2020年2月16日日曜日
霞に取り囲まれてボーっと生きて「幸せ」
平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)を、旅の往き帰りに読んだ。この作家が芥川賞をもらった作品を読んだとき、ずいぶん衒学的というか、メンドクサイ作家だと思った印象がある。フランス哲学に通暁していることがそのまんま前面に露出しているような生硬さではなかったか。ところがこの作品、この作家の文体が日常の暮らしの地面に足をつけて歩き始めたような、落ち着きと平明さをもっている。いや、作品中の主人公の語りにも、ルネ・ジラールの言葉を引用して話をした後に、その硬さを自ら揶揄するような書き込みがあった。最初の作品から二十数年を経ているこの作家の変遷があったに違いない。
面白かった。一人の男の生き方を、ごく自然な語り口で、このように多面的な切り口を見せつけつつ描き出すというのは、なかなかの手練れ。何度か読み返すごとに新しい感興が心裡に湧いてくるに違いないという確信が、浮かび上がってきた。
それは、「わたし」を解体し、その身につけて生きている「かんけい」のことごとを解きほぐしてみせるに似て、つかみどころがなく、しかし、間違いなく受け継いでいっている「なにがしか」の手ごたえを感じさせる、そこまでたどり着こうと深く深くへ潜り込み、ふっと呼吸をするために水面に顔を出したような、手堅さとでも言おうか。
ボーっと生きているのが人生とつねづね私は思ってきたが、それはいつも水面に顔を出して泳いでいるからだ。水面に顔を出すこと自体がムツカシイ状況に置かれたとき人は、呼吸を止めてひっそりと水面下に潜る。その潜っているときにボーっと生きているわけではない「人生」に思いをいたし、ふと、「名前」ってなんだろう、それに取り付いている「万世一系」とも称される先祖代々ってことの「現在」って何だろうと考えると、私たちの取り結ぶ「かんけい」の実態が霞みはじめる。「わたし」一人がボーっと生きてるだけではなく、「わたし」と「かんけい」を取り結ぶ相手も組み込んで考えてみると、まさしく私たちは霞に取り囲まれてボーっと生きてる「幸せ」を感じるばかりではないかと、この作品は呟いている。
この作品中に「スティグマ」という言葉が飛び出す。殺人犯の家族とか、在日といったかたちで貼られてつかわれている。汚名とか汚辱というニュアンスをもって貼られた「レッテル」である。広辞苑では「社会における多数者の側が、自分たちとは異なる特徴を持つ個人や集団に押し付ける否定的な評価」とスティグマのことを記している。
しかしじつは、善悪の価値的な物言いを抜きにして言うと、私たちヒトは「スティグマ」を抜きにしてはモノゴトを観ることはできないのではないか。栄誉とか名声という肯定的評価も、レッテル貼りである。つまりヒトは、「概念化すること」によってモノゴトを安定的に「わがもの」にする。たまたま日常的に通用している「スティグマ」は否定的な評価を意味しているけれども、肯定的な評価もまた、「わたしのせかい」をかたちづくるうえで欠かせない「概念化」に作業である。
先ほどとりあげた「名前」もまた、「概念化」することによってわが胸中の「ひと」としてイメージが定着する。とすると、善悪の価値的な評価が付け加わるのは、「社会的な多数者の側」があってこその表現である。だから「名前」は通常、その個人を特定する人の価値意識の反映であって、それが名声であるのか汚名であるのかは、社会的な多数派の価値意識に乗じて自らの「わたし」を「正当化する」個体の傾きといえる。
なぜ、この「わたし」の「正当化」が必要なのであろうか。「名前」もそうだが、「わたし」はどのような「万世一系」に連なっているのかという「証」が、自己存立の根拠となるからだ。逆にいうと、霞にとり囲まれてボーと生きていて「幸せ」ということの「不安」が根拠を求めるからである。ボーっと生きているわけじゃないことを、つねに繰り返し自らの輪郭を描くことによって明かす以外にないと思えるのだが……。
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