2020年12月1日火曜日

人手を経た物語と虚飾の重さ

 カミサンがTVドラマ「赤毛のアン」を観て、昔読んだ本とずいぶんと違うと感想を漏らす。小学校か中学校の図書室に置いてあった本は、毛色が違ったために差別的扱いを受けるが、生長するにつれ、毛色の違う特質が周囲に受け容れられ、立派な大人になるというもの。私も小学生の時に「小公子」「小公女」「母を訪ねて三千里」などと並んで(女の子の好む話と思って)読んだ記憶が残っていて、ぼんやりと見当は付く。

 TVドラマは、しかし、かなりリアリティに富んでいて、イギリスの信仰や階級制や中流階級の人たちの労働者階級への偏見や差別的視線がぶつかり合って変っていく姿が、時代の変容と重ねて如実に描かれていたらしい。そういわれて思い出すのは、子どもの頃に読んだ本の大半は、リライトされたものであった。シェイクスピアやガリバー旅行記、ドン・キホーテなどもすっかり読んだ気分になっていたのに、大人になって目を通してみると、まるで別の物語と思えるほど、ずいぶんと奥行きも深く、考えることの多い物語だと気づく。今で言えば、マンガになった「名作」「古典」を読んだようなものであったろう。リライトされたものも、マンガになったものも、作品としては別物と今はみている。その視線は、語られるお話しが語り手によって違ってくるものだと知って後の感懐である。

 それはちょうど、自身の精神的成長に合わせて、物語り世界がどんどん奥行きを深めていったとさえ感じることである。例えば源氏物語が、これまで何人もの人たちによって現代語訳されたりもしてきた。私が高校生のとき文芸部がそれに取り組み、生徒たちの源氏物語の現代語訳が学校の文芸誌に掲載されていたことがあった。私たち自身も、古典の授業で原文を読んでいたせいもあるが、当時親しかった同級生の現代語訳が見事で、「須磨の海岸」の情景を想いうかべて深く感嘆した覚えがあった。なぜそんなことを憶えているか。その同級生が意外にも法学部に進学し、あろうことか卒業後に弁護士になってしまい、「がっかりした」と手紙を書き送ったりしたからである。こうしたことも、別様にみれば私の感懐の押し付けであって、勝手にがっかりされた方にとってははた迷惑であったに違いない。

 だが思うに、伝えられているありとあらゆるコトゴトが、いわば人手を経たものであり、物語りや情報と限定してみても、経てきた手数の分だけ、付け加わったり省略されたり本筋からはずれたり岡目八目で、逸れていった方が面白くなっていたりして、要するに、経てきた人手の数だけ、累積した感懐がこもっているといえる。かつての物語は、源氏物語にせよ、読むとは筆写することであり、文体とは文字の筆跡も加わって、変容を遂げてきているとみることができる。いつかも記したが、詠み人知らずの防人の歌なども、人の口ずさむ口辺を経て伝えられてきたことによって、手を施され、あるいは洗練され、あるいは時代的変容を施されて受け継がれた「名作」であったといえる。

 ところが文字にとどめられ、さらに木版、ガリ刷り、活版と印刷術が広まって後の現代となると、一冊の著書が何百冊、何千冊となって広がっていく。さらにそれが音波となり、電波を通じて画像として、さらにITを媒介として情報機器類の飛躍的発展もあって、コピーそのものが人手の加工を経ることなく伝えられてくる。言葉そのものには加工が施されず、直に飛び込んでくる。そのとき、かつては誤字脱字や表現が手直しされ、人手を経るごとに(おおむね)校正が行われるように衆目を得て出来上がって来た「作品」が、いまは最初の提示のままに、ポンと投げ出される。なるほど、雑だなという印象はそこから生まれるのか。しかも今のネットはSNSにせよチャットにせよ、誰でもどこからでも言葉の投げ込み放題。つまりかつては面と向かった「おしゃべり」によって伝わり、取捨選択されていたものが、今は電波を通じて生のまま世界中に拡散することになった。人の手を経ることなく、荒削りの、ときには書いた人の剥き出しの気分が、そのままに表現として提出されてきて、それはまるで他人の秘所を見せつけられたような気分の悪さをもたらしたりする。そういう意味で、人手を経ない物語はナイーブで、お粗末でもある。そういう時代の波に、私たちはいま呑み込まれて漂っている。

 電波に乗る「おしゃべり」においては、ただの市井の人も、一国の大統領も同じである。ところがその放たれた波が、世界最強を誇って来た一国の大統領とあっては、ざわざわと波紋が世界中に広まり、ときには名指されたテロリストが大っぴらに殺害され、それを知って歓喜の声が上がる。つまり、人の手を経ることによって洗練された来た文化が、より原初の形にとどめられて現れる。ナイーブでお粗末な振る舞いが世界政治を席巻してきた。突出する言葉は鋭く尖り、多くの人を支えられず、且つ触れると深く傷つく。身を護るにも鋭くとがらせた針をもつ。世界をヤマアラシのように変えていくようだ。

 東アジアの片隅に身を置く私にとってこのヤマアラシは、情報民主主義のもたらした人類のささくれ立ちにみえる。もう少し人手を経て練り上げる物語と言葉とを、文化遺産として受け継いではいけないかと思いながら、しかしそれが体現してきた虚飾の重さにも、辟易している。虚飾をはぎ取るには、いま少し内省的な視線を多数の人の目に曝して、練り上げる作法が必要なのではないか。

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