2020年2月23日日曜日

末弟の生誕70年を想う


 今日は、私の末弟Jの70回目の誕生日。彼は6年前に病没しています。世の中は、彼の十年後に生まれた「天皇誕生日」として祝日にしていますが、子どものころからの私たち家族にとっては毎年この日は「祝日」でした。
 思えば母親が、息子五人の誕生日を毎年きちんと祝う場を設けてきたことが、私の身に刷り込まれて、兄弟間の序列を意識させ、争うのではなく敬愛することへと気持ちを傾けさせたのだと、今になって思います。むろんまた、兄や弟たちがそれに値する振る舞いをしてきたことも、相身互いのいい関係を築くことにつながったのでしょう。

 
 誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話していました(それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていましたが)。ふ~んそんなものかと(私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して)、その時は聞き流していました。だが(男兄弟についてだけになりますが)考えてみると、「かんけいが安定しているのは、相互のあいだのちつじょが安定している」といっているようなものです。つまり脳科学者のいっているのは(男兄弟に関しては)同義反復だったといえます。
 
 ただ、誕生日をきちんと祝うという振る舞いは、年功序列を意識させます。
 ちなみに、年功序列というのも、連綿と続いた男社会の産み落とした秩序といえますから、たしかに(女の子たちと違い)男の子たちにとっては、重要なキーワードだったのかもしれませんね。
 その年功序列が、たとえば母親の言説や振る舞いにおいて、つねに兄を立て弟を慈しめと諭すことだったでしょう。その内実は、弟からみると、兄が立てるに相応しい実存の在り様を日々の言説や振る舞いにおいて示していたからだったと言えます。また私自身が兄として弟に対して敬愛するに足る実存のかたちを示しているかどうかを問われてもいたわけです。
 
 でも子どもの頃のわが身の実態は、わがコトだけに夢中で、弟の心もちを慮ったり察したりしたことはほとんどありませんでした。申し訳なかったなあと、母親の一周忌に編集した冊子の中に綴った弟の一文を読んで、思ったことが思い出されます。私のすぐ下の弟(四男坊)が「兄たちが次々と家を離れて東京の大学へ出ていってしまうのに、自分が捨て置かれていくように感じた」という趣旨のことを記していました。兄である私の胸中において弟を置いていくことなどにかまっている余裕はありませんでしたから、まさに彼が感じたように「捨て置く」ようにしたのだと、いまさらながら忸怩たる思いで振り返っているわけです。
 
 ちょうど五人兄弟の真ん中の私にとっては、一番上の長兄と一番下の末弟とは天秤の両端。しかもその二人が首都圏に在住して(私の身近に)暮らしていたわけですから、ま、いうならば私の視界にいつも存在していました。彼らの在り様と私との関係が、気にならなかったことはなかったといえます。
 ことに末弟は、よくわが家に出入りしていました。若いうちは、週末にわが家に来て、彼の甥っ子や姪っ子の相手をしてくれました。子どもにとって叔父さんという存在は、ことのほか影響力があるものです。末弟Jの人懐っこい振る舞いは、そうした人付き合いの下手な父親であった私と違って、わが子たちに受け継がれているように思うことがあります。
 歳をとってからも、彼の仕事関係の出版物や活動とか、私と共有する山やアウトドアの関係の話はよく聞かされていました。そういう縁もあって、私が仕事を退職してのちの、いわば余生の活動を支援してもらうこともありました。文字通り、兄に対する敬愛を貫き通した在り様だったなあと、亡くなって6年近くも経つのに、じんわりと肚の奥底から甦ってくるように感じます。
 その彼が誕生してから70年。彼にも古稀の味わいというのを、味わわせてやりたかったなあと、感慨ひとしおです。
 そうだよ、歳をとるってオレみたいに自在になることなんだよ。あなたのように釈迦力に働いて身をすり減らすなよと、死ぬまで仕事一筋で夢中であったJのことを、あらためて悼む気持ちがこみあげてきます。
 2月23日。これからは国民の祝日。だが私にとっては天長節ならぬ「J長節」として、私がそちらに逝くまでは「わたしの祝日」になる。

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