2018年2月25日日曜日
分ける―まとめる、germのつぶやき
孫が誕生し爺婆になっての二十年史をつくろうと考えていると、まずぶつかるのが、全体の構成をどうするのかということ。主たる仕事を定年退職して十五年。最初の五年は「日録」を簡略に記している。その後の十年、つまり前期高齢者になってからは「日誌」をつけている。前者は手書き、後者はパソコンでタイプしている。較べてみると、「日録」よりも「日誌」の方が饒舌になっている。「日誌」も、初めのころに比べて今の方が、おしゃべりだ。
その時系列を、これまで振り返って眺め渡したことはなかった。最初の孫が四歳のときからの記事を拾ってみると、「日録」のほうからも、生長の具合が見てとれる。だが「日誌」の方には、孫と私のおかれた位置関係が、そのときの状況まで細かく書き込まれているから、捨てがたい思いが色濃く残る。そればかりか、カミサンの振る舞いに対する私の感懐も読み取れる。つまり、枝葉がたくさんついている分、分かちがたく感じる記述になる。
まずそれを、分ける。細かい枝葉を落とす。幹になるところを見渡すと、2/17に記したようなイメージが浮かび上がる。爺婆と孫との二十年は基本的にハレの日であった、と。しかも、最初の孫を「モデル」にしてつづく孫たちとのかかわりを設営し、変奏し、それらが積み重なって「まご」というぼんやりとした感触が身の裡にかたちづくられている。
枝が何であったかを見極めるのも、伐り落し作業だ。だが枝を伐り落していると、葉が目に付く。その葉の方に捨てがたい感触がこもっている。葉を落としてしまうと、なんでこんな記録が意味を持つんだとさえ思うようになる。そこで読み手が立ち現れる。そうだ、誰に読んでもらおうと思って二十年史をまとめようと思ったのか。ま、孫の成人という記念ではある。孫への手紙としてまとめるのであれば、読めるように変換しなければならない。だが「日誌」のことばは、つれづれなるままに書き落とした私の独り言。自分に通じる言葉を突き出しているだけだから、孫に読めるかどうか配慮していない。枝葉が大事で、誰もが読めるようにと考えてまとめるのであれば、小説にするしかない。小説という「まとまり」にはならない「かけら」ばかりが捨て置かれてきたのが、「日誌」である。それは私の「航跡」であり「輪郭」であり、ことばを変えて言えば、「わたしのせかい」である。
そう考えると、気が楽になる。孫に読めなくても構わない。そうか、じいちゃんはこんなわけのわかんないことを書いて、考え、生きてきたんだとぼんやりと印象を刻んでくれれば、いいじゃないか。所詮「かけら」なのだ。「せかい」にとって「わたし」はかけら。宇宙から見たら「かけら」どころか微塵にもあたらないgermだ。germというのは通常「ばい菌」と日本語訳されるが、その言葉の原義を辿ると、「(考え感情などの)萌芽」とか「(植物の)幼胚、芽」という意味もある。
話はそれるが、こういう言葉を見つけると、私はうれしくなる。出発点において「ことば」というのは、善し悪しの価値をふくまない寛容さをもっていた。それが「わける/分節する」時代に入って、ものごとにには「善し悪し/価値」がついてまわると考えられるようになって、「芽」は「ばい菌」にもなり、いつしか、「ばい菌」だけになった。始原にさかのぼれば、良いとか悪いとかは、どうでもいいこと。私の書き留めることばも、どうでもいいこと。でも、微塵にも相当しない「germ」が「ばい菌」としてであれ「萌芽」としてであれ存在したことを記しておきたいと、ちょこっと思った。その程度の「二十年史」となるか。そんなことを考えながら、「かたち」にすることだけをすすめている。
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