2020年12月6日日曜日

そこから先が出てこなかった

 中村文則『逃亡者』(幻冬舎、2020年)を読む。おっ、これは香港のことを書いたものかと、急ぎ奥付をみた。初版は4月15日。香港の国家安全維持法が可決されたのが6/30だから、直にそれに対応したものではない。

 正体不明の人物が登場する。神出鬼没、なぜか「わたし」のやることなすこと考えることを子細に承知している。しかも、三択の生き方を「選べ」と突き付ける。それはいずれも屈辱にまみれるしかない死への道だ。まるでカフカの『城』の門番が、人の生き方にまでこだわって迫ってくるようなのだ。

 読みすすむにつれて、在日外国人のモンダイであり、日本の海外侵略戦争のモンダイであり、従軍慰安婦のモンダイであり、ベトナム戦争のモンダイであり、日本国内の対外関係のモンダイであり、もっと卑近に、ヘイトスピーチや国民の分断のモンダイであり、いやじつは人が生きるというモンダイであり、その生きる場である国家社会のモンダイであり、そもそも人類史の背負っているモンダイであると、思いが広がっていく。正体不明の人物の外に、謎の宗教団体やファナティックな政治集団に属すると思われる人物も消えては現れ、「わたし」とかかわりのある言葉を放ち、でも逃げ場のない圧迫感だけは間違いなく増してくる。

 なぜ「逃亡者」なのか、なにから「逃げている」のか。不明な正体がコレと特定できるように姿を現さないから、まるで自問自答する「わたし」からさえ、「逃げ出そう」としているように感じられる。

 ふと思い出したのは、2020/9/28のこの欄《言語の「原的否定性」と社会関係への参入》でもとりあげた「原的否定性」ということば。


《ダメなものはダメという(理屈抜きの)「原的否定性」を受け容れることが、社会関係に参入する「原的肯定性」に転化していく筋道を開くパラドクス。》


 生きるという現実存在そのものが、「原的否定性」を受け容れ(社会関係に参入す)ることからはじまる。それに気づくというのは、正体不明の「かんけい」の網の目にからめとられていることを感知することであり、そこから「逃亡しようとする」ことは自由を求めることを意味する。その「自由」は「原的否定性」を受け容れることからしか始まらないし、その「原的否定性」が屈辱にまみれるしかない死への道だとしたら、はたして「逃亡者」である「わたし」は、狂うしか道がないのかもしれない。そう示唆する記述にあふれる。予言的な香港のモンダイでもあった。

 そのような「物語」を書き残して著者は消える。それを本にするための帯文を引き受けた作家の言葉が掉尾を飾る。いや、掉尾とか飾るという言葉の響きは、まったく似つかわしくない。でも、この重い響きは、「掉尾を飾るように」置かれている。


《"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは”そこまで書き、ペンが止まった。〝希望”と書き、斜線で消した。/"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは……”僕はもう一度書く。でも再びペンが止まった。そこから先が、出てこなかった。》


 この末尾に登場する作家というのは、本書の読者である「わたし/あなた」だ。著者・中村文則があなたなら「そこから先」をどう続けますかと、問うている。これこそが「生苦」と受け止めはしたものの、では、どう続けるか。

 う~んと唸っているとき、傍らのTVに、香港メディアの主宰者が逮捕拘留される前の日本メディアによるインタビューが放映されていた(12/6)。「こういう取材に応じているということがさらに問題になりませんか」と気遣って問うインタビュアーに、かのメディア主宰者は(他の国の方々には)「祈ってください」と願う言葉であった。

 そうだ。「そこから先」へ言葉を継ぐとしたら「祈る」ことしかないか、と。

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