう、と。たとえば作家が(小説やドキュメンタリーの)作品を作成したりするのは、世の中に通じる普遍的一般的な何かがあると考えてのことかもしれないが、その作品自体が普遍一般のことではない。それは、私たちが書き記す個別のケースのエッセイと同じである。だがその作品が、誰か読者の目に触れ、その読者が共感したり違和感を感じたりする、その瞬間瞬間に立ち現れる「こと」への「感懐」が普遍一般なのだ。だがそれは、生まれた瞬間に消えてしまう「カケラ」である。もしそれが「批評として」か「読後の感想として」か書き止められていれば、それを目にする人との間にまた、普遍一般の「カケラ」が誕生し、消えていく。現象学者ならばきっとそれは、「間主観性」と呼ぶかもしれないが、私たちの世界に立ち現れる「普遍性」とか「一般性」というのは、そういうかたちをとる。吉本のいう「大衆の原像」もまた、そのような人と人との「作品」や「エクリチュール」や「画像」、その他の「かんけい」のなかに現れる。
osmさんが志向している「社会的意味/意義」は、不可能性の上の可能性を求める過程にしか生まれない。その過程に生まれるかどうかもわからない。私たちは、そのようなつかみどころのない、茫洋とした個別性という混沌の湖から、普遍・一般を紡ぎだす営みをつづけている。それを知的と考えて、敬意を表し、わが身に備えるものとして探究してきたのではなかったか。
(4)すると脇からmsokさんが「osmさんは論理的・体系的な(教育)論」を追求してきた。mukanさんのいう(文学)作品に底流する感性や感覚、感情をくぐらせた「カケラ」とは違うから、オレはあまり心惹かれなかった。いま(ささらほうさらに)オレが足を運ぶ理由は、オレたちを対象化するmukanの作業に脅迫されるような気分があるからだ。それが無くなったら、ただの老人会になってしまう」と口を開いた。そのことが一つ私の裡側に「カケラ」を残した。それは、理念的に「体系的な論理」を構築しようとする人たちと私との違いは、世の中のあれやこれやを論じるときに、己の感性や感覚、感情という個別性をくぐらせているかどうかではないのか。普遍性や一般性を「体系的な論理」を志向して論じる人たちは、個別性の感性や感覚、感情を(普遍的・一般的という回路を通すことで、)じつは捨象してしまっているのではないか。文学にしても、それ自体が普遍性を備えているかどうかは、読者の読み取りとの瞬間に発生する「かんけい」的事象であって、実体的な何かではない。
作品が読まれることを想定して書かれるのは、そうすることが普遍性・一般性を目指す振舞いだからだが、そこには(実態的に)「カケラ」としてしか具体化しない。その哀切なことを肝に銘じて、私は書き続ける。別に普遍性・一般性を獲得するために書き付けているわけではないのだが、「カケラ」をこぼし落としていくことが私の生きるということだからだ。
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