2018年2月17日土曜日

記憶と印象と歳を経ること


 人の記憶というのは勝手なものだ。20年前に生まれた孫のことよりも、それより10年程も後に生まれた孫のことを、よく憶えている。こうも言えようか。中学に入って以来、滅多に近づかなくなった孫のことよりも、まだときどきは顔を出す小学生の孫の方が印象の残る、と。それと同時に、五人いる孫それぞれの違いをはっきりと感じているのだが、間違いなく大きい孫に「規準」を置いて、見定めている。「規準」にするというのは、いつのまにか「孫」という一般名詞のように、どの孫をみるときにも、最初の孫との出来事や付き合い方を「モデル」にして、それとの差異で下の孫の特徴を見定めている。経験則と謂えばわかりやすいが、これは私の偏差だろうか。それとも、いくらかは一般性のある話なのだろうか。


 ひとつ、こういうことは言える。私は息子や娘夫婦とは、ずいぶん離れたところに暮らしている。こちらはさいたま市だが、名古屋や芦屋の方に居を構え、むろん仕事もそちらの方にもって、もう何十年もたつ。だから私たち爺と婆にとって「孫」と会うときは、いつもハレの日である。核家族ではあるが娘の方は、婿さんの実家の割と近くだから、婿さんの方の爺婆にとっては、内孫であり、ケの日の付き合い方をしている(と思う)。娘は姑や舅の愚痴を(私には)こぼしたことがないからわからないが、それでも日常的なかかわりを持っていれば、(お互いに)腹の立つこともあろうし、細かく世話をされれば、それもまたうっとうしいと感じることもあろう。つまり、婿さん家の文化とわが方が育てたところで身につけた文化とが(関東―関西という文化の違いも含めて)、肌触りの違いのように異質に感じられて、いやな気持になることも(お互いに)あると思う。だから、ケの日の付き合い方をする爺婆とは、「孫」に対する印象もまた違うも違いない。それはしかし、親密さの遠近法による違いなのだろうか、それとも、後期高齢者時代に突入している私の、歳をとることによって生じる自然な記憶の衰退による印象なのだろうか。

 だから最初の孫を遇したやり方で、二番目の孫にも向き合ってきた。いちばん上を富士山に登頂させたとなると、二番目も連れて行った。北海道へ連れて行ったとなると、同じコースではないが、似たような「旅」を企画して連れて行った。むろん兄弟一緒のときはそれはそれで面白いし、弟しかいなくても「お兄ちゃんのときは八合目から引き返した」と話して、それで奮起して旭岳の山頂まで歩かせた、「お兄ちゃんに勝ったあ」と弟を喜ばせたこともあった。兄孫のときは、夏というのに途中から雪になり、視界がすっかり閉ざされ、寒気に震えるようであったので、下山したのであった。

 いまは「孫」という一般名詞ほどに、五人の孫が溶け合って感じられる。もちろん顔を違い、性格も違い、才能も違うのだが、どの子も「孫」として小学校を卒業するくらいまでは、こちらを爺婆としての親しみを持って関わってくれているように思う。

 そうして二十年もたつと、小さな子どものことばや振る舞いや何気ない所作が、その子の内面をどう表しているか、探るように見ている自分に気づくことがある。町を歩いていても、登下校中の小学生がワイワイとにぎやかにしゃべり合い、逃げたりおっ駆けたりし、ときにはいじめじゃないかと思うほど、小さい子を大勢が揶揄い、小さい子も負けずに言い返していたりするのを、すっかり他人事のようににこにことみている自分に気づいたりする。孫目線というと少し違うが、爺目線になっている。

 私自身が変わってきているのだ。歳をとったから、こういう、親密な第三者とでもいうような、他人事の視線をもつようになったのだろうか。たしかにそういって、言えなくはないような気が、どこかにしてはいる。涙もろくなったり、寛容になったり、まあいいやと、腹が立ったり文句を言いたいときにも一歩引いてしまうのも、歳のせいかと思っている。それならそれでいいのだが、まだ変われる年代なのだと喜んでいいのか、この年になってまだそんな世迷言を言っていると呆れた方がいいのか、わからないが、そんなに悪いことのような気がしない。

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