2020年2月7日金曜日

出遭いと出逢いの凡々たるミステリー


 つい先日訃報を聞いて手に取ったのがこの本、藤田宜永『大雪物語』(講談社、2016年)。大雪に包まれたK町を舞台にした6話の連作短編にまとめている。そのうち三つは、見知らぬ人と人とが思いがけぬ出遭いを、この大雪の中でする。あとの3話は縁のあった人と人とが思いがけず出逢い、縁に思いを馳せ、離れていた間の人の移ろいを浮かび上がらせ、落ち着いた心もちを醸している。その出遭いも出逢いのミステリアスも凡々たるもの。これは「落ち着いた心もちを醸す」物語の予定調和的な結末が結ぶ印象かもしれない。日常に足をつけて落ち着いてしまった作家の、辿る宿命なのかもしれない。

 
 図書館の推理小説作家の書架で、この作家の名前は見ていた。しかしこの作品は、ミステリーとは趣を異にする。吉川英治文学賞を受賞した作品とあったから手に取ったのではあったが、ふ~む、吉川英治ってこんな感じの作家だったっけ。もう半世紀も前に読んだ私の読後感がぼやけているのかもしれないが、「宮本武蔵」は、人物像への踏み込みの哲学性も深く、大作だったという印象が強い。「大雪物語」は一晩で読み終わった。読後の印象にも、これといったものが残らない。お茶漬けサラサラという感じがした。もっとも60代半ばになったら、誰でもそういう世界観をもつものだから、それはそれで成熟してたどり着いた地点とみても、悪くはない。

 視点を変えてみると、お茶漬けサラサラというのは、私自身のものの見方がそうなっているからでもある。吉川英治の「宮本武蔵」を読んだのは20代。勝手に深読みしていたのかもしれない。
 つねづね私を超える超越的視点は(仏教文化の風土にあっては)、遠近法的消失点にあると考えているせいもあるが、世の暮らしに追い込まれて犯罪者となって逃げ延びるときの出遭いのミステリーも、亡くなった母親の遺体を葬儀のために引き取って運ぶ途次に遭遇するデキゴトも、あるいはふだん暮らしている土地に大雪が降ったために遭難してしまって偶然にも救助される話も、すんなりと心裡に滑りこんでしまう。何の違和感ももたらさない。私の思い描く「せかい」というパッチワークの一片になって、その一角にぴったりと収まるタペストリーのように感じられる。
 
  つまり私自身が求めている「物語り」は、明らかに私の「せかい」に槍を突き立てるような切っ先の鋭さを求めているのかもしれない。崖から転げ落ちる恐怖。血が噴き出す恐さ。平地にいて鈍くなり、何事にも脅威を感じることなく、平々凡々と暮らしている自分への、ちょっとした嫌悪。傷つけられて痛みを感じるほどのものに出合えなくなっているわが身のだらしなさを叱咤するものを、求めているようにも思う。
 つまりこれは、年寄りの冷や水。年を取った自分の経てきた径庭を巻き戻したいという儚い願望の現れかもしれない。バカだねえ、この歳になってまだ、刺激的なことを求めて身もだえしているよと、嗤うようなことだ。
 ここまで生きてきたこと自体がミステリーなんだよ。凡々たるミステリーが人生なんだねと、すでに先立った方たちから告げ知らされているように感じる。

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