2020年12月31日木曜日

コロナ禍の山歩き

 今年は何日、山に入ったろうか。1月が6日、2月が3日。2月には与那国島へ遊びに行ったから山行が減った。そして2月末には、新型コロナに関する緊急事態宣言が出されて、県外へ行くのは憚られるようになった。3月は日帰りの3日となり、4月7日を最後に6月9日まで2ヵ月間、山行が途絶えた。

 今年の山行日数は、32回、49日。20回の日帰り山行と12回、29日の泊をともなう山行であった。そのうち山の会の人たちと一緒の山行は、22回、31日に及ぶ。私の個人山行は11回、18日だったから、ま、山の会の皆さんにはよくつきあってもらったと思う。個人山行の1回には、現地の登山口に行ってみるといつも一緒に山に入るkw夫妻の車が止まっていた。出逢うために(たぶんこうだろうと思われる)コースの逆を辿って、うまく中間点の山中で一緒にお昼をとるのもあった。

 おおよそ週1回の山行をしていたことから考えると、4,5月の二月を除く山行日数としては、まずまずよく行ったといえよう。ならばコロナの影響は、さほどではなかったのかというと、そうでもない。

 同行する山の会の人たちが、格段に減った。何しろ公共交通機関をつかえないとなると、私とkwさんの車で行くしかない。同行する人がいれば最寄りの駅か浦和駅で待ち合わせて登山口に向かったが、それをしたのは3人だけ。あとの方々は、すっかり山から遠ざかったのではなかろうか。

 私は電車やバスを使わず、車で行くようになった。一番遠くまで行ったのは会津駒ケ岳登山口の檜枝岐村だったろうか。甲州市の瑞牆山のほうが遠かったろうか、それとも巻機山だったろうか。3時間半から4時間くらいの運転は、しかし、日帰りではないから、ゆったりと時間をとってムリをしないようにした。

 同行者が減ったことによる大きな変化は、山行計画段階からはじまった。これまでのように実施日と目的の山名を提示するのではなく、実施の週と目的の山名を提案する。それに同行を希望する方がいれば、その人たちと天気予報を参照しながら、実施日を決めるようにした。その結果、ほぼ晴れた日に山へ入れる。予報と違って雲の中を歩くようなこともないわけではなかったが、それまでのようにざんざん降る雨の中を上るようなことはなくなった。これはこれで、山の愉しみが倍加するようになったともいえる。

 それとともに、テント泊がはじまった。私は昔から使っていた一、二人用テントを引っ張り出してつかった。kwさん夫妻はテント用具一式を手に入れ、テント暮らしの第一歩からはじめた。山へ行くごとにキャンプ泊が進化していく。それは「泊」だけを機能的に考えていた私のテント泊観を変えるほどのちからがあり、それはそれで面白いものであった。kw夫妻はそのうち焚火をするようになり、11月の王岳山行を最後に、寒くなったのでテント泊を終了したのであった。山歩き以外に、キャンプを楽しむというアウトドア領域を開拓したともいえる。これは来年の山行の、行き先にも滞在の仕方にも影響を与えるように思う。

 山に登る前日に、登山口の近場でテントを張る。もしロングトレイルを歩くのであれば、帰着した日もテントに泊まる。そうすると、年をとっても登れる山の範囲がぐんと広がる。今年登った百名山は、5つか。巻機山、武尊山、瑞牆山、会津駒ケ岳、白砂山。どれも前日泊をした。会津駒と白砂山は下山後にもテントに泊まった。

 テント泊が面白いと思ったもうひとつは、テント場に椅子を設え、山を眺めながらワインを傾けてぼんやり過ごす楽しさと言おうか。ボーっとしている時間に身を委ねて、大自然に身を浸すのがこんなにも気持ちをくつろがせるものかと、身の裡の何かがほぐれていくのを感じたことだった。山が歩けなくても、こうやって過ごす時間てのがあるんだ。いつも目的をもって前へ進むという私のからだが身の奥にしつらえてしまっている感性を揺さぶるような体感であった。面白い。

 kw夫妻が付き合ってくれてずいぶん私の単独行は減ったが、いつもそうしていると私自身の山行センスが鈍るから、できるだけ週1のペースを崩さず、どこかしらの山へ行くようにしている。これまで登ったことのない山を選ぶようにするのだが、そうしてみると、まだまだ関東の近場にも登ったことのない山がずいぶんあることがわかった。また、「日本二百名山」とか「日本三百名山」とか「山梨百名山」「栃木百名山」「群馬百名山」などが選定されていることも分かる。

 あるいはまた、行ってみると、ルートファインディングも含めて、そう簡単な山でないこともあった。地元では登る山として意識されていないのに、地元の名山のように喧伝されているのがあることも分かって、可笑しかった。

 こうしてみると、関東甲信越の山だけでも、まだたくさんの未踏峰があり、来年以降の登山に困ることはない。こちらの力が尽きてしまうことの方が先のようだから、しばらくはプランニングの愉しみもとっておける。

 ま、こんなところが今年の山を振り返って思うことでした。

2020年12月30日水曜日

年の瀬が押しつまるとは

 今年も明日でお仕舞い。30日なんだから、そうは思うが、なぜか今年は年が改まるという感触が湧かない。どうしてなのだろう。

 カミサンは「今年は孫たちが来ないからね」という。孫たちが来ないから、お接待や料理を考えたりしなくていい。お節だって年寄り二人分の酒の肴くらいがあればいいから、あとはお餅とお雑煮か。仕事をリタイアして18年ともなると、節季仕舞いのあわただしさもない。

 つまり、日常の変わらぬ日々が坦々とつらなり、明ければ1月1日という平凡な1日がはじまるだけ。そういう風に考えると、日常と非日常の端境にある心理的な移ろいというのが、あるかないかの違いだけになる。

 でも、ちょっと違うような気がする。

 年末の大掃除だってそうだ。お節だってそうだ。賀状だってそうだ。そもそも節季という区切りをつけるセンス自体が(歳末・正月だけを指すのではないが)、場面の転換を図って苦しい面倒なものごとをやり過ごし、気持ちを巻きなおして新たな場を迎える仕儀ではないか。仕儀という言葉自体も、区切りをつける儀式的な面持ちを言葉にしたものだ。ただ心もちの移ろいというにとどまらず、儀式的な言葉にすることによって、節季という区切りを外化して、そこへ心もちをあわせるせ生活習慣を築いてい来たのではなかったか。

 だから子細にみると、年を越す世の中の大きな社会習慣と、私たち自身の身に沁みこんだ歳末・新年という越年の感覚と、私自身が意識的にそれをどう受け止めているかということと、それら三層の絡み合いと移ろいとが、錯雑して今のわが身の裡に醸し出す感懐が「今年の年の瀬感覚」になっているのである。

 世の中の大きな社会習慣というのは、おおよそ12/29から1/3までは仕事はお休みであるとか、その間帰省するとか、初詣に出かけるとか、年始に行くとか、お屠蘇やお節やお年玉といったこととかの「行事」になる。だがそれらが社会習慣という外的なもののまんまであれば、ちょうど5月の大型連休と同じで、節季という感触には結びつかない。ということは、幾分かでも子どものころからの暮らし方によって、身に染みているものがあるのか。

 子どもの頃の歳末は慌ただしかった。家業が八百屋だったこともあって、大晦日は除夜の鐘を聴きながら店仕舞いをし、風呂に入り、ラジオの「紅白」や「ゆく年くる年」を聴いた猥雑な混沌の邪気を払って新しい年を迎えるって感覚が底流している。それが年の瀬というものであった。わりと儀式的な型を重んじていた母親の振る舞いもあって、お節やお屠蘇やお年玉は年を越す行事として受けとめる感覚は身に備わっていたが、物心つくころには、戦争と敗戦とその後の世の移ろいとを親や大人の無責任な振る舞いの結果として受け止めるようになってから、わが身から引きはがすようにして、外化していった。

 その、意識的に身につけた観念が、齢を取るにつれて、そう容易に分節化して分けられることではないと受け止めるようになって、身に沁みた儀式的行事を、素直にわがものとして認知するようになったといえようか。子や孫が生まれ、節季という切り換えを取り入れることによって、日々の暮らしを継続する活力に転じることも、無意識にしていたのだと、いま振り返って思う。ここで、社会的習慣とわが身に沁みついた儀式的行事とを分けて受け止めていたことになる。

 となると、子や孫が爺婆から離れ自律していくことによって、ふたたびわが身の生活習慣が転機を迎えているとみることができる。もちろん日常がいつもの日常であれば、盆と正月には子や孫が来るという「ふるさと」としての爺婆が現れるわけだが、新型コロナウィルスのせいで、それも適わない。

 つまり年寄り二人だけの年の瀬が押しつまり、年寄りだけの正月を迎えることが「儀式的」にどれほど保てるかにかかっていると思える。こうなると、節季は個人化される。新年というよりも生誕何十年という節目の方が重くなる。昔のように数え年で年齢を数えていたときは社会的習慣と個人的生活習慣とが符節を合わせて節季を迎えたのだが、満年齢で数えるようになると、個々人で違うから社会的習慣と食い違いが出てくる。

 そうなんだね。そうやって個別化され、人は個人という自己責任で生きていくことを当然化されるから、他人の振る舞いを社会的なモンダイとして考えようという気風が衰えてしまうのかもしれない。節季という、暮らしを分節化して「場」の転換を図って来たことがこの列島の近代化をわりとスムーズに欧米的なものに変えるベースになったと思う。それと同時に、社会的な紐帯を解きほぐしてしまって、私たちの暮らし方そのものを個別化するモチーフを育ててしまっているのかもしれない。

 まさに糾える縄のごとき「節季」の移ろいということができる。

2020年12月29日火曜日

ブログ閲覧回数

 このブログの閲覧数が、週ごとに送られてくる。毎日と毎週の閲覧数と、このブログサービスサイトの全ブログの中の閲覧順位とが記されている。閲覧数が何よと思っていた私は、おおむね1日200件くらいかと識る程度で放っておいた。何がきっかけだったか忘れたが、去年(2019年)から、週ごとのそれを記録するようにした。それが今年になって大きく変わり始めていることを感じた。私のブログの評判がよくなったとか、悪くなったということではない。ブログ全体にかかわる閲覧数が変わり始めていると気づいた。

 2019年の週の閲覧数は、最低815回~最高1795回、平均すると1422回であった。1日平均200回であった。いつだったか、半世紀以上の付き合いをしている(いまだにアナログ派を貫く)知人の物書きにそのことを話したら、(そんなに多いのか)と驚いていた。専門書を出版しても手堅く売れるのは300部、多くても700部ですよと話していたある出版社の編集者の言葉が思い出される。

 ところが今年は、最低441回、最高1648回、平均1002回、平均143回。3割減、格段に下がった。でもこれって、この私のブログの評判が落ちたんじゃないの、と評判を数でみる人は思うかもしれない。そうでないと気づいたのは、やはり毎週の閲覧数につけられた「閲覧順位」である。

 このサービスサイトの全ブログの数は、おおよそ300万件の少し手前を維持している。いつかNHKに務めていた知り合いが「ブログってたいてい2年半続けば終わるのよ」といっていたから、300万件のうち、すでに終わってしまったのが9割以上あってもおかしくない。どうして? 進化生物学の研究では、99・9%の種は絶滅してしまったというからだ。ブログもまた、別に生き残ることを第一目的に目指したわけでもなかろうから、成り行きと偶然性に揺さぶられてあえなく絶滅する羽目になっても不思議ではない。

 その順位でみると、2019年の最低815回の週は20906位、最高の1795回の週は20950位。平均すると24171位であった。数が多ければ順位が上がるというわけでもない。閲覧する人全体の数が(たぶん)影響するから、数が(私のブログ内では)最低でも、全体のブログ閲覧者数の順位は最高の数の時よりも上だったことになる。

 2020年はどうか。最低の441回のときは24824位、最高1948回の時は26111位、平均25769位。やはり昨年同様、最低の時の方が最高の時よりも閲覧順位は上にある。

 2019年の最高順位は17247位、そのときの閲覧数は1667回。2020年の最高閲覧順位は18295位、806回だった。閲覧数が半数になったのに、順位は1000番くらいしか落ちていない。つまり、2019年に較べて2020年のブログ閲覧者数が、がくんと減ったのである。

 どうしてだろう? 2019年以前のそれを見ていれば、もっと別の何かが分かったかもしれない。チャットやツイッターに移る人が多くなったからとも(トランプ政権のやり口を見ていて)思わないでもない。加えてコロナウィルス禍がやってきた。ブログの長文を読むほどみなさん気が長くはない。速戦即決、短文・見出し主義。長い文章は読んでいられない。ましてや論理を追うなどムツカシイことはまっぴらごめんというわけだ。

 もっともブログと言っても、このブログのようにだらだらと書き綴るエッセイよりは、写真を載せ、少し言葉を添えるオシャレなブログが多いから、一概にチャットやツイッターと比較はできない。スマホに切り換えた人が多くなったせいもあるかもしれない。

 さて、そういうわけで、閲覧数が減っているこのブログだが、週平均が1002という数、1日平均143という数は、ゴリラ研究者のいう一人当たり150人の知り合いが精一杯という数とおおむね符合する。閲覧数は、必ずしも目を通している人の数ではない。一人が何回か見ていることもあろう。とすると、閲覧数の半分の方々が読んでくれているとみても、ありがたいことだ。

 おかげさまで明日もまた、書き継ごうかという気持ちが途絶えずつづいている。

2020年12月28日月曜日

12月限定のジョーク

 鳥観から帰って来たカミサンが、こんなことを言う。

「自分の生まれた西暦年に今の自分の年齢を足すと、誰でも2020になるだって」

 えっ、と思って足し算をしてみると、たしかに2020になる。

「これって、今年だけのことなんだって。Oさんが言っていた」

 と、鳥友の名前を告げる。Oさんは変わった方。群れるのが好きではない。朝早く、と言っても私たちとも次元が違い、新聞配達と競うかのように車を運転して鳥観に出かけ、空が白み始めるころには「おっはぁ。こんな鳥いました」と、ほぼ毎日スマホに写真を送ってくるマニアックな方。

 ふ~んと聴きながしていたカミサンの話が、お昼頃に気になった。

 今年だけっていうが、どうして? 今度は何年になるんだろう、と。

 こういうのは計算すればわかるじゃないかと数式に変換する。生まれた年をXとする。年齢をAとする。今年の暦年をYとすると、X+A=Yとなる。さて、2020年だけとなると、A=a+bと2000年を境にして二つに分けるか・・・、とやっていて気づいた。

 何やってんだ、、バカな。そもそもY-X=Aを年齢というのではないか。等号の両サイドを入れ替えるだけで、X+A=Yとなる。ということは、今年だけでなくて、来年も再来年も、この話は通用する。

 と考えて、さらに気付いた。ただ、この話は、12月じゃなくては通じない。12月となると、この年の何月生まれの人も、満年齢になるから、生年と年齢を足すと暦年になる。もし途中の月だと、まだ誕生日の来ていない人はそうならないから、おや? 変だぞと、気付くというわけだ。

 カミサンにそのことを話して、

「Oさんに担がれたんだよ」

 と告げると、

「でも、今年だけだって言ってたよ」

 と笑いながら、そうだよねえ、年齢ってそうだよねえと感に堪えないような声を出した。

 どうしてこんな、単純なことに引っかかるか。たぶん元号で生年を記憶し、ふだん西暦に置き換えて「計算」したことがないからだ。私もそういう意味では、元号と西暦の二重の遣い方が身と頭との二重性と重なっている。そういうとき、こんな簡単なジョークに引っかかってしまうってことの証明のようなもの。

 特殊詐欺に騙されないようにと、連日のようなキャンペーンがTVから流れてなお、被害に遭う人が絶えないのは、この身と頭の乖離が気が付かないところで行われているからにちがいない。ま、特殊詐欺をジョークと同列に並べるのは、ジョークに失礼かもしれない。だが、そんなことが気になった昨日であった。

2020年12月26日土曜日

ここからもう一歩の跳躍を

 今日(12/26)の朝日新聞の佐伯啓思「コロナ禍で見えたものは」が指摘していることは、このところ私が感じ記述してきたことと重なって、もっともだと思いつつ読んだ。佐伯の論展開をかいつまんでみる。


(1)「不要不急」と「必要火急」とを対置してみる。生存の確保に必要なものだけで人がやっていけるわけではない。人の文化は「不要不急」なものに支えられている。

(2)ところが文化はいま、経済に従属している。芸術も科学もエンターテインメントも同じ経済原理で動いている。

(3)経済学は「希少性を処理する方法」の研究であったが、「無限の欲望」の肥大化に「不要不急」と「必要火急」との区別が見えなくなっている。

(4)人の生における大事なものを市場原理に任せておくだけでは見失われていく。

(5)と述べて、「いかなる生、いかなる社会を望ましいと考え、いかなる文化を残すかという価値をめぐる問い」を問う入口に立つ。そうして、「生の充実には、活動の適当なサイズがある」と「無限の欲望の」抑制をほのめかす。


 佐伯が文中で触れたジジェクの「物騒な」言葉(新型コロナウィルスによって、豪華客船のような猥雑な船とおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことはよかった)の方が私には共感するところが大きいが、佐伯が控えめにというか、あいまいに言葉を濁していると思われるところが、気になった。

「無限の欲望」の抑制をほのめかすにとどめているのは、人の好奇心もまた、「欲望」であるからに違いない。そこに踏み込むと、経済学という肩書をもつ学者であった彼自身にも、他人事ではない。「価値をめぐる問い」を問うこととなると、百家争鳴に陥ることは目に見えている。たぶん彼は「コロナ禍で見えたもの」を為政者に問いたいと考えているのであろうが、そういう提言的な文脈ではない。「コロナ禍でみえた」感懐を綴っているだけという体裁だから、論議を交わす場が設定されていないとも言える。つまり、佐伯が「コロナ禍にみたもの」は(全く平場に身を置く私同様)現実政治過程に生かせるようなものではないということでもある。

 でも一つ、彼の立場にあれば踏み込めないこともあるまいにと私は思う。

 生存に必要なことだけが人の文化ではないというのは正論である。だが、「市場に依存しなければわれわれは生きてゆけない」のが、コロナ禍で断たれているのだとすると、まずwith-コロナ社会において生存に必要とされる要件だけでも(市場原理と別様の回路を通して)インフラとして整えよと言えば、為政者向けの提言として活きてくる。経済学の専門家としての彼の得意分野も生かされてくる。それを「文化」の次元を一緒に論じてしまったから、焦点が拡散してしまった。「不要不急」と「必要火急」とを対置させたのであれば、まず生存に必要火急のことがらをどうするかを論じ尽くし、それとは別個に「文化」としての不要不急へ言及するものではないのか。

「過剰が整理される恐慌」襲来と同じと言えば、ただ単なる経済現象としか受けとめられず、過剰なる人命が整理されると言ってしまうとジジェク以上に「物騒な」物言いになる。そう言いたいのではあるまい。

 とすると、市場に依存しなければならない現状からどのように離脱するのかを思案するのが、学者たるものの背負っている過大なのではなかろうか。ただ単に「価値を問う」というのでは正論過ぎて、そういう問いの立て方自体が、すでに時代遅れになってしまっているのではないか。それとも佐伯啓思は、すでに引退している気分なのだろうか。ならば私と、おんなじだ。世の中的には、もう用がない。

 せっかく共感して読みすすめたのに、そこからもう一歩の跳躍が読み取れなかった。残念。

2020年12月25日金曜日

義妣の生誕104年

 今日はクリスマス。子どもが小さかった頃はクリスマスよりも、イヴの方が忙しなかった。カミサンはケーキを作り、子どもたちは冬休みに入ったと喜んでいた。今は孫も爺婆と遊んではくれない齢になったから、イヴはなくなった。ケーキもなく、おでんで夕食を済ませた。コロナ禍かどうかも関係ない静かな一日という訳だ。

 12月25日は、信仰心の無い私にとっては、少し前から義母の誕生日であった。どうして?

 じつは、彼女が80歳の時にエジプトへ一緒に行った。ナイル川やピラミッドを見て回り、モーセが十戒を授かったというシナイ山にも登って元気であった。同時に好奇心も旺盛であった。ちょうど彼女の誕生日と重なってツアーの会社がささやかなお祝いを夕食の時に組んでくれて、じつは誕生日を知った。

 太平洋戦争のニューギニアで夫を亡くし、4人の子どもたちを育ててきた大正生まれ。10年前に94歳で亡くなった。高知のチベットと言われた僻地に暮らし、脳梗塞で倒れる直前までよく歩き、ゲートボールに興じ、翌月の旅行を楽しみにする活動的な年寄りであった。

 8月の末、朝起きてこないので家人が部屋に行ったら、脳梗塞を起していたという。中心部の診療所に救急搬送された。だが何しろ山奥のこと、いつもならドクターヘリで高知市内へ運ばれ、入院手術となるのだが、動かさない方がよいという医師の診断で、その場で手当てを受けた。翌日に予定されていた「健康診断」のために夕方から水をとらなかったという。猛暑の一日であったから熱中症が引き金になったのだろうとカミサンの姉妹たちは推定していた。

 でもどうして義妣の生誕104歳と半端な数字なのか? じつは明治生まれの私の母が亡くなったのが104歳であったから、義母が生きていればと思い出したのであった。

 わがカミサンは「コロナ禍も知らず、長女が脳梗塞で倒れてリハビリ療養中であることも知らないで逝ったのは良かったかもね」と、坦々と振り返る。十年経ったせいもあろうが、この齢になると(母が)亡くなったことをあらためて悲しむ感性は沸いてこない。もう自分たちの番が来ている。ましてコロナのせいで死に目にも会えず、お骨になって帰ってくるというのでは、悲嘆の度合いが違う。「良かったかもね」というのは、残される自分の側にとって良かったという意味かもしれない。

 私たちの親の世代が、案外長生きなのは、戦後の経済成長と医療や衛生環境の充実とが貢献しているとは思う。だがそれ以上に、明治や大正生まれの人たちの生きてきた環境が、自ずと足腰を鍛えるように作用していたからではないかと思う。

 さきほどカミサンの故郷を高知の僻地と言った。そうと知ったのは結婚の承諾を得るために高知の梼原に足を運んだ昭和41年のこと。高知駅で乗り換えて須崎駅で鉄道を降りる。梼原行のバスに乗り4時間。くねくねとくねる道を走って山の峠を越える。「辞表峠」と呼ばれたとカミサンが話す。赴任する人が、まずこの峠を越えるときに辞表を提出すると笑っていたのを思い出す。でもその峠は、まだ半分ほどの入り口。さらにいくつもの山を越え梼原町の中心部に着く。そこでバス乗り換えて、さらに1時間。四万十川の上流の支流にあたる四万川という字の残る奥のバス停で降りる。ほらっ、あそこが家よというカミサンの声に励まされて歩きだす。バス停から30分もかかったかと思ったほどだ。まさに高知のチベットと呼ぶにふさわしい佇まいであった。むろん、チベットを知っていたわけではない。話に聴いていただけ。チベットを実際に訪ねたのは、定年退職してからであるから、そのときから40年ほど経っていた。

 いまはトンネルが抜け、舗装路が奥の奥まで通じている50kmだから、マイカーで須崎から1時間もあれば到着する。だが便利になった分だけ、意識して歩かないと、体は車社会に適応して歩けなくなってくる。つまり、大正生まれの義妣が元気であったのは、運転免許を持つわけでもなく、ひたすら自分の脚で歩いていたから。80歳でシナイ山に上り、エジプトへの旅に行けたのも、便利コンビニの社会の機能性に適応せずそれを利用するだけにして、身を処してきたからであったと、妣の世代の生き方を振り返っている。

 心すべし。便利コンビニとわが身の適応とを意識して峻別して、生きていけと。コロナ禍の中でも、この分別が意味を持つように思うのだが、それはまたあとで考えてみよう。

2020年12月24日木曜日

名無しの山、羽賀場山

 昨日(12/23)、たぶん今年最後の山へ出かけた。羽賀場山774m。栃木県の鹿沼市にある里山。里山というのは地元の人には庭のように慕われているが、全国区ではというか、山歩きを好む人たちの間ではさほど関心を払われない低山という意味で、私は用いている。栃木百名山の一つ。

 東北道を走り、鹿沼ICで降りて進む前方に雪をかぶった男体山がひときわ高く姿を現し、その右へ大真名子山、小真名子山、女峰山と、やはり雪で真っ白になった奥日光の連山が居並ぶ。ここ一週間の天気が、関東地方には乾季をもたらしてよく晴れて寒い日々となっているが、日本海側には強烈な寒気と大量の降雪をもたらしている。それを象徴するような(日本海側の)景色に、思わずため息が出る。冬がやって来た。

 羽賀場山は地蔵岳や古峰ヶ原など前日光の山々の東側、関東平野との端境に展開している。鹿沼の市街地側からみると前日光や奥日光の山々の前衛になる。前衛の黒々とした山並みの向こう側から背を伸ばして顔を出すように白い奥日光の山々が聳えるのは、なかなかの壮観である。羽賀場山の山頂に上ればもっと見事に見えるのではなかろうか。今日の山への期待が膨らむ。

 大盧山長明寺はnaviに入っていない。住所を入れるが、精確な番地までは入力できない。ま、近くへ寄ればよかろうと考えていたが、一つの字が広いから、naviの「案内」が終了してから探すのにちょっと苦労する。お寺の下に来て羽賀場山の名の由来は「はかば」ではなかったかと思った。山への傾斜に沿って上に位置する長明寺の下の方には、たくさんのお墓が並んでいた。まるで裏の杉山をご神体にして墓守りをする気色が何となく立派に感じられる。

 車で境内への道を上って山門の裏手に入り込むと、ちょうど車を置くのに都合のよい広場がある。境内の隅を山の方へ入ったところで何やらユンボなどの大型重機が何台か入り込んで大掛かりな工事をしている。登山口を聴くと、その工事の進む前方を上ると指さす。礼を言い、車を止めるがと断ると、少し下へ降りた所の駐車場に置けという。一度引き返し、車を下へ動かすと建物の一階が車の置き場になっている。

 登りはじめる。たいへんな急斜面。キャタピラ付きのユンボが上るから広く凸凹している。上は砂防工事をしているようだ。道が二つに分かれている。入り込んだ右への道は行きどまり。戻っていると、作業員が重機とともに上ってきて、そっちじゃないよ、と左の道を指す。その先に小さな「羽賀場山→」の表示があると教えてくれた。広い作業道からはずれ、山の稜線を上る踏み跡があった。

 しかし踏み跡は、はっきりしていない。上る人が少ないのではなかろうか。谷の向こうに今日の目的の山、羽賀場山が見える。緑のこぶが三つ並ぶように盛り上がっている。なるほどこれが墓に見えるのかも、と思う。ただ植林作業の行われた後が段々になっていて傾斜も歩くのは容易。振り返ると麓の田畑と人家が、まるで隠里。高圧鉄塔が立ち並ぶ山が里を隠すように見える。そこからの高圧線を引き受ける第一鉄塔につく。20年前に発行された山と渓谷社の『栃木県の山』のコースタイムよりはちょっと早い。第二鉄塔を抜けるとすっかり杉林に入る。陽も差さない。約1時間で主稜線に乗り、羽賀場山への分岐710mに着く。やはりコースタイムより20分ほど早い。いいペースだし、疲れたという感じはない。

 そこからの稜線上が急な上りになる。握るこぶを作ったロープを張っている。足元には落ち葉が降り積もり、グリップが利かない。ロープが役に立つ。登っては下り、降っては上るをくり返す。20分余で羽賀場山に着いた。実はこの山名が国土地理院地図には記されていない。ただ標高だけが774.6mとあるだけ。山頂の標識には「羽賀場山774.5m栃木の山紀行」と記してある。ふと気づいた。この標高が地元の呼ぶ「羽賀場山」を「名無し」にしたのではないか、と。そういうシャレがわからねえかなあと国土地理院の地図製作者がジョークをかました、と。杉林に囲まれてまったく展望はない。

 先ほどの分岐に戻り、登ってきたのとは九十度違う東の方へ向かう。

 そうそう、この羽賀場山の登山ルートは地理院地図には記載されていない。山渓のガイドブックの略図を見て国土地理院地図の書きこみを見ながら歩いている。だから大体の見当をつけ、あとは踏み跡を見つけて歩いているのだが、落ち葉が降り積もり、踏み跡も定かではない。分岐からの稜線は広く、ところどころで二つ三つの支稜線に分かれているから、どちらへ踏み込むかは思案しなければならない。そのときスマホに入れたgeographicaの地図に打ち込んだ通過ポイントとGPSの表示する現在地点が絶大な威力を発揮する。おおよその方向を確認しては、それらしき踏み跡を探って踏み出す。こうして稜線の形と通過する等高線のポイントと向かう方向をチェックしながら暗くて広い杉林を、落ち葉を踏みしめてすすむ。これはこれでルートファインディングの面白さを湛えている。

 急な斜面を下る所では、そちらにもこちらにも歩くのに良さそうな足場がある。だがその先は、行き止まりってこともあって、木上りならぬ木降りになる。踏みつけた腐った倒木が落ち葉とともに滑り落ちる。バランスをとって転ばないようにする。気が抜けない。地図上ではこの方向に林道の末端があるはず。ガイドブックはそれより手前の、高圧線の下に出る前に林道に出逢うと書いていた。地理院地図より後に林道が延びたのだろうか。でも、下の方は、深い谷にみえる。空を見上げると杉の葉の間に高圧線が走っている。もう出合ってもいいはずだのに。

 立ち止まって暗い谷をみていると、目が馴染んできて、谷の様子が見えるようになる。沢筋と思われる向こう岸に、緑の苔と草に覆われた平たい所があると気づく。ああ、あれが林道だ。こうして林道に降り立った。ガイドブックのコースタイムより20分早い。地図に記された林道に出ると、さすがにしっかりとした設えになっている。両側は、相変わらず杉林。途中で「不法投棄監視パトロール」と車体に書いたバンが止まっている。誰も乗っていない。周りは大きく開け、木の切り出しが行われている。伐採の大きな重機が通るのか。ついでに植林もしているのか。陽ざしが明るく差し込んでいるが、人影は見えない。

 さらに降ると、3メートルほどに切った丸太を積み上げて干している。その山がいくつか見える。こうして何年か乾かして製材所へもっていくのか。民家が出てきた。誰かのアトリエもあるのか、案内看板が立てられている。後からバンがやって来た。あの「訃報と機関紙パトロール」だ。なかに6人ほどの人が乗っている。皆さん若い。前方からトラックがやってくる。これは丸太の積み出しを行うのか。

 おっ、釣り堀に出た。大きい。広い沢水をためた池にマスだろうかイワナだろうか、テカリの入った黒い身を寄せてたくさん泳いでいる。ベンチもあり、食堂風にもなっている。奥の方に人影が見える。私はまだお昼を食べていないのに気付く。11時半。

 奥の人に「イワナを焼いてもらえる?」と訊ねる。

「いいですよ、どうぞ」

「お弁当も食べたいのだけど」

「どうぞどうぞ」

 というわけで、食堂の中に入る。炭火が焚かれている。串に刺したイワナをもってきて炭火の脇に立てかける。塩を振っているが、イワナはまだ尾びれを揺らし体をくねらせている。ずいぶん大きい。そういうと、「焼くと小さくなります」と、申し訳なさそうに応える。

 60年配のお母さんが入ってくる。イワナの焼方を手ほどきする。なるほど、この人はお嫁さんらしい。羽賀場山に上ったと知ると「何かあるんかい?」とお母さんは訊ねる。

「ここら辺の人は上らんよ。皆東京の方から来た人ばかりだね」という。

 栃木百名山にもなっているのは、栃木県の広報戦略か。地元に人にとっては林業の杉山として大切にしているだけで、上り歩く山ではないらしい。ま、そうか。そういう里山があっても不思議ではない。

 イワナの炭火焼きは美味しかった。串刺しのそれを見たときは、済まないことをしたかなと思ったが、塩のたっぷりついた皮をはがしてみると、白い身が湯気を立て、ちょっと青い感じの香りを放つ。口に含むと、やわらかい舌触りが口の中でほぐれる。丁寧にほぐして目玉も食べてしまった。

 コロナが広がってから、釣り人が増えたそうだ。ことに日曜日はいっぱいになるという。明日で学校もお休みだから子どもたちも来ますよとうれしそうだった。

 30分程でお昼を済ませ、車を置いた長明寺に向かう。12時半着。4時間10分のコースタイムの行動時間がほぼ4時間。歩行時間は3時間半。まずまずの年末山行となった。

2020年12月23日水曜日

年賀――からっぽのありがたや

 去年の冬至は12月22日であったと、今朝送られてきた「去年のブログ記事」をみて知った。去年の記事は、この日に年賀状を作成したことを記している。じつは、なぜか今年も、22日。

 でも困ったのは、あまりめでたいと書きたくない気分だったこと。


 めでたいと賀状にかけぬ年の暮れ


 と思ってはいても、やはり賀状を出さないわけにはいくまい。でも、いつもの通りってわけにもいくまいと心裡のどこかで感じている。どうするか。結局、新型コロナの「啓示」したいることを胆に銘じて、慎ましくすること。ということは、必要最小限の方々に賀状は出すが、儀礼的な賀状はもう出さないと決めた。カミサンは「でも、貰ったら返事を出さなくちゃあね」と、正月を家で過ごす態勢の利点を生かす。おまえさんはどうするの? 私は、やはり出さない。そういうことを伝えもせずに? そう、どう受け取られるかは、人による。どう受け取られても構わない。そうやって消えていくのだねと、自分を得心させている。


 めでたいと言葉にならぬ初春かな


 全く下手な句だが、落ち着きの悪いところが今の気持ちを表している。新型コロナの自粛蟄居で、却って静かな生活を送っている。この、放っておいてもらえる佇まいが、なんとも私の今の気分にあっている。手紙のやりとりが好ましく感じられるようにもなった。昔は家を訪ねていって「年賀」の挨拶をするのがふつうであったか。今はメールなどで簡単に済ませる。その程度の心もちなのよと見切っていれば、それはそれですがすがしいと私は思うのだが、はて、どうだろうか。


 コロナ禍に年を越したりありがたや


 こんな気分になるとは、実は思ってもいなかった。めでたいという気分とありがたやと感じる気分とでは、ずいぶんと開きがある。でも、長い目で見ると、後者の方が自然観と人間観とを合わせて考えてみると実感に近い。この、自然に「ありがたや」と感謝の意を表明するのが、神道なのだと感じている。むろん、天皇家の祖神ということなど、長い年月にどっかへ行ってしまっている。お伊勢さんも、考えてみると、おかげまいりと言ってひたすらな感謝の象徴であった。天皇はんはカンケイなく、日本の自然信仰の結実した形かもしれない。御神体が空虚(からっぽ)というのも、好ましい。

 そうした気分になっている自分を、メデタイとおもっている。

2020年12月22日火曜日

これから明るくなる冬至

 昨日(12/21)は冬至。一年で一番、昼が短い。夕方、南西の空に木星と土星が近い所にみえるとニュースがいう。5時過ぎはすでに暗くなる冬至だからこそ、観察できるというわけだ。

 年末の掃除に取りかかっている。障子を張り替えたのは3年ぶりだろうか。大きいのを4枚、小さいのを2枚。こういうのを腰が重いというのだろうか。とりかかるまでに時間がかかった。とりかかってみると、さほどの時間はかからず、手間も割と簡単だった。年齢のせいかもしれない。

 網戸を洗う。かつては1日で済ませたが、いまは3日に分ける。山歩きと同じだ。行程16時間のロングトレイルを日帰りで済ますために、夜の夜中に出発して午後4時に帰着する強行軍をやったのは、まだ仕事をしていたころであった。今はそういうコースを3日に分けて歩く。齢をとるとはそういうことだ。

 先ず南側の網戸3枚を洗う。それが乾くまでに6枚の窓ガラスを拭く。2日目、西側の網戸3枚とガラス6枚を拭く。こちらは狭いベランダに乗り出すのでメンドクサイと思っていた。でも、やってみると、案外簡単であった。そうだよな。腰が重くなっているだけなんだ。残りは北側のベランダに乗る二つの窓。

 のんびり構えるというのは、身の丈に合わせるということなのだと思う。掃除をするというのにスタンダードはない。自分の家の掃除をするのをマイペースですすめるのに、誰が文句をいおうか。わが身の丈に合わせるのを自由というのであったか。障子の張替えもガラスや網戸の掃除も、準備を整えて置き、手順を踏まえてとりかかれば、メンドウでもムツカシクもない。腰が重くなっただけのことで自分を責めることもあるまい。

 昨日の夕食は蕎麦を打つことにした。5時過ぎからとりかかる。今日の蕎麦粉は北杜市の瑞牆山の麓のキャンプ場で手に入れたやつ。甲州蕎麦というわけだが、これまでの梼原の蕎麦とは味が違う。蕎麦粉の捏ね方も念入りにしないと、なかなかまとまらない。水を回し捏ねていると時間を忘れ、頭の中が空っぽになる。瞑想と同じ状態になる。あとになって気づくが、木星と土星の接近のこともすっかり忘れてしまった。

 読み終わった小説の喚起したイメージが胸中を揺蕩い、それを書きつけてわが身の裡の騒ぎを鎮めるのに、じつは午前中いっぱいかかってしまった。午後に年末掃除をのんびり手掛け、夕方に蕎麦を打つ。風呂を入れようとスイッチを押したのになかなか沸かない。カミサンが様子を見に行って「風呂の栓をしていなかったよ」と告げる。私が網戸を洗うとき風呂に蓋をおいて栓をするのを忘れていた。わお、お湯がその間こぼれっぱなしってことか。自分が蓋を置いたことも、スイッチを押すときにそういう確認を忘れていたことも、ひどいことをしたなあと身の裡に響かない。腰が重くなっただけでなく、何か失敗してもどこか他人事のように受け止めている。どうしてそうできる? 齢を取るとそういう失敗はするものだと観念しているからだろう、と。

 ハハハ、あれもこれも齢のせいにして自由になっているだけじゃないか。これって、自然に溶け込んでいるってことかい? 

 そうして今朝、ずいぶん明るくなったと感じて、枕もとの目覚まし時計を見る。なんと6時半に近い。いつも5時に起きるカミサンもまだ床にいる。冬至を過ぎたことで朝が明るくなるとカンネンしていたからだろうか。

 ま、そんなことどっちでもいいじゃないか。そう感じてすごしている、天然自然の一年の底に立つ日でした。これからは明るくなる一方だ。

2020年12月21日月曜日

元号と西暦と身の裡のふるえ

 昨日とりあげた夢枕獏『腐りゆく天使』の舞台の骨格をなしているのは、大正3年9月3日の午後9時17分から翌日の零時33分まで。何でそんなに厳密に?

 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に、月蝕の晩に彼の恋する人妻と逢っていたと書いているそうだが、調べてみると(厳密には、調べてもらってみると)、上記の時刻であったとわかった。大正3年、室生犀星や北原白秋、高村幸太郎や宮沢賢治、芥川龍之介なども活躍していく時代だ。

 そう考えていてふと、一つのことに気づいた。私の裡側では、いつも二つの年号が行き交い、棲み分けている、と。明治・大正や昭和の元号となるとわが身に刻まれた記憶が震える。西暦になると頭で理解した世界の流れが随伴する。その間の亀裂に気付いたのは高度経済成長がひと段落する1970年代の前半であったか。身に刻まれた記憶は元号と西暦の変換を(意識的に)ほどこさないと世界の流れに橋渡しできないようであった。

 大正3年は、明治生まれの私の父や母が3歳、5歳のこと。そこへ私の思いをいたしてみると、父母の子どものころの存念が浮かび上がる。商家の長男に生まれた父、富農の三男を父に持ち、三女三男の次女に生まれた母。母の兄弟姉妹は幼くして亡くなってしまった。加えて父(私からいうと祖父)が早くに逝ってしまったがゆえに母(やはり私の祖母)独りの手で街暮らしとなったと後に知った。

  大正3年は西暦で1914年。その7月にはヨーロッパで第一次世界大戦がはじまっていた。同じ7月に東京では、2年前に中華民国を成立させたのが袁世凱に乗っ取られた孫文が、中華革命党の結成大会を亡命先で行っている。世界史における日本は、一等国の波に乗ろうとイケイケの時代。大正時代というのは、日本の近代化が西欧の模倣から日本の独自性を育てていくときでもあった。そのように時代の感触を読み取るには、棲み分けている年号を重ね合わせていかねばならなかった。

 父母の送った大正時代へ目を移すと、経済史的には農民層の分解と呼ばれる社会的な大変動の進行する時代であった。富農とはいえ、男の子のいない(私の祖父が亡くなってみると)三男の家族は農家を継ぐことはできなかったようだ。大正デモクラシー隆盛の空気を吸って育ったであろう母は、目前にした女学校への進学もかなわなくなり、和裁の針仕事で生計を立てるしかなかったことを愚痴るメモが残されていた。そうやって、時代相に重ね合わせるには元号の刻む感触を、西暦の進行プロセスと二重写しにすることによって、実感に持ち込むことができた。

 それで思い出すのは、あがた森魚の「赤色エレジー」の歌詞。

「昭和四年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う」

 と、ずうっと私は思い込んで口ずさんできた。「四年」が「余年」であることは、つい今しがた「歌詞検索」して知った。

 なぜ「四年」と思い込んでいたか。西暦にすると1929年。1923年の関東大震災からすでに6年、1926年には元号は昭和となり、1928年の張作霖爆殺事件で関東軍を前面にたてて軍部は、とどめようもなく勢いづいていた。1927年に金融恐慌があったとはいえ、秋にやってくる「昭和恐慌」を未だ知らず、国運を主導する勢力にとって気分的には、やはりイケイケの時代であったと、私の世界史感覚は受けとめている。ところが「赤色エレジー」は、まるでそういう世界の裏側に潜り込んで「お泪ちょうだいの物語」を謳うセンチメンタリズムに充たされている。私の元号感覚も、そうなのだと思う。クールに自分を観ようとすると、西暦に変換する。実はその齟齬にこそ、時代相をとらえる鍵があるようには思うが、未だそこまで踏み込んでいないと自らを振り返っている。

 こうした元号と西暦の二重性が消えているのは、平成になってからだ。すでに平成としてわが身に刻む感懐は、ない。平成の始まった1999年の私は46歳。時代はバブルの最盛期。

 時代相はたしかにイケイケであったが、グローバルの波に満ち溢れ、もはや元号に浸る気分は社会的に消え失せていた。だから保守層からは危機感が表明され、国旗国歌や元号使用も法的な拘束力を持たせなければ保持できないときに差し掛かっていたともいえよう。

  こうして、私の身の裡の元号と西暦の二重性は解消されてしまった。それとともに身に刻む感覚と世界の時代相に身を位置づける感懐とが符節を合わせて捉えられるようになったか。そうでもあるし、そう一言で括るわけにもいかないという感触も残る。ただ「令和」で身が震えることは、まったくない。ときどき「令和」を忘れていることに気づいたこともあるほどだ。

 その感触の一部分に、「腐りゆく天使」に書きこまれた「匂い」が関わっているように思えるのだが、それが何かは、わからないままである。

2020年12月20日日曜日

脳幹から紡ぎだされるオマージュ

 深い沼の底の泥濘からぷくりぷくりと湧き起る気泡がゆるゆると水中を上り、水面でポッと弾けて言葉になったようなモノローグが差し挟まれる、夢枕獏『腐りゆく天子』(文藝春秋、2000年)は面白い。モノローグの主は鎌倉の教会の裏手にある落ち葉の降り積もった雑木林の土の下に埋められた屍体。「俺を殺して埋めたのはだれだ?」とはじまる。わたしはだれ? なぜここにいるの? だれがうめたの? でも、こうしてものおもっているのはなんなの、とぷくりぷくりと浮かび来る自問自答をくり返す。まるで魂が自問自答するように。

 ミサを終えた教会の神父は香部屋に引きこもり天使と対面して、恍惚の時を過ごしつつやはり自問自答のごとき告白をする。

 それらを一つに結び合わすのは萩原朔太郎。人妻に恋し、前橋から鎌倉に足しげく通う。室生犀星や北原白秋へのはがきや手紙が彷徨える詩人・朔太郎の心裡を記し留める。これも、モノローグと言えばモノローグである。

 本書は夢枕獏が萩原朔太郎に捧げたオマージュである。オマージュhomageというフランス語は尊敬や敬意を表し、その人物に対する賛辞を呈するものと相場が決まっているが、夢枕獏はその言葉に顕れる形式主義的な気配にまるで頓着しない。詩人・萩原朔太郎の歌の心に深く分け入り、自らの感性が受けとめ得る限りの共感性を総動員して、心根の泥濘の底に足をつけて、ふつふつと湧き起る情念の泡を記しとめようと筆を執る。

 夢枕獏を読み取る私の胸中に、父と子と精霊とが起ちあがる。とすると、象徴的に神父は父となり、萩原朔太郎は子となり、土の下のモノローグは精霊となる。その三者が三位一体となって感じとれる泥濘には、人妻に恋し、天使に恍惚を感じる、脳幹より出でて脳幹にじかに響く言葉にならぬ情欲がある。まさしく身の裡に宿る具体的な実態である情欲が、抽象的な、朔太郎に言わせれば「心霊上の恐るべき犯罪」に直結して、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板挟みとなって煩悶」する。それを「天帝から刑罰されて居る」と見る地点で、精霊がそれとして姿を現す。おおよそキリスト教にいう三位一体とは様相を異にする、人の実存の三位がひとつになって感じとれる。それを掉尾を飾る室生犀星の萩原朔太郎に当てた手紙が言葉にする。


 しかし、萩原君。

 ああ、よく聴いてくれたまへ。

 萩原君。

 我々は、人ではないのだ。

 人でありながら、人のことを書きながら、人ではないのだ。

 この世に生きながら、霊魂となったのが我々なのだよ。

 たとへ、人である仮の身がどのやうな目にあはうが、詩人はいかほども、びくともすることがないのだ。

 どのやうな哀しみですら、詩人は耐へてしまふ。

 耐へることができる。

 耐へられぬ耐へられぬと、哭きながらだって耐へてしまふ。

 何があらうと、何ごとがあらうと、我らはびくともすることはない。

 それは、言葉を持ってゐるからだ。

(後略)


 オマージュというのは、詩人を飲み尽くし食い尽くしてわが身の裡に咀嚼してしまった後に吐き出される「ことば」である。それはすでに萩原朔太郎というよりも夢枕朔太郎の精霊が言葉を紡いでいる。

「ああ、何といふ傑作を書いてしまったのだらう」と、作者はヴィオロンのごときあとがきに記している。そう、まさにそう。何といふ傑作を読んでしまったのだらうと、溜息のごときしみじみとした実感をもったのでありました。

2020年12月18日金曜日

秩父往還の里山・大霧山

 一昨日(12/16)朝ゆっくりと、車で家を出る。比企の名山と言われる外秩父の大霧山に上る。その途中、鶴ヶ島ICで降りるルートをインターネットは示していた。それなら、足を痛めているkwrさんの顔だけでも見ていこうかと車を走らせる。彼の家の住所「字××***番地」を入れるが、私の車のnaviはそれを表示しない。地番が新しくなったのか? まあ良かろう、近くへ行って電話をすればわかるだろうと思ったが、大違いであった。naviにいれた「字××○丁目*番地」は、大きく離れたところにあった。とりあえず市役所の駐車場で落ち合おうということにして、そちらに向かう。賑やかな鶴ヶ島の町は、すっかり様子が変わっていてわからない。kwmさんも一緒。ご挨拶だけして、お見舞いを渡した。案外元気でそうであった。「来年になったら、また行きましょう」とkwrさん。

 そこから一般道を行こうとしたが、naviは高速道へ乗せたがる。「一般道優先」の「ルート選択」を選ぶのに、やはり高速道へ向かわせる。とうとう根負けして、高速に乗って登山口へ向かった。

 下山口まで車で向かい、そこから4kmほど下の登山口まで自転車で戻る。自転車をバス停脇広場の車止めに縛り付けて、歩き始めたのは9時15分。昔の、秩父と小川・川越を結んで江戸に向かう粥仁田峠へ行く。立派な舗装車道が走っている。登山ルートはその間をショートカットして、山道を歩く。25年前発行のガイドブックには舗装車道から登山道への入口がわかりにくいと書いてあったが、今はきちんと方向表示板が設えられていて、迷う心配はない。

 畑の隅に立つ庚申塚の向こうに大霧山がなだらかな姿を見せる。空気の澄んだ青空に映えてすっくと立つ。連なる稜線の広い放牧場が里山の気配を湛えている。50分で粥仁田峠に着く。コースタイムより10分も早い。ちょっとペースが速いか。でも、今日は全体で4時間10分のルートだから、後半草臥れてもさほどの影響はないであろう。そう考えて、体の趣くままに歩く。

 ここから大霧山までが「急坂」とガイドブックは記していたが、さほどの傾斜はない。上っていると木々の間から秩父市の街並みの広がりが見える。遠方に両神山の独特の山稜の連なりが際立つ。冬の山は木の葉が落ちて見晴らしの利くところがいい。30分程で大霧山に着く。見晴らしがよい。高さ2000mほどの雲が南西の空にあるが、あとは青空。武甲山の中ほどが台地上になっているのがよくわかる。

 山頂から見える山の名前を連ねた案内板がある。南西の蕎麦粒山にはじまり、大持山、小持山、武甲山と今年歩いた山々が名を連ねる。雲取山や甲武信岳もあの辺りかと見える。両神山や二子山の右にあるはずの浅間山は雲に隠れて見えない。つい先日のぼった諏訪山なども見えているはずだが、名前はない。妙義山から榛名山と確認できるが、谷川岳や武尊山は、大体の見当しかつかない。赤城山、日光白根山、男体山や女峰山は本当に小さく見える。いや、一望できると言っていい。

 松平という中間ポイントに着いた。このあたりでお昼かと算段していたが、まだ11時。旧定峰峠まで行けそうだ。と思ったが、ほんの10分で旧定峰峠に差し掛かる。暗く狭い分岐点だ。これじゃあお昼を食べる気にならない。ガイドブックではここから定峰峠まで1時間とあった。12時を過ぎるが、まあいいかと先へ向かう。

 「ダイダラボッチの伝説」と書いた看板がある。大きな体のお坊さんが定峰峠に腰かけて笠を置いたところが笠山、粥を煮たところが粥仁田峠などなどと民話を記す。何だろうこれは。民話は何を表象しているのだろうか。

 標高でいうと150mほど下って100m上るというふうに凸凹しているが、踏み跡はしっかりしていて歩きやすい。おや、45分で定峰峠についてしまった。あのガイドブックのコースタイム1時間は何だったんだろう。舗装車道がここで行き止まりとなっているが、茶店もある。ラーメンとかうどんの幟がはためいているが人影はない。駐車場の隅の大石にもたれて弁当を広げる。ここまでに出合った人は一人もいない。

 食べていると若い人が自転車で上ってきた。標高550mほどを下から登って来たか。自転車と茶店をスマホカメラに収めている。食べていると後から二人、また自転車で上ってくる。ヘルメットをとると還暦ほどの年寄りだとわかる。

 20分程で食事を済ませ、下山にかかる。12時10分発。舗装車道を20mほど行くと、「白石車庫→」と小さな手書きの標識があった。山道に入る。下の方で車道をまた横切る。「車に注意」と書いてある。車高の低い赤いセダンがぶろろろと、何か憂さを晴らすような大きな音を立てて下ってくる。どこから来たのだろう。また山道に入る。最後は車道を500mくらい歩き白石車庫に着いた。12時40分。行動時間は3時間55分。歩行時間は3時間半。なんだかコースタイムが違っていたように感じた。

 でもおかげで半日ハイクのようなもの。帰宅してから月刊の「ささらほうさら・無冠」をコピーし、封書に入れる作業に取りかかったところで、プリンタがうまく作動しないことに気づいた。後のことは、昨日のこの欄に記した通り。

2020年12月17日木曜日

異次元世界の交差点の開陳ショー

 先日通信会社を変える工事をしてもらった。モデムを新設してもらい、インターネットにアクセスできることを確認して、ご苦労さんとなった。ところがその二日後、プリンタをつかおうとしたら、やたら時間がかかる。プリント指示を出して10分くらいかかってやっと動作が始まる。封筒のあて名書きを指示すると、一枚に10分かかる。これでは手書きにした方が早い。工事をしてくれた通信会社のカスタマーセンターに電話をした。「混みあっていますので、後で電話をするか、このまましばらくお待ちください」というアナウンスを繰り返し聞きながら、15分も経った頃やっと人の声に代わった。

 こちらの症状を話す。パソコンは手元にありますか? という。電話機の傍にもってきて用意する。こちらの画面が見えるらしい。

「遠隔操作をして症状のチェックをしたいと思いますが、よろしですか?」と問う。了承してネットにあるその会社の「遠隔操作」をクリックして「同意する」と画面の上をマウスの指先に当たる矢印が動き回る。途中電話でプリンタをONにしたり一度OFFにしたりしたのちに、パソコンの何かをチェックしたり動かしたりして、「ドライバを入れ替えますね」と電話で話しながら何かを操作しているのだが、手早くて何をいじっているのかわからない。そうして30分ほどしてプリンタに「test」印刷をすると、すぐにさかさかと、以前のようにプリントアウトしてきた。いや、すごい。

 しかも、「このMa**というソフトはご自分でいれたものですか」と聞く。「いや、それが何か、いつ入ったものかもわからない」と応えると、「これはウィルスソフトです。パソコンの動きを重くしてしまいます。右クリックして、そうそう、アンインストールをクリックして」という。クリックするが、消えない。もう一度やってみるが、なお消えない。「では、このソフトウェアが悪さをしないように「無効」にしておきましょう」といって、これも何やら操作をしてくれた。

 15分待ったのもすっかり帳消しにするほど、その後の操作の見事さに感心してしまった。と同時に、そこまでインターネットがつながってしまい、なおかつ、外から入り込んで動かしてしまえるのだということに気づいた。これは、たいへんな事だ。抑々パソコンの持っている能力の1/1000も使っていないのだから、乗っ取られるとかを心配することはほとんど無用なのだが、こういう操作を目の当たりにしてみると、アメリカの大統領選にロシアが介入したとか、中国が企業秘密を盗んだということも、十分ありうること。防衛力整備にあれだけのお金をかけるよりも、サイバーで介入し、相手のデジタル回路を攪乱する方がはるかに安上がりで、しかも人的損失を出さなくていいんじゃないかと、要らぬことが思い浮かぶ。それが昨日のこと。

 そして今日。メールを受信できるが送信できないというトラブル。こんなことは初めてだ。

 プロバイダのサイトを覗くとメールソフトのプロパティを開いて、どこどこをこれこれこのように変更してくださいとあった。騙りメールが続発しているため本人確認をより厳しくするように対応したのだと、変更のわけを書いている。みると2016年のことと言う。えっ? てことは4年も私はそれを放置していたのだろうか。

 そういうお知らせが「メール」であったかもしれないが、それ以外にわんさとコマーシャル・メールが来るから、みることなくどんどん「迷惑メール」の屑籠に放り込んできたから、私は目にしていない。でもそうか、わかったとメールのプロパティを開こうとしたが、何処にあるのかわからない。知人に問い合わせてみたら「そのソフトは使ったことがないのでgoogkeで「メールソフト;設定」を検索してみたら」と返信。だがそれをやるとわが家のメールソフトと同じ画面が現れて、行き詰る。

 光通信の通信会社がプロバイダもまとめているので、通信会社のショップに行って相談した。一人の販売員は「わからない。プロバイダの会社に問い合わせて」という。代わった販売員は私のもっていた「契約書」を覗いて、「ここにあるプロバイダのカスタマーセンターに電話して聞いてください」と親切に応対してくれた。そのカスタマーセンターの電話番号は、私がプロバイダと「契約」を結んだ20年前のお客様電話と違い、無料になり、かつ、固定電話、ひかり電話、携帯電話とこちらの電話の種類によってかける先が異なっている。

 早速家に帰って電話をする。昨日のことがあったから、パソコンを電話機の傍にもってきている。やはり8分ほど待たされて人の声に代わる。受信ができないと状況を説明する。パソコンが手元にあることをきいて、「では、受信ができるようになるのをお手伝いします」と言って、メールソフトを開く、その何処どこをクリックして、左端の方に青い色のついた項目があるでしょうという。いえ、ありませんと言うと、私のメールソフトの年式を確認するために別の場所を開くように指示する。そののtに、もう一度「設定」に戻り、その画面の右下の方にある「詳細設定」をクリックするようにいう。すると、これまでになかった場面が現れる。受信の設定を番号を確認し、その下の送信の番号を訪ねる。●●番というと、そこを○○○に変えてくださいと別の番号を言う。それを入れ替えて、元に戻すと、もう大丈夫だという。テスト送信をしてみましょうと、自分への送信を「test11:05」と時刻を入れて送る。「送受信」をクリックすると、来た来た。今送ったものが、すぐに届いた。また、今朝ほど送ろうと「下書き」に入っていたメールも、すでに送信が済まされていた。これで全部解決。

 そういう時代になったんだ。外と中の区分けが簡単に取り外せる。それに乗じて割り込む輩がいる。それをブロックするために、プロバイダなどはあの手この手の防護壁を築く。それをいちいち感知していたらメンドクサイという私のような連中がいるから、今回のような突然の不調に見舞われる。「いまたいへん混みあっています。後程改めて電話をくださるか、このまま暫くお持ちください」というアナウンスが、ただたんに人手を節約するために混んでいるのではなく、一つひとつがなんとも手間暇のかかる修理過程を必要としているんだ。そう思った。デジタルとアナログの目下、行き交う交差点にいる。カスタマーセンターは、出くわす異次元の世界をうまく調整して、次の世代の世界を標準化するために人類が支払う代償なのだろう。ご苦労様。この先、同じようなことでまた、電話をするかもしれません。よろしくお願いしますよ。

2020年12月14日月曜日

原的否定性と祈り

 ちょうど一年前に考えていたことが、つい先日問題にした「原的否定性」(ダメなものはダメ)と深いかかわりがあることに気づいた。このブログ(2019/12/13)「沈黙という祈り」は、「言葉にならない(言葉にするとウソになる)思い」を「祈り」として儀式化している原始生活を(選んで)営むボルネオ島のプナンの習俗に触れている。

「言葉にならない思い」というのが、このように表現できるのは、「(言葉にするとウソになる)思い」と知って後の視点からみているからである。つまり原始生活そのものの中にあっては、ただただ自然のもたらすものへの畏敬の念から生じた「沈黙」が、日常的な「おしゃべり」の猥雑さと対比されて(言葉にすることの困難)に突き当たる。自然に対する感謝の「思い」や「畏怖」をことばにできないことが、「祈り」という儀式として定着した。それを事後的な観点から指摘したのが「沈黙という祈り」である。その「祈り」は、原始生活の場に居合わせた子どもにとっては、食事中は「おしゃべりしてはならない」という掟として現れる。「どうして?」と問うた子もいるであろう。そのとき親は、「ダメなものはダメだから」と教えたのではないか。そうすることによって、その「祈り」の背景に積み重ねられてきている集団の「思い」の由来があることを、子どもに感知させるしかない。いやじつは、親自身も、なぜそうするかを言葉にできない。先述の「事後的な観点から」というのは、原始生活とは違った次元の生活文化の入って後に築いた観点からみているということであった。

 つまり私たちがモノゴトを分析したり解釈するのは、次元を異にする地平に視点を置いたときに可能になる。もちろんコトの渦中にいるときに、そのコトがなんであるかをとらえないとわが身を「世界」に位置づけることができない。だから、渦中にいて視点を異次元におくという方法を、ひとは編み出してきた。宗教がそうであり、哲学がそうであり、科学もそうであり、イデオロギーでさえも、現状況から離脱する手立てとして観る視点を手に入れるために、生まれてきたのだといえる。

 社会集団の渦中に身を置くものとしては、まず「ダメなものはダメ」という物言いを受け容れることが欠かせない。それは、その社会集団が築いてきた「掟」や「習俗」、「沈黙」や「ことば」などの「振る舞い」への価値的評価に、積年の営みが積み重なっていることの承認なのだ。言葉を換えていうと、それは自分の身を置く社会集団への帰属のスタート地点である。それは、身を置く社会集団への畏敬の念であり、大人は言うに及ばず子どもは特にわからないことがいっぱいあることを承認することから集団への帰属は出立するからである。それを拒絶するということは、その社会集団から離脱して生きることを意味する。逆にいうと、人と文化の多様性を組み込む社会とは謂うが、それは社会集団への敬意がなくてもいいという意味ではないのだ。人が集団で暮らすという基本線を逸脱するものは、身を置くことが許されないと言い換えることもできる。人類の宿痾でもある。

                                            *

 そう考えてきていま思うのは四半世紀ほど昔、TVの画面で「なぜ人を殺してはいけないんですか」という一人の青少年から発せられた問いへの答えである。そのとき「ダメなものはダメ」と口にする人もいたが、それはほとんど説得力をもたなかった。なぜなら、「なぜ?」とその青少年は訊ねているのだから、「原的否定性」では説明にならないと(ほぼ誰もが)考えていたからであった。そのとき、そうだよダメなものはダメなんだよと呟いていたのは、家庭で(コトを弁えない幼い)子どもを育てている親であったり教室で悪戦苦闘している学校の教師たちであった。つまり具体的な社会集団においては通用する言葉が、TV画面という一般的な言説の場面では、全く通用しないということであった。

「なぜ人を殺してはいけないんですか」と問う青少年は、すくなくとも社会集団においておけないと宣告することしか、大人の側には残されていないのである。

 原的否定性を忘れた人々は、じつは「祈り」を忘れているのであり、言葉にならないことがあることや「沈黙」ももっている大きな意味を忘れているのである。ひいては、人類が歩んできた道のりで堆積してきた膨大な文化のほんの裾野をいま目にしているにすぎないという「実存」のちっぽけさを知らないことを意味している。

 そんなことを考えさせられている。

                        ***「沈黙という祈り」を再掲する***

 奥野克巳の長い表題の本『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年)で指摘されていたもう一つの事実に触れておきたい。

 プナンは獲物をとってきて食するわけだが、イボイノシシをとってきた場合、解体から食べ終わるまで、全員が沈黙を貫く所作があったそうだ。声を発することが獲物を貶める振る舞いとみられているようだと奥野は言う。獲物にありつけるということは喜びであるはずだ。にもかかわらず沈黙を貫くというのは、獲物への敬意であり、命あるものを奪って食するということへの畏れであり、私たちの文化に引き寄せて謂えば、森やイボイノシシという自然への感謝の儀礼化したものということができる。沈黙という祈りであろう。

 また近親者が亡くなると、その近親者の名を呼んではならず、残された近親者が自らの名前をも変えてしまうという。彼または彼女が使っていた家財道具ばかりか(ときには)家なども処分して、別の場所へ移り住むという葬送儀礼もあったそうだ。狩猟採集生活だからこそできることではあるが。名を呼ばないということと、獲物を食し終わるまで沈黙を守るというのとどう関係しているのかいないのかはわからないが、声をたてたり名を呼ぶということが猥雑なことであり、命を失くしたものを貶めるという感覚があるのかもしれないと、最初は思った。。

 戦中生まれ戦後育ちの私の世代は、明治生まれの親の文化受け継いできた。食事中はおしゃべりをするものではないと、子どもの頃はしつけられた覚えがある。どうしてそうなのかは考えもしなかったが、そうした習俗にも、何がしかの意味合いが含まれていたのであろうと、いま思う。

 それをもう一歩踏み込んで考えてみると、何がしかのことを言葉にすることが、的を射ていないというか、軽んじることに通じると感じていたからではないか。私たちの日常でも、哀切な思いをどういっていいかわからないことがある。悲しみも愛おしさも、口にするとウソっぽくなる。同様にプナンは、例えばイボイノシイを獲ってきたとき、言葉にする何がしかの思いを「*」とする。罠にかかったイボイノシシのことにふれると、それを獲った側からみた「*」と罠にかかったイボイノシシの側からみた「*」とは、自ずから異なってくる。どちらのことも讃えようというとき、イボイノシシの命の賛歌とそれを奪った栄誉への賛歌とは、矛盾する。まして、それを屠って食することを称賛することは、イボイノシシと同じ世界を生きているものとして、どういえばいいのか。それが「*」である。

 「語ることができないことについては、沈黙するしかない」という哲学者の言葉を思い出す。プナンの「沈黙」は、言葉にすることへのためらいであるだけでなく、言葉にならない「*」が胸中にあることを大切にしておきたいという思いがこもる。奥野の指摘は、逆に、現代社会の私たちは「沈黙」という祈りを忘れているのではないかと抉り出しているように思える。「祈り」というのが、いま私たち自身が生きていることへの感謝であってもいい。それがイボイノシシの命によって購われていることであっても構わない。あるいはもっと広く、イボイノシシとそれを獲った者たちとそれらすべての環境を与えてくれた天然自然への畏れというのであってもいい。自分たち自身が天然自然によって生きていることを「*」すること。それが「祈り」であろう。そうした言葉にならないが、間違いなく私たちの胸中に湧き起る「思い」は「沈黙するしかない」所作によって、共有されていたように思う。ことばにしてしまうと、零れ落ちて、「祈り」にならないのだ。

 かくいう私自身が、ここに書き落としているような形でおしゃべりをして、大切なことを零し落している。言葉が「ない」ことの大切さを忘れているのが、日常というものであり、猥雑と称されるものだとすると、ときどきは沈黙して、大切なことを想い起すこともしておきたいと思う。(2019/12/13)

2020年12月13日日曜日

進む技術、遅々たる社会的手順

 スマホの会社を切り替えたのに伴い光通信の会社も切り替えることにした。実はこの切り換えがどういう意味を持っているのか、とんと見当がつかない。結局、いまより月額1000円ほど安いというのが、決断の動機となり根拠となった。

 その話を持ち掛けたのが先月末。一週間前に切り換えの技術的チェックに、若い調査人が訪れた。部屋の配線を調べるのに、1時間半くらいかかったろうか。今後は書斎の回線を使わず、リビングのTV回線をつかって光通信も電話も使えるようにするらしい。

  二十年以上になろうか、何年前であるかもう忘れてしまったが、NTTでADSL通信がはじまったころに電話回線を切り替えた。モデムなども借りるようになったのだったか。そのときには、書斎の受け口の配線をいじり、それだけではすまず、ドアホンと兼用の電話が通じるようにリビングの壁に取り付けた電話機の配線も、何やら工事していた。

 それが光回線に切り替わったときは、モデムの切り替えくらいで済んだ。だが、ときどきモデムが作動せず、よく見ると初期化されていたりして、その都度、どうして? と思ったものだった。停電などのときにモデムが初期化されることがわかり、接続をはじめからやり直すことがしばしばであった。あとで判明したのだが、同じ団地の同じ棟のどこかで光回線に切り替える工事のときに、一時的に通信回路を遮断する必要があって、その都度、既存の回線のモデムが初期化されるのだと思った。いまはそうした切断もない。工事方法が(たぶん)改良されたのだろう。

 そうして昨日(12/12)、切替の工事が行われた。モデムも切り替わる。既存のWIFIもリビングにうつす。まだ二十代の若い工事人が1時間も遅刻してやってきて、果たして時間内に終わるかと心配させた。だが、2時間半かかると聞かされていた工事が1時間余で済んだ。この若い工事人は、終わりに「後で今日の工事のやり方とか工事者の説明や態度についてアンケートがあると思いますが、よろしくお願いします」と(遅刻したことを寛大にみてくれと頼むようなことを)言った。

 電話回線は、NTTが切り替えを承認して「通知」が来てから、もう一度接続工事をする。その間の何日間かはドアホンの電話が使えなくなるという。まあ、もう一つ和室に同回線の電話があるから不都合はない。書斎の電話は、廃棄することにした。

 ちょっと気になったのは、今日の工事で切替が可能になったのに、NTTの承認手続きをして切替工事をするのに2週間もかかるってことだ。どうして? 「わかりませんが……セールスの人に聞いてください」と工事人は我関せず。じつは事前にセールスの人にも訊ねていた。彼は「いつも、だいたいこれくらいかかりますね」と、そんなものですよと応えた。

 通信技術の方は、ADSL以来ずいぶんと変わった。早くなっただけでなく、容量も多くなったし、装置の設置・開設が簡単になった。今回だって、切替工事でモデムが初期化されることはなかったのではなかろうか。だが、デジタル技術をつかうことのできる社会的な切り換えの方は、ずいぶんと遅れている。いやそう言っては、現況を精確に言当てていない。

 デジタル社会の方は、カード決済とかスイカやパスモ、paypayなどと、現金をあつかわない方向へ舵を切っている。ところがお役所仕事の方は、未だそれに対応していないことが、露わになってきている。コロナウィルスに際しても、厚生労働省の地方自治体からの保健情報の集約などが、FAXという文書主義とか「未だ手作業」とからかわれるほどアナログ的であった。NTTもお役所仕事の面影を残しているのであろうか、切り換えを通知したから承認するうまでに、たっぷり時間がかかる。あるいは切り換えに不承不承であることを伝えるために、わざと遅らせているのであろうか。

                                            *

 もう三十年前になるが、私が現場の学校にいた1991年に、学期末の成績を電算処理することを提案したときのことを思い出す。エクセルを使って成績入力してもらうと、各クラスごとの成績一覧表から各個人への成績通知表も出力できるようになる。

 それまでは、各ホームルーム担任が各教科担任からもらうクラス別の「成績単票」を、「成績一覧表」に転記し、出欠席を加えてまずホームルーム別の「成績会議資料」を作成する。成績会議が終わると個人別の「成績通知表」に書き写して、期末ごとに保護者に通知するというものであった。期末の担任教師の忙しさは、ほぼその成績処理で埋め尽くされ、その間授業もあるのでは大変というわけで球技大会などを組み込んで、生徒は生徒で、試験後の解放感とともに行事に熱中していた。

 その成績処理を電算化して、各教科担任が「成績単票」を作成し電算室で成績を入力することで、ホームルーム担任は「成績一覧表」も「成績会議資料」も個別の「成績通知表」も作成する業務から解放された。球技大会などへの関与もできたし、授業を行うこともできた。なにより試験実施から期末までの期間を短縮することができた。

 しかしはじめて教務主任がそれを提起したときは、大騒ぎであった。

「なんだよ。キーボードが扱えないと教師が務まらないのかよ」

 と毒づく教員がいた。

「手書きしてこそ一人一人の生徒の成績の浮き沈みがわかるってもの、こんな成績処理をしていたのでは教師には生徒が見えなくなってしまう」

 と正論を振りかざして抵抗する人もいた。

 まず半数ほどの教師が、キーボードに初めて触る状態であった。教務は、成績入力の部屋に担当者を置いて、入力の仕方を手ほどきする必要があった。それと同時に、「成績単票」の合計が間違っていることもかなりあることが分かってきた。それまでは各教科担任が「単票」に書きこんでホームルーム担任に提出する。ホームルーム担任はそれを「一覧表」に転記して、縦に教科ごと、横に個人別の成績合計を出す。その縦と横の総合計をしてみたとき、ぴっちり合わないと、どこかで記入ミスをしていることがわかる。もう一度、全部の単票と一覧表とを見比べて合計を計算する。ところが、もともと「単票」の合計自体が間違っていたりすることもあり、なんだ、転記ミスじゃなかったのかと教科担任のソコツを発見してクラス担任は苦笑いをする。そんなこともなくなった。

 それから12年ほど同じ現場にいて私は退職したのだが、その間に成績入力に関する手順は行き渡り、常識化していた。18年前のことだ。だからお役所が未だにアナログ時代を過ごしていることに、ちょっとした驚きを覚えた。技術が進んでも、それが社会的に取り入れる手順は遅々として進んでいないことになる。韓国では現金での買い物がほぼなくなっているというのに、驚く。それほどにデジタル化が、社会的手順としても浸透しているのだ。

 この「遅々たる社会的手順」が一概に悪いかどうかはひとまず置いても、お役所仕事が遅々として進まないのに、世の中のデジタル化が必要と力説する人たちが政府を率いているというのは、どこかおかしくないか。つまり政府のリーダーたちは仕事をすすめる「現場」をちっともみていない。机上の空論を振り回して切りまわしているから、上級官僚たちの絵空事がたちどころに「現場」で実施され得ることと勘違いして世の中をみているのだね。

 おもえば、アナログ育ちの私たち後期高齢者が、デジタル社会に適応できなくておいてけぼりになっているのは致し方ないとしても、デジタルを扱う「現場」ではそういう人たちも、それなりに世の中の進み具合に適応できるようにサポート態勢を整えて、社会的に参入できるようにしていかねばならないし、実際そうしている。時間はかかるが、そういう手間暇をかけるごとに、私は手順を覚えていく。それができてこそ、コミュニティが多様性を保ちながら持続するのだといえる。今、その切り替わりの時代。落ちこぼれになりかけた後期高齢者として立ち会っていることを、なんとなくオモシロイと感じている。

2020年12月12日土曜日

リモートのサイエンス・カフェ

 昨日(12/11)、カミサンがリモートの「サイエンス・カフェ」に参加するという。リモートの授業とか会議ってどうやるの? と、遠方に住む息子に訊ねた。すると、電話が来て「パソコン開いて」という。開くとメールが来ている。画面をみながらzoomをやり取りできるようにインストールしろという。少し時間がかかったが、インストールができ、息子と孫娘が画面に登場する。こちらの「参加」を「ON」にすると、自分の顔が画面の一部に表示される。なるほど、これでいいのか。カミサンを呼んで、孫娘とやり取りしながら、「カフェ」に参加したときの「手の挙げ方」「声を出す方法」「画面から顔を隠す方法」を実体験する。こうして準備が整った。

 「サイエンス・カフェ」当日の昼頃に「ご招待」のメールが届く。開始の少し前に「ご招待」のURLをクリックすると、主宰者の姿がモニターに現れる。カミサンのそれは「ON」にしないから、名前だけが表示される。参加者が誰と誰と、名前が表示されている。なかには植物の写真を顔代わりに登場させている方もいる。

 メイン講師が今日のテーマをパワーポイントをつかって40分ほど話す。植物の「レッドデータブック」を軸に据えた「生物の多様性」に関するやりとり。司会役が誘導して質疑がはじまる。あちらこちらの参加者が、環境問題をふくめるその筋の専門家であることがわかる。大阪からも参加している、と発言を聞いているうちに分かる。遠慮がちに進んでいたものが、徐々にほぐれていき、「レッドデータブック」は何の役に立つのか「生物の多様性」はなぜいいことといえるのかという哲学的な問いまで飛び出して、話すすんでいるようだ。

 その間に私は風呂に入ったが、戻ってもまだ質疑がつづいている。結局50分の質疑応答を越えて「退出なさっても結構ですので・・・」という声掛けもあって、一人二人が画面から消えたが、さらに20分ほど超過して終了した。なるほど、面白そうだ。

 若い人たちはこうやってリモートの仕事をしたり、会議をしたり、カフェという名でフリートークをしたりしているのか。これならば、コロナウィルスの心配をしないで、言葉が交わせる。惜しむらくは、参加者が顔を出さない人もいる。当然、声を出さない人もたくさんいて、いかにも日本的な風景だなと私は岡目八目で思っていた。というのも、先日TV番組で、リモート会議に参加者がうんうん頷くだけで発言者の発想も言葉も変わってくると実証実験をしているのを見たばかりだ。遠慮とか気恥ずかしいという日本的な風景がちょっとばかし邪魔をしているといえるし、逆に、立ち位置の違う専門家たちとの段差を気にせずにずぶの素人が話を聴くのには、顔など出さずに、ふ~~んそうかと耳を傾けているのに都合がいい。

 もう十カ月延期しているSeminarも、半年中止になっている「ささらほうさら」も、こうやってパソコンを使えばリモートで行える。ただ、パソコンなんて触ったことないよという人もいる高齢者ばかりのグルーピングだから、ちょっと手を変えなければならないが、不可能ではない。

 考えてみようかと思案している。

2020年12月11日金曜日

アア、メンドクサイ、モウヤメルワ

 皇嗣の長女の結婚がもめ続けている。とうとう宮内庁が口を挟んできた。婚約者の母親が資金援助を得ていたとかそれが借金であったとかいうことがモンダイとしているが、父親である皇嗣自身が記者会見で話したように、「両性の合意のみによって」という憲法の条文を持ち出して結婚を承認するというのであれば、宮内庁が口を挟むことではなかろうと思う。

 いやそれよりも婚約者にしてみれば、アア、メンドクサイナ、モウヤメルワ、と婚約破棄をしてもいいと思うくらい、単純なことがごちゃごちゃと社会問題に仕立て上げられている。私たち庶民からすると、結婚相手の親に何がしかのモンダイがあったとしても(ほじくり返せばモンダイがない方が珍しいのだが)、ま、最終的には本人同士のモンダイだからと棚上げにして、結婚にすすむことができる。勿論先々のことを考えれば、両家の親がそれなりに同意して成立する方がいいだろう。だが、そうとばかりは言えないのが世の常。それに宮内庁が口を挟むというのは、皇室が国民の所有という公のものだからだ。

 だがそう考えてみると、はたして皇室は、私たち庶民にとってどのように存在意義を持っているのであろうか。それを一度きちんと自らに問うてみる必要があるように思った。

 そもそも政治体制として憲法では規定しているけれども、現実の政治過程としては皇室を不可欠のものとして必要としているわけではない。民主主義日本は、皇室なしでもやっていける政治体制をとっている。右派や保守派の人たちにとっては、まさしくニッポンという人々の統合の象徴として欠かせないというであろう。だが私たち庶民からすると、せいぜい日本の文化遺産として存在しているのを(憲法の精神からいうと)許容してるにすぎない。たとえ明治維新期に創造された天皇制国家日本であっても、あるいは南北朝の正統性論争からすると疑念を挟む余地があるとしても、あるいはまた、7世紀末から8世紀初頭にかけて制度化されて語り継がれた記紀神話の伝統を背負っているとしても、連綿たる皇室の伝統というものは「国民統合の象徴」としての希望的存在であった。現実過程として「国民の統合」には様々な利害の対立や考え方の齟齬という困難があり、せめて「相和して」社会をかたちづくっていってほしいという希望を象徴する存在である。右派や保守派の人たちはそれを逆に考えるようにして、天皇制を護ることが国体を護ることと逆立させてしまったのが、戦前の天皇制国家・大日本帝国であった。

 戦後の政治体制が天皇制国家ではなく民主主義国家となっているのであるから、憲法上の制度としては文化的な(国民統合の象徴)遺産として皇室が存在しているとみるのが、まず、妥当なところだ。でも一つの文化遺産として、皇族という人たちの人権を大きく制限するというのは、何か私たち庶民に意味があるのか。

 ひとつ、こうはいえようか。「民主」ということがどういう立場であるかを、現実的に示して見せる反照的存在。彼らの不自由さを目の当たりにして、わが自由を実感する。でもなあ、いまさら彼らがいようといまいと、私たちは人の振り見て我が振り直せって感覚を棄ててしまっている。ヒトはどうあろうと私は私じゃと唯我独尊を誇れるほど、勝手気ままに生きている。むしろ彼らの不自由さを反照として、私たちの自由さが公共性を失っていると実感してもいいくらい。となると、今度の皇嗣の長女の結婚を私たちも見習って、相手の親や家族に一点の瑕疵もないことを確認しないと、結婚なんてしてはならないと生き方を改めるかい? それは無理だろう。となると、文化遺産としての皇族というのは私たちにとってはほぼ無意味である。

 えっ? 「国民統合の象徴」? なるほどニホンコクミンは、いまや勝手気ままのてんでばらばら。せめて天皇を担ぐことによって、ココロを一つにしようと右派民族派の人たちは唱えている。だが見てごらん、世界を。一つにまとまって見える「くに」って、ほぼ独裁的な政治体制をとっている。民主主義国家というのは、ほぼ社会経済的な格差の拡大とかイデオロギー的な分断とか利害得失による分裂をきたして、まとまるということと逆の確執によって不安定さの最中にある。それを考えると、独裁政権でもないのに政治的な大騒ぎをせず、リーダーシップをとる人たちがこれといった指導力を発揮しているわけじゃないのに、さほど文句も言わずに平穏な日々を送っている日本じゃないか。これって皇族がいるからなの? それとも、1200年ほど続いた天皇制神話の「和の精神」のおかげなの? いずれにせよ、すっかり身に沁みこんだ文化的伝統は人々の振る舞いの隅々にまで行きわたっている。もうすでに、皇族が存在するかどうかはカンケイがない。

 でも、皇室の当事者の生き方が、齟齬をきたしている。皇室の人たちには、国民の権利が与えられていない。「両性の合意のみによって」という結婚に関する憲法上の規定を皇嗣が口にするのは、(憲法の国民規定が皇族には適用されないから)したがって、皇族に対しては妥当ではない。にもかかわらず皇嗣が憲法の規定を口にしたのは、皇嗣の長女には普通の庶民と同じように考えてやってほしいという願望が込められている。皇族としての面体を保つために1億何千万円かの「持参金」が税金から支払われるということが(400万円の借金を踏み倒している母親が釈明もしないのでは)軛となって、宮内庁が口を差し挟む余地が生じているのだ。だったら、「持参金なんかいらない」から、勝手にさせてよと言えない社会的存在が皇族である。

 そう考えると、もうそろそろ皇室の人たちを私たち国民が「象徴として担ぐ」ことから解放してやってもいいんじゃないか。天皇制をいきなり全部廃止せよと言っているのではない。もちろん全面的に解放するには廃止するのがいいのだが、男子相続性とか皇族女子のあつかいとか、シチメンドクサイことを棚上げして、「公務」からさえ解放して、成人になった時点から、当人の選択を取り入れてやっても、いいんじゃないか。「公務」など、政治家の然るべき人がこなせば済むことだ。

 天皇制を国体として担ぐ時代は終わった。アア、メンドクサイ、モウヤメルワって、ならないもんかね。

2020年12月10日木曜日

霧氷の絶景、笠取山

 青梅街道の一ノ瀬高橋トンネルを抜けて500mほど行ったところにヘアピンカーブがある。そのカーブを曲がらずまっすぐ行く道が一ノ瀬林道。この林道を9キロほど入ったところに登山口がある。笠取山1953m。この山をプランに組み込んだのは山の会のkwrさん。歩行時間は4時間20分。車でないとアプローチが難しい。登山口と下山口が2キロほど離れているから、車が2台あると好都合だ。山行計画を皆さんにお知らせした。だが、同行できる人がいない。加えてkw夫妻も、毛無山の疲れが取れないというよりも、同行者に迷惑をかけると思ってか、しばらくマイペースの山歩きをするといってきた。つまり、先々週に引き続き私の単独行になった。

 昨日(12/9)朝6時ころに家を出発して青梅街道を走る。一ノ瀬林道の入口の所に「林道が崩落して通行止め」と表示している。やれやれ、先月半ばころの氷室山同様、去年秋の台風19号で林道が崩れていると記し、崩落現場の写真二枚をつけている。いや、これはすごい。道路下の土砂がすっかり崩れ落ちていたり、道そのものがなくなっている。また、足止めかと思った。ならばせめて、一ノ瀬高原キャンプ場だけでも見ておこうと、青梅街道をさらに甲府の方へ進む。落合橋から一ノ瀬高原へ向かうと、「作場平3.5km→」と手書きの表示がある。

 おお、それは笠取山の登山口のあるところ。では、一ノ瀬林道はこの一ノ瀬高原をぐるりと経めぐるように設計されているのか。ならば行けるではないか。車を先へ進める。舗装された林道は荒れてもいない。作場平にはすでに2台の車が止まっていた。大宮ナンバーのジムニーと川崎ナンバーの三菱デリカ。どちらもアウトドア好みの車だ。

 8時45分、歩き始める。下山口からここまでは1・8km40分と表示看板があり、合計5時間歩行のコースになる。カラマツとヒノキの混淆林を落ち葉を踏みしめて上る。道標も踏み跡もしっかりしている。下の方に結構な水量の一ノ瀬川が流れ下っている。20分足らずで一休坂分岐に着く。コースタイムでは40分とあるのに、どうしたことだ? 急ぎ過ぎているとはおもえないのに。分岐の表示板には「一休坂(急登)」とある。だがどこに急登が? と思うような、緩やかな上り。広いルートの斜面側には丸太の土留めが設えられていて、まるで森林公園の散歩道という感じだ。ただ、案内表示には「水干(みずひ)3・6km→」とはあるが、笠取山とは書いていない。変なの。何だこの一ノ瀬高原は、笠取山よりも水干がウリなのか。登山路の落ち葉はしっとりと湿っている。昨日か今朝にも雨が落ちたのか。上へ上がるにつれて落ち葉に残り雪が混じる。ミズナラやブナ、リョウブ、ナツツバキ、コシアブラの林になる。「クマがいます」と書いてあったのを思い出して、ザックから鈴をとりだしてぶらさげる。

 笠取小屋1780mの前の庭は、うっすらと雪が覆っていた。コロナのため年末の営業は29日までと掲示してある。遭難に備え、縦走者は登山届を出せとも書いてある。登山口からほぼ1時間10分。コースタイムだと2時間10分なのに、何だか狐につままれたみたい。ここにきてやっと、笠取山の名が出てきた。小屋裏のキャンプ場で一組のアラフィフペアがザックを降ろしている。私に先行した一組だ。ジムニーだろうか。訊ねると中島川口へ縦走するのではなく、笠取山から水干を回って作場平へ下るという。私が先行する。

 10分ほどで雁坂峠分岐1832mに着く。先行していたアラカンの男性と若い女性二人の3人組。たぶんこの人たちが三菱デリカと思う。「小さな分水嶺」と記した看板がある。ここに降った雨は、北側は荒川へ流れ、南側は多摩川へ下り、西側は甲府を経て富士川となると記す。「水干って何?」とアラカンに聞く。水干というのは多摩川の源流なのだそうだ。笠取山よりも、水干をみるために上ってくる人が多いという。なるほど「水干」というのは、水が干上がるところ、逆に多摩川からみると水がしたたり落ちるところ、という意味か。

 追い越そうかと思ったが、私はマスクをザックに入れたままだ。この3人組もマスクをしていない。しばらく距離を置いて後をついて歩いたが、どうぞ先へと道を譲ってくれる。分水嶺の小高い丘を越えると少し下り、林が途切れたところの正面に笠取山が見える。思わず、おおっ、と声を上げた。標高差にするとわずか110m余だが、グググッとそそり立つ急勾配。その山体の真ん中を貫くように人の踏み跡が直登する。その両脇に、真っ白に枝を飾る霧氷をつけた樹木が山体を覆う。カメラを構えていると、先ほどのアラカンが後ろで「ここが笠取山の撮影スポット」と連れに声をかけている。いや、絶景ですよと後ろへ言葉を返す。右へ「水干→」の表示柱がある。正面の笠取山へ踏み出す。

 急勾配を上りながら振り返ると、いま歩いてきた分水嶺からのルートが一望できる。そちらも霧氷に覆われているかのように、霞んでみえる。3人組のあとに、小屋で出逢った2人組も登ろうとしている。

 15分ほどで山頂に着く。広くない。岩が重なる中央に山名表示の木柱が立つ。周りの木々は霧氷で真っ白だ。10時35分。1時間50分で到着した。コースタイムは3時間15分。山頂でお昼かなと考えていたが、そんな時刻ではない。それに強い風が吹いて寒い。ザックから羽毛服を出して羽織る。山頂の先は細い岩の稜線。雪がついている。10分ほどゆくと、また「笠取山」と記した環境庁の木柱がある。さらに三角点が置かれているのも、ここだ。何だろう先ほどの山頂はと思う。

 岩を越えて雪のついた下りになる。「←水干・笠取山→」のプラスティックの標識が壊れて木の幹に挟まれている。大岩の傍らに「秩父山地緑の回廊」と林野庁の看板が掛けられ動物保護を呼び掛けている。そうか、ここは山梨県とは言え、秩父山地の一角なのだと思い直す。15分ほど下ると、「←水干・笠取小屋」への案内がある。下山路はそれとは別の方向になる。水干までは6分ほど。行ってこよう。

 さほどの上り下りすることなく水干に着く。「多摩川の源頭・東京まで138km」と記してある木柱は、東京都水道局の制作したもの。60mほど下に湧き水があり、それが一ノ瀬川→丹波川→奥多摩湖を経て多摩川になるというわけだ。ここは山梨県甲州市なのに、まるで東京都の山のように「多摩の水」と呼んでさえしている。水源涵養林として東京都が植林などをしているのであろう。笠取山の南側の標高百メートルほど下にある。それなのに「山梨百名山」も、「日本三百名山」も東京都水道局・「水干・源流の道」に乗っ取られてしまったようだ。

 分岐に戻り、中島川口へシラビソの尾根を降る。振り返ると木々の間から笠取山が霧氷にけぶるように立つのが見える。この先になると、もうこの姿は観られない。山頂から標高で200mほど下って笠取小屋への分岐に来た。11時31分。ここでお昼にした。標高が下がったのと少し陽ざしが出て南向き、着こんでいた羽毛服を脱ぐ。思えば、青梅街道を挟んで南側には黒川鶏冠山とか大菩薩峠がある。西には三つほどの雁ヶ腹摺山などが連なる。奥深い、文字通り秩父山地。一ノ瀬高原自体が、ひっそりと影を潜めているようにみえる。

 15分ほどで再び下山にかかる。シラビソ尾根につづく黒槐(くろえんじゅ)の尾根。どちらも、大きくジグザグを切っていて、下山路としてはまことに歩きやすい。ついつい駆け足になるほど傾斜と言い、広さと言い、危なっかしさがない。角を曲がるところだけ用心してスピードを殺す。両側に生い茂るクマザサに陽ざしが当たってキラキラと輝く。トレイルランナーの気分もこうなのかなと思うほどであった。昼食場所から1時間40分のコースタイムを1時間で下ってしまった。中島川口からは舗装の一ノ瀬林道。1・8kmを時速6kmで歩いて、駐車場に着いた。13時6分。行動時間は4時間20分。なんでこんなに調子がいいんだろう。二週間ぶりの山に身体が喜んでいるみたいだった。

2020年12月8日火曜日

訣れ

 先月から「喪中はがき」が届き始めた。嫁ぎ先の祖母・大姑の死、親の死、兄弟姉妹の死、連れ合いの死という若い知人や同世代の友人の訃報に混じって、旧友や知人本人の死の知らせが(親族から)届く。ほとんどが「コロナウィルス禍」をほのめかして、家族だけで葬儀を執り行ったと言葉を添えている。

 なかには、年賀の交換をする以上の付き合いというか、メールでやりとりしていた方の訃報を、年賀のやりとりをしていた友人への「喪中はがき」によって知るという回り道もあった。そうだよなあ、本人との付き合いであって家族ぐるみじゃないから、そういうこともあるよなあと彼や彼女との向き合い方を感じさせる。

 寒中見舞いにことよせて年明けにお悔やみを送るまでの間、喪中の人たちの心裡を想い起すたびに、私は「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と兄・宮沢賢治に願う病床のいもうと・とし子の言葉を思い起す。賢治はそれを、兄へのいたわりの言葉として聴き取っていたのではなかったか。

 旅の宿で傍らに寝ていた兄が身罷るほんの直前まで言葉を交わしていた私は、「喉が渇く」といった兄にお湯を用意したら「水の方がいい」というのが「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)と同じ意味合いだとは、そのとき思いもよらなかった。発熱していたとは思わなかったのだ。くしくも岩手・八幡平の宿であった。

 救急車を呼ぶのも「朝になってからでいいよ」と兄は言っていた。とし子のように、「Ora Orade Shitori egumo」とは言わなかった。兄自身、まさか死に直面しているとは思いもしなかったであろう。救急車で運び込まれた病院で急性心臓死と診断を受けた。

 喜寿とはいえ、日ごろテニスに興じ、山歩きに関心を示して槍ヶ岳にも登り、秋田駒ヶ岳と八幡平を経めぐっている途次。健康には人一倍気を使っていた。ジャーナリズム世界でもそれなりの位置を占めて最新刊書を出したばかり。それもあってか私は、兄が「ちょっと散歩に行ってくるよ」と出ていったきりという風に感じられ、亡くなったと思えなかった。

 そうであったから、とし子のように「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」という口ぶりとは無縁の時代であった。でも私にとっては「永訣の朝」。賢治がいもうと・とし子に寄せる思いが(兄・自分への)「いたわり」に響くように、喪中の方々の心裡にも響き届くことを祈らずにはいられない。

2020年12月7日月曜日

ヒトとカネを動かすのが権力

  いま(12/7)TV番組で、コロナウィルスの感染広がりにともなう医療体制の危機的状況が逼迫していると、大阪の場合をあげてやりとりしている。気になったのは、コメンテータとして出演している元大阪市長・橋下徹の発言。

 看護師を増やせないのかという芸人コメンテータの発言に対して、少子化の将来を見越して全国的には医師や看護師の養成数を減らしている厚労省の政策を説明したのちに、「看護師などの過剰地域から不足地域へ強制的にでも異動させられるのが権力ですよ。それができるのは政府しかないんだから」と発言していて、なるほど妥当な意見にみえるが、それを実行に移すにはずいぶんとクリアしなければならない前提が必要で、今ここでの提言になっていないと感じた。

「強制的に異動」という言葉の響きが(平穏な日常性にどっぷりと浸ってきた社会には)強烈に過ぎるほど、庶民感覚と開きがある。もちろん緊急事態という、状況全体の特異性が(橋下徹の)頭にあるのはわかる。だとすると、むしろ、自衛隊の医療チームを投入するとという「緊急対応」を提案した方が、はるかにリアリティがある。

 それと同じことなのだが、医療が逼迫して、医療従事者の勤務が過労気味になっているにもかかわらず、コロナ関連医療機関の看護師が辞めていっているとか、一般医療機関からコロナ対応医療機関へ移ろうとしないとか、逼迫した医療従事をしている現場でも、手当てが追いつかず、寧ろ給料が下がっている事態があると、番組はニュースを挟みこむ。それに対して厚生労働省は何兆円かの手当てを施して地方行政機関に遣うように指示しているのに、各都道府県は2月県議会を経なければ使えないとコンプライアンスの壁があると、橋本徹は融通の利かない法適用の現場を抉り取る。なるほど、それもそうだよなあと思いはするが、でも「緊急事態」なんだから、臨時議会を招集すればいいではないかと思う。なんだか地方の首長の方も、臨機応変の対応をするのにへっぴり腰ではないか。

 橋下徹は「ヒトとカネを動かすのが権力なんですから」と、政府や地方首長への哲学的示唆でまとめていったのだが、そのときひとつ、私が「気になってわだかまっていること」に気づいた。

 橋下徹の提言が、原理的に言えばそうだよなあと思う。他方で、でもなあと、何か引っかかるのは単なる原理的な物言いと庶民の日常感覚のズレ。このズレの根底には何があるんだろう。そう考えてみると、日ごろ、医師や看護師の養成とか医療体制の整備というときの厚労省のスタンスは、ヒトとカネと箱モノの配置ばかりである。しかもその根底にはコストパフォーマンスという経済合理主義ばかりが優先して、何のための医療体制なのか、百年先の将来を見通した社会医療を展望する、社会イメージを含む「人間要素」が欠落している。つまりふだん経済合理主義だけで仕切っておいて、「緊急事態」だからという「お上の印籠」かざして「ヒトとカネの移動を差配するのが権力」といわれても、ははあそうですねと畏まる庶民は、たとえ医者や看護師だってそうはいない。

 たぶんこれは、法的言語に浸って論議をする人たちの弱点なのだろうと思う。例えば日本の防衛モンダイに際しても、「身を捨つるほどの祖国はありや」と思わせるような「くに」では、せいぜいが、おカネは出すからよろしくねと、自衛隊という傭兵にお任せして知らぬ顔をするのが関の山ではないか。つまり、誇らしくもわが家族、わが身同様に守り抜きたいと思うほどの「くにづくり」をすることから説き始める防衛論議でないと、単なる防衛イデオロギーのやりとりしか、残されない。

 コロナウィルスという「国防」のモンダイを考える際にも、「人間要素」を算入する「くにの防衛」として、根底から貫き通す現実的提言が迫られている。それが、政治を志している人の真摯な態度だと思った。

2020年12月6日日曜日

そこから先が出てこなかった

 中村文則『逃亡者』(幻冬舎、2020年)を読む。おっ、これは香港のことを書いたものかと、急ぎ奥付をみた。初版は4月15日。香港の国家安全維持法が可決されたのが6/30だから、直にそれに対応したものではない。

 正体不明の人物が登場する。神出鬼没、なぜか「わたし」のやることなすこと考えることを子細に承知している。しかも、三択の生き方を「選べ」と突き付ける。それはいずれも屈辱にまみれるしかない死への道だ。まるでカフカの『城』の門番が、人の生き方にまでこだわって迫ってくるようなのだ。

 読みすすむにつれて、在日外国人のモンダイであり、日本の海外侵略戦争のモンダイであり、従軍慰安婦のモンダイであり、ベトナム戦争のモンダイであり、日本国内の対外関係のモンダイであり、もっと卑近に、ヘイトスピーチや国民の分断のモンダイであり、いやじつは人が生きるというモンダイであり、その生きる場である国家社会のモンダイであり、そもそも人類史の背負っているモンダイであると、思いが広がっていく。正体不明の人物の外に、謎の宗教団体やファナティックな政治集団に属すると思われる人物も消えては現れ、「わたし」とかかわりのある言葉を放ち、でも逃げ場のない圧迫感だけは間違いなく増してくる。

 なぜ「逃亡者」なのか、なにから「逃げている」のか。不明な正体がコレと特定できるように姿を現さないから、まるで自問自答する「わたし」からさえ、「逃げ出そう」としているように感じられる。

 ふと思い出したのは、2020/9/28のこの欄《言語の「原的否定性」と社会関係への参入》でもとりあげた「原的否定性」ということば。


《ダメなものはダメという(理屈抜きの)「原的否定性」を受け容れることが、社会関係に参入する「原的肯定性」に転化していく筋道を開くパラドクス。》


 生きるという現実存在そのものが、「原的否定性」を受け容れ(社会関係に参入す)ることからはじまる。それに気づくというのは、正体不明の「かんけい」の網の目にからめとられていることを感知することであり、そこから「逃亡しようとする」ことは自由を求めることを意味する。その「自由」は「原的否定性」を受け容れることからしか始まらないし、その「原的否定性」が屈辱にまみれるしかない死への道だとしたら、はたして「逃亡者」である「わたし」は、狂うしか道がないのかもしれない。そう示唆する記述にあふれる。予言的な香港のモンダイでもあった。

 そのような「物語」を書き残して著者は消える。それを本にするための帯文を引き受けた作家の言葉が掉尾を飾る。いや、掉尾とか飾るという言葉の響きは、まったく似つかわしくない。でも、この重い響きは、「掉尾を飾るように」置かれている。


《"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは”そこまで書き、ペンが止まった。〝希望”と書き、斜線で消した。/"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは……”僕はもう一度書く。でも再びペンが止まった。そこから先が、出てこなかった。》


 この末尾に登場する作家というのは、本書の読者である「わたし/あなた」だ。著者・中村文則があなたなら「そこから先」をどう続けますかと、問うている。これこそが「生苦」と受け止めはしたものの、では、どう続けるか。

 う~んと唸っているとき、傍らのTVに、香港メディアの主宰者が逮捕拘留される前の日本メディアによるインタビューが放映されていた(12/6)。「こういう取材に応じているということがさらに問題になりませんか」と気遣って問うインタビュアーに、かのメディア主宰者は(他の国の方々には)「祈ってください」と願う言葉であった。

 そうだ。「そこから先」へ言葉を継ぐとしたら「祈る」ことしかないか、と。

2020年12月5日土曜日

目に見えないウィルスを相手にして安心する方法

 昨日(12/4)の朝日新聞「パンクしない保健所」は、墨田区保健所長へのインタビュー記事。コロナウィルスと共生する基本を示して明快である。

 これまでは、感染源(クラスター)をひとつひとつを明らかにし、そこを封鎖してウィルスをつぶしていくという方法であった。カラオケだ、キャバクラだ、夜の町だ、集団会食だと犯人探しをしていく。だが、陽性者が素直に聴取に応じないとかウソをつくとかして、感染経路不明が多くを占める。クラスターの具体的な公表もしない。そのうちどんどん広がってしまった。メディアの報道に頼るしかない私たち庶民は、若い人たちには無症状者が多いこともあって、何処にウィルスが広がっているのかわからない状況に置かれる。結局、高齢者と持病持ちは出歩かないようにするといった自衛策しかないと肝に銘じるのが関の山だ。政府も、それしか手がないような口ぶりである。

 他方で、経済活動を止めないために、go-toトラベルなどのキャンペーンが張られる。それらはどう考えても、暮らしの基本をさておいて、お金の散財をすすめ、金銭勘定できる社会活動の一部しか視野に入れていない。あとは自己防衛という放置状態。行政なんてどこにもないとみえる。

 ところが墨田区保健所長は、感染源がどこかを探るよりも、広く一斉のPCR検査をして早い段階で感染者を割り出し、(無症状者の)自宅療養などを含めて隔離し、集団感染の拡大を防ぐことを提案している。提案しているというよりも、墨田区ではその方法をとっているというのだ。

 記事のインタビュアーは、そんなことは(1)検査数が多くてむりではないか、(2)感染者が増えて保健所が対応できないのではないか、(3)患者が急増して医療崩壊になるのではないかと疑問をぶつける。

 それに対して次のように答えている。

(1)’抗原検査も含めて「ちょっとのどが痛い」程度で検査を受けている。無症状の陽性者も見つかるので、知らない間に感染が広がったり重症化したりすることを防げる。

(2)’保健所以外の発熱外来の医療機関を公表し、早期受信を可能にして保健所へ集中するのを拡散している。つまり保健所と医療機関が役割の棲み分けをする。

(3)’陽性者を掘り起こすことになるが、早い段階での隔離で対応できるから、自宅療養をふくめると医療機関の負担は限られる。

 クラスターを調査するときに「(自分の行動経路を)覚えていない」人がいるのもよくあることとみているとか、感染者が出た施設名も公表し、区民が危機意識をもてるようにするといった、人間への見立てがふくらみを持っている。

 また、保健所が地域医療のセンター的な役割をすると位置づけがはっきりしている。保健所は情報分析と物資の調達に関して地域医療機関に資すると、私たちにとっては雲がとれたように明快である。

 インタビュアーは、墨田区保健所長の取り組みは政府や都の施策への批判につながると言わせたいようであるが、保健所長はやんわりと、第一波、第二波と第三波の違いを取り上げていなしている。この応対が好ましいのは、施策の批判をしても何の役にも立たないという現場下士官の矜持が感じられるからだ。

 世界はワクチンがいよいよ接種されると期待をつないでいるが、半年先のそれよりも、まず、いまの自衛策をどうつづけるかに役立つ対応を行政が行ってくれることだ。それは、墨田区保健所の対応が明快に感じられることと重なる。

(a)「ちょっとしたのどの痛み」程度でPSR検査をしてくれること、

(b)陽性者が出たらともかくその(学校でも会社でも施設でも)集団で一斉にPCR検査を行って感染者の早期発見につなげること、

(c)なんでもかでも保健所へというのではなく、発熱外来の医療機関を公表して、何処へ行けば診てもらえるかわかること、

(d)感染していれば(症状に応じて)隔離するにしても、どこでどうするかがわかること、

(e)状況を公表することで何に用心したらいいかわかること、

(f)何よりも、人は(記憶も対応も)いい加減であると前提して施策を立てていること。

 これらが、ちゃらんぽらんな人間にとっては、安心の基盤になる。しかも都市封鎖のような形で、経済活動を止めることもない。半年それを持ち応えればワクチンも使えるようになってwith-コロナの社会生活がはじまるということが実感として感じられる。中央政府や地方政府がこのようなスタンスをもってコロナウィルスに向かってくれればいいと願わないではいられない。

 現場下士官に、このような視線が保たれていることは、まだ日本の社会は捨てたもんじゃないと思えるから、うれしいね。

2020年12月4日金曜日

「ええじゃないか路線」の「お伊勢まいり」

 お伊勢参りに行ってきました。3年前に現地に詳しい方がコーディネートしてくれて、旧知のSeminar関係の人たち15人ほどでお参りしたことがありました。そのときは、自動詞アマ・テルが他動詞アマ・テラスになったいきさつなどと言葉が飛び交い、ま、いうならば、ご神体の由来がもっぱらでありましたから、瀧原宮とか瀧原竝宮にまず参り、「あらみたま」の原義を聞きながら、彼岸から此岸を見る感覚を感じとってから、外宮、内宮と足を運んで、神楽と御饌の儀式を観、祝詞を上げ、拝礼の儀式まで執り行うということまでしたのでした。いうならば、祭神と祭主の側を見極めてこようという参内だったわけです。もちろん詳しい「神宮案内人」が、ずうっとついてくれました。

 一度は私も行きたいと言っていたカミサンの申し込んだツアーの「お伊勢参り」が今回。前回と異なり、二見ヶ浦の「浜参宮」と呼ばれる「みそぎ」から入り、倭姫宮、猿田彦神社と神宮誕生の「物語」の順序にしたがって、外宮、内宮へと近寄っていきました。外宮と内宮は、「お伊勢さん観光案内人」がついて一つひとつ説明を加えながら廻り、最後は朝熊岳の金剛證寺へ行って、(神仏習合の象徴のような)「片まいり」にならぬようきっちりと締める展開。つまり今回は、江戸時代からの参詣の順序を踏んだ、いわゆる「お伊勢まいり」の「ええじゃないか路線」というわけです。

 3日間とも天気は良く、「観光案内人」がまた、押しつけがましくなく、「いや私もわからなくて・・・」と神官に聞いた話、教えてくれないところを取り混ぜて「お伊勢さん」の「神々の世界」の懐の深さを暗示する語り口は、なかなか味のあるものでした。他方、ツアー・ガイド添乗員の「案内」が、まだ勉強中の気配を漂わせ、控えめに、でも要点は言っておかねばと思い出し思い出しして伝える気配も奥ゆかしい。バスは二座席に一人。全部で17人というこじんまりした行動単位。外宮・内宮の案内は12人にする配慮。自由時間が多く、でも、皆さん時間厳守の振る舞いをして、スケジュールも少し早め早めにすすんで、心地よく過ごすことができました。

 最初のときは、こちらがSeminar事務局ということもあって、半分「お伊勢参り」の主宰側でしたが、今回はツアーに乗って全部お任せのお気楽旅。暢気なものでしたが、コロナウィルスのせいでgo-toトラベルが重なり、なんとも落ち着かない心もちになってしまいました。

                                            *

 モンダイは、go-toトラベルの「地域共通クーポン」。旅のはじまりのときに手渡され、旅の期間通に指定地域で使い切らなければならないという(指定地域指定店限定の現金同様の)「クーポン」。費用の1/4ほどですから、1万円を軽く超えます。ふだん山へ行ったりするときは、お金を使うところがありません。鳥観のツアーに行くときにも、食費を含む経費はすべて払い込んでいますから、お金をつかうのは、せいぜい「お土産」だけ。旅行総額の1/4もの多額をつかうことは、どうあってもありません。そこへもってきて、もともと育ちが戦後の貧窮時代ときていますから、お金はもちろん、物を粗末にすることもできない。清貧と言えば聞こえはいいでしょうが、ケチと言えばケチ、お金の使い方を知らないといえば知らないのです。

 土産物屋へ入っても、これまではどんな土地のものを売っているか、何処から来たどんな客が入っているか、店は古いままか新基軸を取り入れて回転しているかとみているのが面白く、品物を買うつもりでみることなど、ほとんどありません。

 そこへ「使い切りなさい」と手渡された大金。がらりと視線が違ってきました。買うかどうかと商品をみると、自分の内心の欲望との相談になります。すると、ざわざわと内心が騒ぎ始めます。うまいかどうか、欲しいか欲しくないか、土産にすると、嬉しいと思うかそんなものは要らないと思うかどうかと、自分の内心に問い、ひとの顔を想いうかべ、なんだかニンゲンとしての自分の内側が商品棚に陳列されているかのように恥ずかしく、且つ、それを剥き出しにしないと決断できないという状態に引きずり込まれるのです。なんだか裸で歩いているような気分になっていました。

 ほかの方々をみていると、そんな煩わしい思いをきっぱりと断ち切ってか、さかさかと買い物をし、いくつも手提げの紙袋を下げてバスに戻ってきます。いやはや見事と言わねばなりません。結局、停まっていたホテルの土産物売り場で、遠方に住む兄弟に品物を送ることを思いつき、適当にまとめて、箱代と送料ともに、端数を足してクーポンで支払う。これで大部分を始末して、気持ちが落ち着いたというわけです。受け取った兄弟の方は、これまでお歳暮のやりとりもしたことがないのに、なんだこれはと、きっと訝るに違いありません。そもそも、「お伊勢参り」をしたと知らせることも、憚るくらいです。何かの悪い知らせと思わねばいいのですが、ね。

2020年12月1日火曜日

人手を経た物語と虚飾の重さ

 カミサンがTVドラマ「赤毛のアン」を観て、昔読んだ本とずいぶんと違うと感想を漏らす。小学校か中学校の図書室に置いてあった本は、毛色が違ったために差別的扱いを受けるが、生長するにつれ、毛色の違う特質が周囲に受け容れられ、立派な大人になるというもの。私も小学生の時に「小公子」「小公女」「母を訪ねて三千里」などと並んで(女の子の好む話と思って)読んだ記憶が残っていて、ぼんやりと見当は付く。

 TVドラマは、しかし、かなりリアリティに富んでいて、イギリスの信仰や階級制や中流階級の人たちの労働者階級への偏見や差別的視線がぶつかり合って変っていく姿が、時代の変容と重ねて如実に描かれていたらしい。そういわれて思い出すのは、子どもの頃に読んだ本の大半は、リライトされたものであった。シェイクスピアやガリバー旅行記、ドン・キホーテなどもすっかり読んだ気分になっていたのに、大人になって目を通してみると、まるで別の物語と思えるほど、ずいぶんと奥行きも深く、考えることの多い物語だと気づく。今で言えば、マンガになった「名作」「古典」を読んだようなものであったろう。リライトされたものも、マンガになったものも、作品としては別物と今はみている。その視線は、語られるお話しが語り手によって違ってくるものだと知って後の感懐である。

 それはちょうど、自身の精神的成長に合わせて、物語り世界がどんどん奥行きを深めていったとさえ感じることである。例えば源氏物語が、これまで何人もの人たちによって現代語訳されたりもしてきた。私が高校生のとき文芸部がそれに取り組み、生徒たちの源氏物語の現代語訳が学校の文芸誌に掲載されていたことがあった。私たち自身も、古典の授業で原文を読んでいたせいもあるが、当時親しかった同級生の現代語訳が見事で、「須磨の海岸」の情景を想いうかべて深く感嘆した覚えがあった。なぜそんなことを憶えているか。その同級生が意外にも法学部に進学し、あろうことか卒業後に弁護士になってしまい、「がっかりした」と手紙を書き送ったりしたからである。こうしたことも、別様にみれば私の感懐の押し付けであって、勝手にがっかりされた方にとってははた迷惑であったに違いない。

 だが思うに、伝えられているありとあらゆるコトゴトが、いわば人手を経たものであり、物語りや情報と限定してみても、経てきた手数の分だけ、付け加わったり省略されたり本筋からはずれたり岡目八目で、逸れていった方が面白くなっていたりして、要するに、経てきた人手の数だけ、累積した感懐がこもっているといえる。かつての物語は、源氏物語にせよ、読むとは筆写することであり、文体とは文字の筆跡も加わって、変容を遂げてきているとみることができる。いつかも記したが、詠み人知らずの防人の歌なども、人の口ずさむ口辺を経て伝えられてきたことによって、手を施され、あるいは洗練され、あるいは時代的変容を施されて受け継がれた「名作」であったといえる。

 ところが文字にとどめられ、さらに木版、ガリ刷り、活版と印刷術が広まって後の現代となると、一冊の著書が何百冊、何千冊となって広がっていく。さらにそれが音波となり、電波を通じて画像として、さらにITを媒介として情報機器類の飛躍的発展もあって、コピーそのものが人手の加工を経ることなく伝えられてくる。言葉そのものには加工が施されず、直に飛び込んでくる。そのとき、かつては誤字脱字や表現が手直しされ、人手を経るごとに(おおむね)校正が行われるように衆目を得て出来上がって来た「作品」が、いまは最初の提示のままに、ポンと投げ出される。なるほど、雑だなという印象はそこから生まれるのか。しかも今のネットはSNSにせよチャットにせよ、誰でもどこからでも言葉の投げ込み放題。つまりかつては面と向かった「おしゃべり」によって伝わり、取捨選択されていたものが、今は電波を通じて生のまま世界中に拡散することになった。人の手を経ることなく、荒削りの、ときには書いた人の剥き出しの気分が、そのままに表現として提出されてきて、それはまるで他人の秘所を見せつけられたような気分の悪さをもたらしたりする。そういう意味で、人手を経ない物語はナイーブで、お粗末でもある。そういう時代の波に、私たちはいま呑み込まれて漂っている。

 電波に乗る「おしゃべり」においては、ただの市井の人も、一国の大統領も同じである。ところがその放たれた波が、世界最強を誇って来た一国の大統領とあっては、ざわざわと波紋が世界中に広まり、ときには名指されたテロリストが大っぴらに殺害され、それを知って歓喜の声が上がる。つまり、人の手を経ることによって洗練された来た文化が、より原初の形にとどめられて現れる。ナイーブでお粗末な振る舞いが世界政治を席巻してきた。突出する言葉は鋭く尖り、多くの人を支えられず、且つ触れると深く傷つく。身を護るにも鋭くとがらせた針をもつ。世界をヤマアラシのように変えていくようだ。

 東アジアの片隅に身を置く私にとってこのヤマアラシは、情報民主主義のもたらした人類のささくれ立ちにみえる。もう少し人手を経て練り上げる物語と言葉とを、文化遺産として受け継いではいけないかと思いながら、しかしそれが体現してきた虚飾の重さにも、辟易している。虚飾をはぎ取るには、いま少し内省的な視線を多数の人の目に曝して、練り上げる作法が必要なのではないか。